2025年10月16日木曜日

対馬の阿比留氏と上総国畔蒜郡

 対馬に多い姓氏に、阿比留がある。

この姓が「畔蒜」と関連を持つとは誰しも可能な連想である。この畔蒜を一字一音の音仮名に書き換えただけだからである。

そこで、日本地図上に畔蒜を探し求めると、周知のとおり、『倭名類聚抄』記載の上総国畔蒜郡に逢着する。現在の千葉県君津市付近である。

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏5行目          畔蒜郡   

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目                           美々

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目                           小河[乎加波]

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目                           甘木[安万木]

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目                           新田

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目                           椅原

6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目                           三衆[美毛呂]


この地名は『延喜式』にも見え

上總国大〈管〉〈市原 海上 畔蒜 望陀 周淮 天羽 夷灊 埴生 長柄 山辺 武射〉

とある。

そして『日本霊異記』中巻 第26話にも、「上総国武射郡人(一云畔蒜郡人也)」の出身者(流人)が登場する。


さて、上総国畔蒜郡の者がルーツであるとの確証はないけれども、対馬の阿比留氏定着に至る仮説は立てられるだろう。

仮説1)律令時代に上総国畔蒜郡の防人が対馬に徴用され、そこに定住した

仮説2)律令時代に上総国畔蒜郡の者が対馬国に流罪となった

仮説3)時代は不明であるが、漁業を生業とする上総国畔蒜郡の者が対馬にわたり、そこに定着した。

仮説4)対馬に外寇が押し寄せたとき、上総国畔蒜郡の者がが来島し、そこに定着した。


ただし、資料の初見は、多久頭魂神社梵鐘の銘文にある、

讃・奥書・銘文: (陰刻で池の間の4区を埋めているが、第1区の銘文のみを記す) 奉懸鋳洪鐘 日本国管対馬嶋下県郡酘豆(ママ)御寺前 檀越正六位上権掾阿比留宿称良家 以去寛弘五年八月二十八日鋳之畢 後者以去仁平三年十月三日鋳増畢 願主正六位上行掾阿比留宿称𠮷房」



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