2016年6月26日日曜日

大宰府と張宝高

『続日本後紀』巻11,仁明天皇の条には、
「承和九年(八四二)正月乙巳
◆乙巳。新羅人李少貞等・人到筑紫大津。大宰府遣使問來由。頭首少貞申云。張寳高死。其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平。今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。又去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。仍齎閻丈上筑前國牒状參來者。』公卿議曰。少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使。彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。巧言攸稱。今覆解状云。李少貞齎閻丈上筑前國牒状參來者。而其牒状無進上宰府之詞。無乃可謂合例。宜彼牒状早速進上。如牒旨無道。附少貞可返却者。或曰。少貞今既託於閻丈。將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎。須問李忠等。若嫌与少貞共歸。隨彼所願。任命遲速。又曰。李忠等廻易事畢。歸向本郷。逢彼國乱。不得平著。更來筑前大津。其後於呂系等化來云。己等張寳高所攝嶋民也。寳高去年十一月中死去。不得寧居。仍參著貴邦。
▼是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。縱境外之人。爲愛土毛。到來我境。須欣彼情令得其所。而奪廻易之便。絶商賈之權。府司不加勘發。肆令并兼。非失賈客之資。深表無王憲之制。仍命府吏。所取雜物。細碎勘録。且給且言。兼又支給粮食。放歸本郷。」

とある。我々の関心に従って、この記事を考察する為に、全文を4段に分割しておきたい。

(1)「①乙巳。新羅人李少貞等四十人到筑紫大津。大宰府遣使問來由。頭首少貞申云。張寳高死。其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平。今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。又去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。仍齎閻丈上筑前國牒状參來者。

②公卿議曰。少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使。彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。巧言攸稱。今覆解状云。李少貞齎閻丈上筑前國牒状參來者。而其牒状無進上宰府之詞。無乃可謂合例。宜彼牒状早速進上。如牒旨無道。附少貞可返却者。

③或曰。少貞今既託於閻丈。將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎。須問李忠等。若嫌与少貞共歸。隨彼所願。任命遲速。

④又曰。李忠等廻易事畢。歸向本郷。逢彼國乱。不得平著。更來筑前大津。其後於呂系等化來云。己等張寳高所攝嶋民也。寳高去年十一月中死去。不得寧居。仍參著貴邦。

⑤是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。縱境外之人。爲愛土毛。到來我境。須欣彼情令得其所。而奪廻易之便。絶商賈之權。府司不加勘發。肆令并兼。非失賈客之資。深表無王憲之制。仍命府吏。所取雜物。細碎勘録。且給且言。兼又支給粮食。放歸本郷。」


(2)この記事の眼目は、張宝高の死である。その原因は、「其副將李昌珍等欲叛亂。武珍州列賀閻丈興兵討平」である。④に見るとおり「寳高去年十一月中死去」が史実であれば、彼は承和8年(841)11月に死去したと考えられる。しかしながら、韓国側の資料に照らし合わせれば、文聖8年(846)と記録する(『三国史記』)。現段階では、その違いを埋める手立てを持たないので、ここでは日本側資料に依拠しておきたい。張宝高の生年は未詳である。

(3)しかしながら、①に見るとおり、単に張宝高の死を通知することが目的でもなければ、また「今已無虞。但恐賊徒漏網。忽到貴邦。擾乱黎庶。」の恐れを伝達することでもない。ましてや「若有舟船到彼不執文符者。並請切命所在推勘收捉。」というアドバイスでも無いはずである。それほどの親切心が新羅人李少貞等にあるとも思えない。なぜならば、②に見るとおり、「少貞曾是寳高之臣。今則閻丈之使」であり、彼の忠誠心を疑えば、切りが無いからである。

(4)結論から言えば、本記事の真の目的は「去年廻易使李忠揚圓等所齎貨物。乃是部下官吏及故張寳高子弟所遺。請速發遣。」(①)が語るように、張宝高が大宰府に輸出した交易品の返還要求であるにちがいない。

(5)その推測が大きな誤りでないことは、②の「其情不遜。所通消息。彼此不定。定知。商人欲許交通。」で傍証できよう。公卿にとって、新羅人李少貞等が商人であるという前提で、「彼新羅人。其情不遜。所通消息。彼此不定。」ともある。

(6)「如牒旨無道。附少貞可返却者。」(②)とあれば、それでよかったが、公卿の判断は異なった。
「將掠先來李忠揚圓等。謂去年廻易使李忠等所齎貨物。乃是故寳高子弟所遺。請速發遣。今如所聞。令李忠等与少貞同行。其以迷獸投於餓虎」とあった。

(7)事件は大きく転換する。「是日。前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂。取李忠等所齎雜物。」(⑤)とあり、前筑前國守丈室朝臣宮田麻呂によって、張宝高配下の李忠等が持参した「雜物」は差し押さえられていたことが判明したからである。宮田麻呂によると、その弁解は「其詞云。寳高存日。爲買唐國貨物。以絁付贈。可報獲物。其數不尠。」とあり、張宝高がもたらす中国製品(「唐国貨物」)を日本産の「絁」で購入する約束であったが、その中国製品が何であったかは不明であるとしても、「其數不尠。」とある以上、大量な交易品を約束して、宮田麻呂は「先払い」したらしい。

(8)しかしながら、張宝高の死によって、その取引は宮田麻呂の損失が生じかねなかったので、「正今寳高死。不由得物實。因取寳高使所齎物者。」だと説明するに至る。

(9)この報告が宮田麻呂に関する記事ではないので、ここで我が愚考は終えるが、当時、宮田麻呂は大宰府に在勤していた富豪であったと推定しておきたい。



0 件のコメント:

コメントを投稿