(1)とはいえ、まずは『続日本紀』天平勝宝4年(752)閏3月22日条にある、
「己巳、大宰府奏、新羅王子韓阿飡金奏廉、貢調使大使金喧及王子使金弼言等七百余人、乗船七艘来泊」
の記事に注目すべきであろう。
同・天平勝宝四年(七五二)六月己丑の条に、
「○六月己丑。新羅王子金泰廉等拝朝。并貢調。因奏曰。新羅国王言日本照臨天皇朝庭。新羅国者。始自遠朝。世世不絶。舟楫並連。来奉国家。今欲国王親来朝貢進御調。而顧念。一日無主。国政弛乱。是以。遣王子韓阿飡泰廉。代王為首。率使下三百七十余人入朝。兼令貢種種御調。謹以申聞。詔報曰。新羅国、始自遠朝。世世不絶。供奉国家。今復遣王子泰廉入朝。兼貢御調。王之勤誠。朕有嘉焉。自今長遠。当加撫存。泰廉又奏言。普天之下、無匪王土。率土之浜、無匪王臣。泰廉、幸逢聖世。来朝供奉。不勝歓慶。私自所備国土微物。謹以奉進。詔報。泰廉所奏聞之。」
とあり、
同・天平勝宝四年(七五二)六月壬辰の条に
「○壬辰。~~是日。饗新羅使於朝堂。詔曰。新羅国来奉朝庭者。始自気長足媛皇太后平定彼国。以至于今。為我蕃屏。而前王承慶・大夫思恭等。言行怠慢。闕失恒礼。由欲遣使問罪之間。今彼王軒英。改悔前過。冀親来庭。而為顧国政。因遣王子泰廉等。代而入朝。兼貢御調。朕所以嘉歓勤款。進位賜物也。又詔。自今以後。国王親来。宜以辞奏。如遣余人入朝。必須令齎表文。
とあり、また、
同・天平勝宝四年(七五二)六月丁酉条にも、
「○丁酉。泰廉等就大安寺・東大寺礼仏。」
とあり、
天平勝宝四年(七五二)七月戊辰条に、
「○戊辰。泰廉等還在難波館。勅遣使賜絁布并酒肴」
とある。今、この場では「王子」の語句はそのままに「新羅王子」と解釈しておきたい。
(2)だからこそ、「買新羅物解」に見える品々が参考となろう。
なお、この資料は江戸時代の天保年間に正倉院から流出し、偶然に公益財団法人前田育徳会が購入した。その後、1993年(平成5年)6月10日に重要文化財(第143号)となった。
文化庁の説明によると、
「天平勝宝四年(七五一)に来朝した新羅の使節がもたらした種々の物品について、貴族らがその購入を申請した文書である。もとは正倉院の鳥毛立女屏風の下貼に用いられていた文書で、現在も正倉院に残る十通余と一連のもので、左の七通からなる(カッコ内は寸法で、縦×横。単位はセンチメートル)。
(一) 天平勝宝四年六月十五日右大舎人大初位上中臣伊勢連老人解(二八・二×二六・四)
(二) 天平勝宝四年六月十七日従四位下小槻山君広虫解(〈右半〉二八・三×一三・〇 〈左半〉二六・五×一三・八。ただし、もと二通の可能性もある)
(三) 天平勝宝四年六月十七日事業従七位上置始連五百足解(一八・〇×一三・一)
(四) 天平勝宝四年六月廿日某解(二九・二×二六・四)
(五) 天平勝宝四年六月廿三日某解(二九・三×五一・四)
(六) (年月日未詳)飯高嶋□解(二八・七×三四・一)
(七) (年月日未詳) 鼓吹司正外従五位下大石某解(一七・五×五六・三)
各文書は屏風下貼に用いられたため切断や破損が著しいが、文書の形式は解【げ】の形をとるものが多い。内容は、それぞれ購入すべき品目とその全体の価直を掲げ、文書の日付は正倉院にあるものも含めて天平勝宝四年六月十五日から同月二十六日の間に集中している。購入品目は、香料、薬物、顔料や鏡などの金属器が多く、人参、松子【まつのみ】など新羅特産品とみられるものもあるが、香料などには東南アジア、インド等に産するものも含まれ、当時の新羅商人の広域な交易活動をうかがわせている。」(「文化遺産データベース」http://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/206110)
とあり、新羅の「交関物」の内容を推測させる。
(3)なお、「新羅の交関物」の語句は、
『続日本紀』神護景雲二年(七六八)十月甲子にも、
「○甲子。充石上神封五十戸。能登国気多神廿戸。田二町。」賜左右大臣大宰綿各二万屯。大納言諱。弓削御浄朝臣清人各一万屯。従二位文室真人浄三六千屯。中務卿従三位文室真人大市。式部卿従三位石上朝臣宅嗣各四千屯。正四位下伊福部女王一千屯。為買新羅交関物也。」
とある。
(4)ところで、『安祥寺資財帳』天長10年(833)には、
「余、昔被拝大宰府講師兼筑前国講師之日、新羅商客頻々往■(来か?)貨齋銅鋺畳子等」
とあり、「新羅商客」の名から推測されるのは、貿易商の存在である。
(5)いずれにせよ、新羅商客と日本人はいかなる共通語でコミュニケーションを取ったのだろうか。
(3)なお、「新羅の交関物」の語句は、
『続日本紀』神護景雲二年(七六八)十月甲子にも、
「○甲子。充石上神封五十戸。能登国気多神廿戸。田二町。」賜左右大臣大宰綿各二万屯。大納言諱。弓削御浄朝臣清人各一万屯。従二位文室真人浄三六千屯。中務卿従三位文室真人大市。式部卿従三位石上朝臣宅嗣各四千屯。正四位下伊福部女王一千屯。為買新羅交関物也。」
とある。
(4)ところで、『安祥寺資財帳』天長10年(833)には、
「余、昔被拝大宰府講師兼筑前国講師之日、新羅商客頻々往■(来か?)貨齋銅鋺畳子等」
とあり、「新羅商客」の名から推測されるのは、貿易商の存在である。
(5)いずれにせよ、新羅商客と日本人はいかなる共通語でコミュニケーションを取ったのだろうか。
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