2025年10月6日月曜日

那賀郡と那珂郡

 福岡県那珂川町の『那珂」に関するエッセイ


律令時代、日本全国に

1,那賀:伊豆・石見・紀伊・阿波

2,那珂:武蔵・讃岐・筑前・日向

に「ナカ郡」があった。

 そして倭名類聚抄によると、那賀・那珂の名称をもつ郷名は16か所を数える。


まず、漢字音からいえば、「珂」は「カ」、「賀」は「KaともGa」とも読む。

語構成で言えば、「ナ+カ」であり、このうちで「カ」は「あり」とも「すみ」との語で判明するように、清音「か」で「場所」を意味する。「大海のおくれも知らず行く我を」(万葉集3897番歌)とか、「天雲の奥香も知らず恋ひつつぞ居る」(万葉集3030番歌)も同一である。なお、「海賀行けば腰なづむ」(景行記)の「海+ガ」は先行する「う+Mi」の鼻音に影響されて濁音化した例である。

したがって、二つの漢字表記共に「ナカ」と読む。その古形は「ナ」。




2025年10月5日日曜日

古代神津島は古代スクレパー黒曜石の産地ーー小田静雄氏の研究の紹介

以下の記述は

小田静夫「黒曜石分析から解明された新・海上の道-列島最古の旧石器文化を探る④-」

『多摩考古』45, 2015.5(pp1-13)所収

に全面的に依拠した。

小田静雄によると

「黒曜石は火山ガラスで割れ口は鋭く、また加工し易い美しい石材で、他の石材(チャート、砂岩、安山岩)に比べて群を抜いて優れた「石器」に適した岩石であった。特に細かい整形を必要とする両面加工の尖頭器や特に「石鏃」、また鋭い刃部が要求されるナイフ形石器、スクレイパーなどに多用された。この事実から、黒曜石は日本の先史時代(旧石器、縄文時代)を通じて、石器製作の材料として重要な役割を果たした石材でもあった(小田1984)。

 しかし黒曜石は、どの火山でも産出するものではない。つまり酸性の火山岩-流紋岩-に伴う火山ガラスで、日本では北海道(白滝、置戸、十勝)、本州中央部(長野・和田峠、霧ヶ峰、静岡・箱根<柏峠>、東京・神津島<恩馳島>)、九州地方(佐賀・腰岳、大分・姫島)に良質の産出地が存在し、京都大学の藁科哲男・東村武信の集計で全国には80ヵ所近くの原産地が登録されている(藁科・東村1988)。」


しかも、
神津島産が二つの原石群、神津島第1群<恩馳島・長浜・沢尻湾>と第2群<砂糠崎・長浜・沢尻湾>)に細分できることが判明した(藁科・東村1984)。その結果、今まで謎であった遺跡出土の良質の石器類が、神津島第1群(特に恩馳島産)に一致することが確かになった(小田1997,2000)。」

である。

1ちなみに安房国内の13遺跡で出土した19点の黒曜石の産地同定では、そのうちの18点が神津島産であった。



木簡に見る「私部」考

 奈文研のデータベース「木簡庫」による検索結果をもとに、私見では、「私部」データは43。

これらをまず地名・国名で分類したい。


(1)未詳

①{私部時石\○私部}」

藤原京左京七条一坊西南坪

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHJ17000124


(2)未詳

①「§私部□□」

藤原京左京七条一坊西南坪

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHJ17000125」


(3)未詳

①「私部□〔直ヵ〕□○勝福足○長谷廣□〔次ヵ〕\□守男廣○倉人□□○〈〉・〈〉\〈〉」

東大寺大仏殿廻廊西地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK011027000021

(4)隠岐国

①「隠伎国周吉郡○/新野郷布勢里私部□□/調海藻六斤○天平六年∥」

海藻は「め」

平城京左京三条二坊一坪二条大路南側溝

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK017008000002

④>>

『延喜式』主計式上条 50 

隠伎国〈行程、上三十五日、下十八日〉

 調、御取の鰒、短鰒、烏賊、鼠海熬、鮹の腊、雑の腊、紫菜(のり)、海藻、嶋蒜(あさつき)

 庸、布を輸せ。

 中男作物  雑の腊、紫菜

⑤>>私部の分布

1,周吉郡 

   上部郷

   新野郷

2,役道郡


⑥天平4年隠岐国正税帳

周吉郡

              穀(斛)    穎稲(束)    備考 

繰り越し  現定稲穀  9190.8925    3100 

支出    賑給-    ー47.2 賑給58人 

支出   改造神社          - 298       改造神社料 

収入    田粗    158.55

 支出    免稲           -58       死百姓5人、免本稲58束

 収入   出挙利稲          342 

 決算   今年定   9302.2425    3086

 倉庫数  17       不動穀5・動用穀1・頴1・郡稲4・公用稲

 





(5)安房国

安房国朝夷郡健田郷仲村里戸私部真鳥調鰒六斤三列長四尺五寸束一束養老六年十月

平城宮造酒司地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACVS15000110④量の表示は、八世紀初頭頃に、

⑤一大斤=三小斤=約670グラム

⑥健田の読み

『倭名類聚抄』東急本の訓「多介太」。

1,□〔朝ヵ〕夷郡健田郷中村里戸主□〔額ヵ〕(

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD19000353)

2,「安房国朝夷郡健田郷」柏原里卜部神調鰒六斤為壱籠五烈○/長三尺/○天平五年十月∥(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO42000223)

3,上総朝夷郡健田郷戸主額田部小君戸口矢作部林調鰒六斤○/卅四条/○天平十七年十月∥(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AABUS48000746)


4、朝夷郡健田郷戸主額田部小君戸口矢作部林調鰒六斤/卅四条/○天平十七年十月∥(https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AABUS48000747)




(6)未詳

・秦近万呂○長谷部百足\「大少事虎」\雀部男虎○私部大万呂・右四人廿三日不宿直\○

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

tps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF09000104


(7)未詳

①私部

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF09003004


(8)未詳

私部大万呂/物部荒嶋∥後夜

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF10000190


(9)未詳

・南門○笠○蝮・私部○右五人常食

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF11000127


(10)未詳

私部古麻

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF11004000


(11)淡路邦

淡路国□○…・戸主私部美□…

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJF13000130


(12)未詳

□□〔私ヵ〕部足嶋\○□□〔麻呂ヵ〕

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJFZZ000291


(13)未詳

・〈〉○□□□麻呂○□□〔桧前ヵ〕□□\○大田部伯麻呂○長谷部黒虫・私部廣国○吉師大名\□□□〔国〕□○□

平城京左京三条二坊八坪東二坊坊間路西側溝

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJC07000106


(14)大和国

・矢口司進上意比一斗○進上人私部亥万呂・○九月十一日太津嶋

平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITD11000192

(15)未詳

竹野王子御服粉米二升○受私部老○十二月廿四日稲虫

平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITD11000193


’16)未詳

御酒□〔醸ヵ〕所充仕丁○/蘇我部道○朝倉小常石/椋部呰○私部小毛人∥○右四人◇・「大𤭖米三石麹一石水□石○次𤭖米二石麹一石水二石二斗○次𤭖米一石麹八斗□𤭖米□石\麹一石水□石二斗○次𤭖二石麹八斗水二石一斗○少𤭖米一石麹四斗水一石五升」◇

平城京左京三条二坊一・二・七・八坪長屋王邸

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITZ11000153


(17)未詳

①[私部〈〉麻呂・調堅魚九連六節」

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO11000126


(18)未詳

§私部三年

②平城宮東方官衙地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAFJF27034486


(19)未詳

私部三□〔年ヵ〕

②平城宮東方官衙地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAFJF27040680


(20)隠岐国隠地郡隠伎国役道郡余戸郷

隠伎国役道郡余戸郷大私部目代調短鰒六升○天□〔平ヵ〕勝寶四年

隠岐国隠地郡隠伎国役道郡余戸郷

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ABREE51000106

四周削り。表面は、切り込み部分に白く紐の痕跡が残る。「隠伎国役道郡」は、『和名抄』の隠岐国隠地郡にあたる。





(21)未詳

□□部富乎五斗私部枚石一斗并六斗

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6BFKEM73000103

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6BFKEM73000103


(22)未詳

私部飯□〔万ヵ〕

平城宮式部省東方・東面大垣東一坊大路西側溝

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAIBH14000129


(23)

廣嶋○□〔私ヵ〕部老○合十人○従朝来

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD17000503

削屑。上端・左辺は原形を保つ。朝来郡の人物を記した歴名の削屑。「従朝来」とみえ、この木簡に列挙されたであろう「廣嶋」「私部老」など10名が、但馬国朝来郡ゆかりの人物であることを示す。私部は木簡106(但馬集成19頁-(106))参照。平城京跡左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(第204次調査)SD5300出土(以上、但馬集成より)。


『和名類聚抄』

山口・桑市・伊田(伊由の誤記)・賀都・東河(トガ)・朝来・粟鹿(アワガ)・磯部
の八郷に村数79。


⇒但馬国朝来郡の有力氏族は日下部氏。なお、播磨国揖保郡に日下部里がある。この両地域に日下部氏の支配が及んでいたか。



但馬国

史料1〕『播磨国風土記』揖保郡越部里条
 越部里(旧名皇子代里)土中々。所三以号二皇子 代者、勾宮天皇之世、寵人但馬君小津、蒙 寵 賜 姓、為皇子代君而。造三宅於此村一、令仕 奉之。故曰皇子代村。後、至上野大夫結卅 戸之時上。改号越部里。一云、自但馬国三宅越 来、故号越部村。
 〔史料2〕『日本三代実録』元慶元年(877)四月十六日条 
詔曰、朕聞、善政之報霊 不 違、洪化之符神輸必至、朕以寡薄、辱奉不基、徳末動天、恵非 感 物。而去正月即位之日、但馬国獲白雉一、 二月十日尾張国言。木連理、閏二月廿一日、備後 国白鹿一。~(中略)~、宜 復尾張・但馬・備後等 三国百姓当年徭役十日。就 中瑞所 出土、特須 優矜。其葦田郡勿 輸、今年之調。春部及養父郡並 免当年之庸。其接得神物者多治部橘、但馬公 得継等叙正六位上、賜 物准 例。
⇒但馬公得継は養父郡の有力氏族であった。


〔史料3〕 『先代旧事本紀』「国造本紀」吉備品治国造 条 
吉備品治国造。志賀高穴穂朝。多遅麻君同祖若角 城命三世孫大船」
⇒『古事記』開化天皇条
次山代之大筒木眞若王、娶同母弟伊理泥王之女・丹波能阿治佐波毘賣、生子、迦邇米雷王。迦邇米三字以音。此王、娶丹波之遠津臣之女・名高材比賣、生子、息長宿禰王。此王、娶葛城之高額比賣、生子、息長帶比賣命、次虛空津比賣命、次息長日子王。三柱。此王者、吉備品遲君、針間阿宗君之祖。又息長宿禰王、娶河俣稻依毘賣、生子、大多牟坂王。多牟二字以音。此者多遲摩國造之祖也。」

〔史料4〕『日下部系図』

養父郡大領。天智天皇御宇、異賊襲来時、為防戦大将。賜日下部姓、於戦場、被 退忽異賊。朱雀元 年甲申三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉 祝表米大明神」

しかしながら、論証を省略するが、この系図は後年の作為であったと考えてよい。

(24)隠岐国周吉郡上部郷隠伎国周吉郡上部郷訓議里

・隠伎国周吉郡○/上部郷訓議里私部/足麻呂調烏賊六斤∥○天平七年・「尾○□」(裏面「尾○□」は刻書)

平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD19000119


(25)未詳

私部足大□〔尻ヵ〕十顆・天平八年九月十日

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO35000114


(26)隠岐の国

隠伎国役道郡武良郷○/□「私部綿麻呂」/調「乃利二斤」∥

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO38000107


(27)隠岐国周吉郡新野郷隠岐国周吉郡新野郷丹志里〉

〈〉郡/新野郷丹志里私部□男∥

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO41000313


(28)安房国安房郡利鹿郷安房国安房郡利鹿郷岡名里〉

安房国安房郡利鹿郷岡名里私部金鰒調陸斤○伍拾伍条○天平七年十月

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO42000147




(23)隠岐国周吉郡新野郷隠伎国周吉郡新野郷布勢里

隠伎国周吉郡○/新野郷布勢里私部/羽□〔按ヵ〕調烏賊六斤∥○天平七年

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO46000210


(24)淡路国津名郡安平郷

淡路国津名郡安平郷私部足理・三斗○天平六年

平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFIUO48000160

安平郷☆津名郡天平20.9.-748〔平城京跡木簡〕【安平】淡路国津名郡安□(乎)郷人夫〈戸主磯秦僧一斗五升同/廣山三斗戸主私マ角五升/合一俵 天平廿年九月


(25)未詳

私部田目五戸

平城京左京三条二坊八坪長屋王邸

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITG26000144


(26)未詳

←□私部果安庸→

平城宮内裏東方東大溝地区

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AADEC27000123


(27)未詳

大生子安○§私部乙君\猪甘庭万呂§〈〉里千山・十月廿二日

平城宮内裏東方東大溝地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AADER27000125


(28)未詳

私部足嶋\○□嶋

平城宮内裏東方東大溝地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AADER27000555


(29)未詳

五保私部□〔質ヵ〕比万呂列/石部□〔直ヵ〕→/十一□→∥

平城宮宮城南面西門(若犬養門)地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ACUES47000024



(30)伊勢国奄芸郡窪田郷伊世国奄伎郡久菩多里

・伊世国奄伎郡・久菩多里私部小□□

平城宮東院地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALRSC42000012


(31)丹後国熊野郡私部郷私里〉)(丹波国何鹿郡私部郷私里〉)(因幡国八上郡私部郷私里〉)(肥後国飽田郡私部郷私里〉)

私里丹生波田六斗持□

平城宮内裏西南隅外郭

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ABEGP41000016

上端折れ、下端切断、左右両辺削り。上端左右に切り込みの痕跡が残る。「私里」は後の私部郷で、『和名抄』によると、丹後国熊野郡私部郷・同何鹿郡私部郷・因幡国八上郡私部郷・肥後国飽田郡私部郷がみえる。米の荷札とみられるので、丹後国の荷札である可能性が高いと思われる。同国私部郷(私里)の出土例として、平城宮跡東院地区南方の二条条間大路南側溝(平城第四四次調査)から出土した「丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升」(『平城木簡概報』六―八頁)、藤原宮跡北辺地区(奈良県調査)から出土した「熊野評私里」(奈良県教育委員会『藤原宮』一〇号)の二点が知られる。なお、天平勝宝元年(七四九)十二月十九日丹後国司解案には、丹後国熊野郡に大私部広国がみえる(東南院文書五―四〈『大日本古文書』東南院文書之三―六二五号。以下『大日古』東南院三―六二五〉と略記す)。



(33)丹後国熊野郡私部郷

丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升

平城宮二条条間大路南側溝

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGAK58000003


(34)未詳

・←□□|\/〈〉○□/○□□八/古道○八∥|/私部公足□〔八ヵ〕/私部三□/月□□∥・○□□

平城宮宮域東南隅地区・二条大路

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAINC51000031


(35)未詳

舟木→・私部志→

平城宮内裏東方官衙地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AACHU27000023



(36)未詳

「/□□女女/女女五五五五/○□□仕仕∥」/○右九人内□〔侍ヵ〕/□□〔私部ヵ〕□□□□〔奈布女ヵ〕∥○【「/○〈〉/本□□□∥」】・○〈〉\〈〉千千□千千之○〈〉\○〈〉○〈〉

平城宮内裏北方官衙地区

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AABUS48000487


(37)但馬https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ADBSB25000101

髙向部綿万呂○西倉東方部文月雀部乙江○三綱炊屋日下部大万呂\○□□□○□刑部小川○北倉赤染部得麻呂○鋳所東方部公磐倉\○物部乙日○官坐私部宇万呂○◇\○大生部弓手○〈〉・○□□〔領ヵ〕○/土師○日置○水取部○◇/宗我部毘登○物部○水取部真梶∥

但馬国分寺〈KS5B区〉

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK036196000002


④上端折れ、下端・左右両辺削り。檜・板目。下端左寄りに径5mmの孔を穿つ。「刑部小川」の左下にも小さな孔がある。本木簡にみえる但馬国分寺の施設は、「西倉」「北倉」「三綱炊屋」「鋳所」「官坐」がある。今泉隆雄は、「西倉」「北倉」と「封御倉」(「朔御倉」とする)を倉垣院に所属する倉とみた(今泉1998)。市大樹は、現状では方位の名称のみで、多くの倉が立ち並んだ倉垣院とは考えにくく、大衆院内施設とみる(市2013)。「三綱炊屋」は、寺の役僧である上座・寺主・都維那(三綱)のための炊飯施設。西大寺や興福寺食堂院にある衆僧のための炊飯施設「大炊屋」とは別で、「政所院炊屋」とはせず、「三綱炊屋」と表記することから、三綱が政所院という独自の院を形成せず、政所は大衆院に含まれる(今泉1998)。寺院地東端部でおこなった第25次調査において、SD200bから墨書土器「三綱」(864)が出土している。「鋳所」は、鋳造をおこなう工房。木簡109(但馬集成20頁-109)にもみえる。東大寺の場合、造東大寺司に所属する下部機関としてみえる(天平宝字6年(762)4月1日造東大寺司告朔解など。正倉院文書続修後集第33巻第1紙・『大日古』五188)。今泉隆雄は国分寺造営に関わる官司とみるが、国分寺の造営には造寺司を置かず、造営の現場は国司の管轄する機構に属し、大衆院とは別と理解する(今泉1998)。市大樹は、三綱が造営・修繕に重要な役割を果たしており、鋳所も大衆院に属するとみた(市2013)。寺院地東端部で石敷きを施した炉跡SL280・281などの冶金工房(第29次調査)、坩堝・鞴羽口・砥石・比熱土器など冶金関連遺物が出土しており(第24次調査)、国分寺工房のうち鋳所の位置が確定するとともに、創建期から9世紀までこの地で冶金をおこなっていたことがあきらかになった。「官坐」は、木簡105(但馬集成18頁-105)にみえる「官舎」か。高向部は不詳。高向氏は、武内宿禰後裔氏族の一つ。河内国錦織郡がその本拠地。『新撰姓氏録』右京皇別上に高向朝臣、右京諸蕃下・未定雑姓右京に高向村主、逸文に高向村主・高向調使・高向史がみえる。東方部は不詳。本木簡の「東方部文月」「東方部公磐倉」のほかみえない。『続日本紀』に「東方王」がみえ(天平宝字8年(764)10月己丑条など)、新日本古典文学大系本は「あづま(のおう)」と読むことを参照すれば「あづまべ」、東漢氏によれば「やまとべ」などと読むべきか。雀部氏は、仁徳天皇の名代部である雀部の伴造氏族。臣姓の雀部氏には巨勢氏系で武内宿禰後裔と称する系統と多氏系で神八井耳命の後裔と称する系統があり、ほかに造・連・君・直姓が知られる。『新撰姓氏録』左京皇別上・摂津国皇別に雀部朝臣、和泉国皇別に雀部臣がみえる。本木簡に「雀部乙江」、但馬国養父郡に「雀部国富」(元慶7年(883)9月15日観心寺勘録縁起資財帳。前掲)がみえる。赤染氏は、染色・祭祀に携わった渡来系氏族。『新撰姓氏録』不載姓氏録姓にみえる。本木簡の「赤染部得麻呂」のほか、朝来郡桑市郷に「赤染部大野」がみえ(天平勝宝2年(750)正月8日但馬国司解。東南院文書第4櫃附録第9巻『東南院』三602号)、隣国因幡国八上郡に、宝亀8年(777)常世連の姓を賜った「赤染帯縄」がみえる(『続日本紀』同年4月乙未条)。私部氏は、名代的伴造氏族の一つ。后妃の私有民である私部を管轄した。本木簡に「私部宇万呂」、但馬国分寺跡に「私部廣床女」(木簡107(但馬集成19頁-107))、二方郡温泉郷の「私部庭足」(木簡126(但馬集成22頁-126))がみえる。天平宝字6年(762)に但馬国気多郡余部郷の「私部意嶋」「私部酒主」がみえ、「貢上人」の右大舎人少初位上私部得麻呂もあるいは同郷の人か(12月16日私部得麻呂漆工貢進文。正倉院文書続々修第46帙第9巻第3紙・『大日古』十六58)。但馬の私部氏は、朝来郡在地豪族の日下部氏から大化以後に分派したと推測されている(佐伯有清「但馬の日下部氏の系譜伝承」前掲)。隣国にも、丹波国船井郡船井里に「私部智国」「私部継人」(正倉院丹裹古文書第24号内包紙裏・『大日古』二十五81)、丹後国熊野郡に「大私部廣國」(天平勝宝元年(749)12月19日丹後国司解。東南院文書第4櫃附録9巻・『東南院』三603号)、因幡国高庭庄(延喜5年高庭庄坪付)に散見する。「大生部」は壬生部か。土師氏は、埴輪や土器の製作、葬礼、陵墓などを管理した土師部の伴造氏族。『新撰姓氏録』右京神別下・山城国神別・大和国神別・和泉国神別に土師宿禰、摂津国神別・和泉国神別に土師連がみえる。本木簡に「土師」、但馬国分寺跡に気多郡思往郷の「土師部山廣」(木簡139(但馬集成23頁-139))がみえる。出石郡穴見郷に「土師部美波賀志」(天平勝宝2年(750)正月8日但馬国司解。東南院文書第4櫃附録第9巻・『東南院』三602号)、隣国丹後国竹野郡間人郷に「土師部乙山」(『平城宮木簡四』4666号)、因幡国益上郡大江里に「土師首麻呂」「土師麻呂」がみえる(正倉院丹裹古文書第79号外包括紙紐・『大日古』二十五132)。本木簡の「宗我部毗登」は蘇宜部首。天平勝宝9歳(757)に首・史姓を毗登に改め、宝亀元年(770)9月さらに本字に戻した(『続日本紀』同月壬戌条)ことから、この木簡の年代が限定される。『新撰姓氏録』河内国皇別に蘇宜部首、不載姓氏録姓に宗我部がみえる。二条大路木簡に城崎郡田結郷の「宗我部□」(木簡443(但馬集成51頁-443))がみえるほか、出石郡少坂郷に「宗賀部乳主」(天平勝宝2年(750)正月8日但馬国司解。東南院文書第4櫃附録第9巻・『東南院』三602号)、隣国の播磨国多可郡奈何郷に「宗我部小敷」「宗我部老人」(正倉院丹裹古文書第70号内包裏・『大日古』二十五125)がみえる。「日置部」は、神霊を迎えるためにともす聖火の材料調達や製作、および炭焼きなどにあたる部民。『新撰姓氏録』右京皇別下に日置朝臣、左京諸蕃下・右京諸蕃下・大和国諸蕃・摂津国諸蕃に日置造、大和国諸蕃に日置倉人、未定雑姓和泉国に日置部がみえる。『和名抄』の気多郡に日置郷がみえ、式内社日置神社がみえる。『日本三代実録』によると、貞観17年(875)、但馬国美含郡人「日置部小手子」がみえ、権大領外従八位上日下部良氏の妻で夫亡き後、節婦として叙位された(10月8日丁巳条)。元慶3年(879)、但馬国気多郡人「彼国前医師従八位上日置部是雄」「无位日置部衣守」が、不動糒倉を放火して焼き、一等を免じて遠流とされた(12月15日庚子条)。隣国の丹波国に多気郡大領の「日置公」(延喜15年(915)9月11日東寺伝法供家牒。東寺文書六芸之部礼9-2号・『平安遺文』212号)などがみえる。水取部は、かつて宮廷で飲水のことを掌った部民(水部)。『新撰姓氏録』左京神別上・右京神別上に水取連がみえる。本木簡の「水取部」「水取部真梶」のほか、但馬国にはみえない。刑部は木簡32(但馬集成8頁-32)、物部は木簡23(但馬集成6頁-23)、壬生氏は木簡20(但馬集成6頁-20)参照。



<参考文献>

土田可奈「私部の伝領と皇后一安房・若狭•隠岐・淡路の事例を 中心に一」(『佐渡・越後文化交流史研究』4 、2004年) 



(38)但馬

・□〔仕ヵ〕丁国嶋○□□〔忍海ヵ〕部□〔私ヵ〕□○金見部大国\私部廣床女○北倉○物部□床○□□〔倉〕○□〔神ヵ〕部□□〔人ヵ・〈〉○□○天平神護三年五月一日綱丁物部宿太万呂\○勘領物部

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上端折れ、下端切断、左右両辺削り。杉・板目。人名を列挙した歴名であるが、日下に署名があり物資の運送に関わる文書か。天平神護3年は767年。「金見部大国」は、「金見大国」(木簡105(但馬集成18頁-105))と同一人物の可能性がある。表面の人名は、運送に従事したか、あるいは貢納物の負担者であろう。「綱丁」は、官物をはじめとした物資運送の責任者。運脚らを指揮する。国司目以上または郡司の場合は綱領といい(民部省式上18調庸専当条)、「百姓殷富家口重大者」(民部省式下28綱領条)の場合綱丁と称した。官物の運送は、当初は国司ないし郡司が担ったが、9世紀以降綱丁の地位が上昇し、国郡司に代わりその主体となった。8世紀段階でも、天平宝字年間(757~765)には、綱丁が造石山寺所に近江国愛知郡封租米を運送したことが知られる(天平宝字6年(762)2月26日造石山院所牒など。正倉院文書続修第28巻第4紙裏・『大日古』十五155)。愛知郡封租米の輸送は、北條秀樹氏の論考に詳しい(北條「愛智郡封租米輸納をめぐる社会構成」『日本古代国家の地方支配』吉川弘文館、2000年。初出1975年)。2段目の「北倉」、3段目の「□倉」に納めたものか。北倉は木簡106(但馬集成19頁-106)参照。「勘領物部」はあるいは別筆の可能性があり、その場合受領を確認した物部某が自署した可能性がある。「勘領」の事例は、宝亀年間(770~781)宇治部男勝請假解に「勘領味酒廣成」とみえ、受納者の廣成が自署する事例が知られる(正倉院文書続々修第39巻第1巻裏第69紙・『大日古』十七559)。忍海部は木簡103(但馬集成17頁-103)、神部は木簡6(但馬集成4頁-6)、物部は木簡23(但馬集成6頁-23)参照。


(39)但馬

二方郡温泉郷五戸私部庭足四斗六升

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四周削り。杉・板目。「二方郡温泉郷」は、『和名抄』の但馬国二方郡温泉郷にあたる。「五戸」は、五保のこと(戸令9五家条)。五保ないし五戸は舂米の荷札にしか現れないとの指摘がある(東野治之「古代税制と荷札木簡」『日本古代木簡の研究』塙書房、1983年。初出1980年)。なお、「四斗六升」の荷札は類例が少なく、品目が明記される事例として、平城宮跡東院に南接する二条条間大路南側溝SD5785 から出土した調鮒の荷札が知られる(『平城木簡概報(6)』7頁上68号)。



(40)淡路

淡路国津名郡安乎郷人夫/戸主磯秦僧一斗五升同/廣山三斗戸主私部角五升∥・合一俵○天平廿年九月

平城京二条大路・左京二条二坊十二坪

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFZZZZ000022


(42)若狭

若狭国三方郡○/能登里中臣廣足一斗/○〈〉/○三家人□□一斗∥○/私部首宇治麻呂一□/□□□〔竹田部ヵ〕首□麻呂一斗/○右五斗∥

田名遺跡(福井県三方郡三方町田名)

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK009094000001


(43)美濃

・美濃国當嗜郡山前郷・山□里私部小比礼米六斗

平城宮西北部

https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ADBSB25000101


(44)


(45)


(46)





















































古代日本、犬を食べる

古代日本における「犬を食べる食生活」


 内山幸子(東海大学)の講演会発表資料「 イヌと人の歴史」が面白い。

併せて、下記の書籍も読んでおきたい。


『ものが語る歴史:イヌの考古学』


第1章 イヌの起源と日本列島への渡来
第2章 人の従者としてのイヌ―縄文時代のイヌ
第3章 猟犬から食用犬へ―弥生時代のイヌ
第4章 二極化するイヌ利用―続縄文時代のイヌ
第5章 食用犬としてのイヌ―オホーツク文化期のイヌ
第6章 イヌ利用からみる日本列島史

イヌを犬と知らずに、中国東北部で夕食の席で口にした私にとって、淡白な味で、あまり美味とは思われなかった。

中国の狗食の例は

桂小蘭 氏の博士論文「古代中国文化の研究: 食用と祭祀を中心に- 2003 - ir.library.osaka-u.ac.jp

に詳しい。