対馬に多い姓氏に、阿比留がある。
この姓が「畔蒜」と関連を持つとは誰しも可能な連想である。この畔蒜を一字一音の音仮名に書き換えただけだからである。
そこで、日本地図上に畔蒜を探し求めると、周知のとおり、『倭名類聚抄』記載の上総国畔蒜郡に逢着する。現在の千葉県君津市付近である。
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏5行目 畔蒜郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 美々
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 小河[乎加波]
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 甘木[安万木]
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 新田
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目 椅原
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目 三衆[美毛呂]
この地名は『延喜式』にも見え
上總国大〈管〉〈市原 海上 畔蒜 望陀 周淮 天羽 夷灊 埴生 長柄 山辺 武射〉
とある。
そして『日本霊異記』中巻 第26話にも、「上総国武射郡人(一云畔蒜郡人也)」の出身者(流人)が登場する。
さて、上総国畔蒜郡の者がルーツであるとの確証はないけれども、対馬の阿比留氏定着に至る仮説は立てられるだろう。
仮説1)律令時代に上総国畔蒜郡の防人が対馬に徴用され、そこに定住した
仮説2)律令時代に上総国畔蒜郡の者が対馬国に流罪となった
仮説3)時代は不明であるが、漁業を生業とする上総国畔蒜郡の者が対馬にわたり、そこに定着した。
仮説4)対馬に外寇が押し寄せたとき、上総国畔蒜郡の者がが来島し、そこに定着した。
ただし、資料の初見は、多久頭魂神社梵鐘の銘文にある、
「讃・奥書・銘文: (陰刻で池の間の4区を埋めているが、第1区の銘文のみを記す) 奉懸鋳洪鐘 日本国管対馬嶋下県郡酘豆(ママ)御寺前 檀越正六位上権掾阿比留宿称良家 以去寛弘五年八月二十八日鋳之畢 後者以去仁平三年十月三日鋳増畢 願主正六位上行掾阿比留宿称𠮷房」(
- 寛弘五年(1008)を下限とする仮説を立てなくてはならない。
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