(1)水城
1,博多から12㎞
2,全長1キロ
3,高さ14メートル
4,土塁と濠
5,室町時代の連歌師宗祇「筑紫野道記」に”大きなる堤ある。いわば横たはれる山のごとし”
平安後期:大牢帥源経信の子、源俊額が京へ上るとき、水城で和歌を詠む
寿永2年:平家が大宰府から箱崎津へ逃げる際、水城を通る。
鎌倉時代: 藤原光俊(右大弁光俊朝臣)が水城の和歌を詠む
文永11年:元寇文永の役で、水城がみえる
文明12年:連歌師の飯尾宗祇、水城を通る
*『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 3 通古賀村の項に下記の記事がみられる。
苅萱関址関屋坂本村の内といふ所に西の田間にあり。
小墳を残して標に松1株立り。 名所なり。 新古今、類聚、藻塩草、夫本、宗祇筑紫紀行、玄旨法師紀行等に歌あり。
6,昭和50年、長年の発掘調査により、博多湾側にそれまで確認できずにいた水堀があったことが解明された。規模は幅60m・深さ4m。
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1,天智3年(664年)
*筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名つけて水城という
1,天智天皇4年8月
*達率答■(火+体)春初を遣わして、城を長門国かしむ、達率憶礼福津、達率四比福夫を筑紫君に遣わして、大野およびきの二城を築かしむ。
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