2026年8月28日金曜日

本庄総子氏「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」を論評する(3パターン)

 冒頭から恐縮だが、本稿は無知・無学な研究グループ(といっても、二人だけ)による未熟な論評である。斯界の専門家の方々を裨益する価値もないかもしれない。しかし、対話・議論を交わしながら、研究は進展すると信じるだけに、意を決して公表する次第である。


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<第1パターン>

本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」は、古代税帳研究における実証水準の高さを示す論文である。大宝二年(七〇二)の「大租数文」と天平六年(七三四)の官稲混合を中心に、税帳の成立、税帳使の性格、税帳の書式、雑用記載の変化を相互に関連づけ、税帳が単なる収納記録ではなく、国家による地方財政把握のための文書へと変化していく過程を明らかにしている。私は、本庄氏の史料操作の精密さを高く評価したい。とりわけ、初期税帳に雑用の記載が乏しいことを、後世の税帳を基準として「制度の未成熟」と評価しない点は重要である。正税が本来、国家の財源として貯積される性格をもつ以上、初期段階で収納・貯積が中心となることには十分な制度的合理性がある。後世の制度を尺度として過去を裁断しないという史料批判は、本論文の大きな功績である。
 また、本庄氏は天平六年の官稲混合を単独の制度改革として扱うのではなく、それに伴う税帳使の変化、税帳の書式の変化、雑用の記載、さらには地方財政の実績報告の問題まで視野に入れる。ここには「鳥の目」と「トンボの目」の両方がある。『続日本紀』などに現れる国家的制度の変化を見ながら、同時に税帳という極めて具体的な行政文書の細部に入り、その変化を確認しているのである。この点で、本論文は税帳を単なる文書様式の研究対象から、律令国家の地方財政を知るための重要な史料へと押し広げた研究として高く評価したい。

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<第2パターン>
 本庄総子氏「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」は、古代の税帳制度を考えるうえで極めて重要な論文である。

 大宝二年(七〇二)の「大租数文」と天平六年(七三四)の官稲混合を軸として、税帳がいかなる機能をもち、税帳使がいかなる役割を担い、さらにその変化が税帳の記載様式にどのように現れたのかを、個々の史料に即して精密に追究している。とりわけ評価すべきは、初期の税帳に雑用の記載が乏しいことを、直ちに制度の未成熟とみなさない点である。正税が本来、国家の財源として貯積される性格をもつ以上、その初期段階で収納・貯積が中心となることには制度的な合理性がある。後世の完成された税帳を基準として初期の税帳を「未完成」と評価するのではなく、その時点における制度の論理から理解しようとする姿勢は、本論文の大きな貢献である。

 また、天平六年の官稲混合を契機として、税帳使の性格、税帳の書式、雑用の記載などに変化が生じたことを明らかにした点も重要である。ここには、いわば「鳥の目」と「トンボの目」が共存している。国家的な制度変化を俯瞰すると同時に、税帳という具体的な行政文書の細部に入り込んで、その変化を実証しているからである。この精密さは本庄氏の研究の最大の魅力であり、税帳研究を文書史・制度史として一段高い水準に引き上げたものと評価できる。

 しかしながら、本論文を読み終えたとき、なお一つの問いが残る。それは「だから、何なのか?」という素朴な問いである。なぜ国家は、天平六年頃になって地方に存在する官稲の管理と、その支出である雑用を、これほど厳密に把握する必要を感じるようになったのであろうか。なぜ「見込み」ではなく「実績」として地方財政を把握しなければならなかったのであろうか。

 この問いを考えるには、税帳という制度の内部から一歩外へ出て、国家財政そのものを見る必要がある。税帳の精密化、官稲の一元的把握、雑用の実績報告は、それ自体を行政技術の発達として説明することができる。しかし、それだけでは制度変化を生み出した歴史的圧力を説明したことにはならない。むしろ、八世紀前半の国家財政が、従来の租税収入だけでは必要な財源を十分に確保しにくくなり、地方に分散して存在する官稲を国家財源としてより厳密に把握・運用する必要に迫られていた可能性を考えるべきではないか。

 もしそうであるならば、税帳は単なる地方財政の報告書ではない。それは、地方に分散している稲という財源を、中央政府が「国家財政」として把握するための情報装置であったことになる。収納された稲、出挙によって運用された稲、利稲、雑用として消費された稲、そして最終的に残された稲。その一つ一つを把握することは、郡衙や国府の会計を整えるためだけではなく、国家が自らの利用可能な財源を確認するために必要だった、と考えられるのである。

 ここで、各地方の帳簿が新しい意味を持つ。例えば、越前国郡稲帳など。そこに記された稲の数量、出挙の利率、雑用、残稲、移出入などを単なる「地方行政の細かな数字」として読むのではなく、国家財政を支える地方財政の実態として読み直すことができるからである。本庄氏が税帳制度の変化を明らかにしたのに対し、郡稲帳からは、その制度によって中央政府が把握しようとした「現場の財政」が見えてくる。

 本庄論文は、税帳を精密に読むことによって、古代国家の行政文書がどのように変化したかを明らかにした。その成果は大きい。しかし、その先にはさらに大きな問いがある。なぜ、そのような文書が必要となったのか。その問いを国家財政の収支構造にまで広げたとき、税帳は制度史の資料であることを超え、律令国家が財源不足という現実にどのように対応しようとしたのかを映し出す史料となる。

 優れた歴史研究とは、「何が起きたか」を明らかにするだけではなく、「それによって何が見えるのか」を示すものであろう。本庄氏の精緻な研究は、その意味で重要な到達点である。同時に、その到達点から一歩外へ踏み出したとき、税帳の背後に、制度の整備では説明しきれない国家財政の風景が開けてくるのである。


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<第3パターン>

本庄総子「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」を読む

 本庄総子氏「税帳と税帳使――大租数文と官稲混合を中心に――」は、古代の税帳制度を考えるうえで、極めて示唆に富む論文である。私がまず評価したいのは、個々の史料を精密に読むだけではなく、税帳・税帳使・官稲・雑用という一見別々の問題を、一つの制度史的な流れの中に位置づけた点である。

 とりわけ、大宝二年(七〇二)の大租数文をめぐる議論は興味深い。初期の税帳に後世のような雑用の記事が十分に見えないことをもって、直ちに「制度が未成熟であった」とするのではなく、正税そのものが本来どのような性格を持っていたのかを考え、大宝二年の大租数文を税帳制度の初期段階における一つの積極的な形態として捉えようとする。本庄氏は、後世に整えられた制度を物差しとして初期の制度を評価するのではなく、史料が作られた時点の制度的論理から読み解こうとしている。この点は、税帳研究における重要な成果であろう。

 さらに注目されるのが、天平六年(七三四)の官稲混合をめぐる論証である。本庄氏はこれを単なる一制度の変更として扱わず、税帳使の性格、税帳の書式、雑用の記載、そして地方財政の実績把握という複数の問題を関連づけている。つまり、国家の制度変更を『続日本紀』などの政治史料だけから説明するのではなく、その変更が実際の行政文書にどのような痕跡を残したのかを確認しているのである。この「鳥の目」と「トンボの目」を往復する史料操作こそ、本庄氏の研究の大きな強みである。

 しかし、ここまで本庄氏の論証を追ってくると、私には一つの問いが残る。

 なぜ、この時点で国家は、地方に存在する官稲の運用実績や雑用を、これほど正確に把握する必要が生じたのであろうか。

 官稲混合によって管理が強化された。雑用について実績が求められるようになった。税帳の記載も変化した。本庄氏の論証から、この事実そのものはかなり明瞭に理解できる。しかし、「制度がそのように変化した」という説明と、「なぜ、その時点でその変化が必要になったのか」という説明とは、同じではない。

 ここで私は、税帳制度の内部から一歩外に出て、国家財政そのものを見なければならないのではないかと考える。

 八世紀前半の律令国家は、租・調・庸などの租税収入によって国家財政を維持していた。しかし、国家が必要とする支出は決して小さくない。中央政府の経費、地方行政、軍事、交通、使者・官人の逓送や食料など、恒常的な財政需要が存在する。そのような状況の中で、もし従来の税収だけでは国家が必要とする財源を十分に確保することが難しくなっていたとすれば、国家が地方に保有する官稲を、これまで以上に厳密に把握しようとしたことには、別の意味が生じてくる。

 すなわち、官稲混合や雑用の実績把握は、単なる「行政事務の整備」ではなく、国家が利用可能な財源を漏れなく把握するための財政的対応だったのではないか、という問題である。

 もちろん、この仮説をただちに事実だと断定することはできない。今後、史料博捜による厳密な検証が必要であるが、私は少なくとも三つの作業ステージが必要だと考える。

 第一に、天平六年前後の正税帳・郡稲帳をできる限り広く比較することである。定稲、出挙本稲、利稲、雑用、残稲などの項目を国別・郡別に比較し、官稲の運用実績にどのような共通性と地域差が存在するのかを明らかにする必要がある。

 第二に、収入と支出を同じ帳簿の中で見ることである。従来は「何束収納したか」という収入側に目が向きやすい。しかし、重要なのは、そこから何束が出挙に回され、どれだけの利稲を生み、何束が雑用として消費され、最終的にどれだけ残ったのかという財政循環である。これを数量的に復元すれば、地方官稲が実際にどの程度の財源として機能したのかを具体的に測定できる。

 第三に、地方の数字を国家財政の側へ戻してみることである。郡稲帳は郡の帳簿であり、正税帳は国府の決算的文書である。しかし、その先には中央政府による国家財政の把握がある。郡稲帳から正税帳へ、正税帳から中央政府へという情報の流れを復元すれば、税帳が単なる「報告書」ではなく、地方に分散する国家財源を中央が把握するための財政情報システムとして機能していた可能性が見えてくる。

 この問題を考えるうえで、越前国郡稲帳は格好の材料になる。そこには定郡稲だけではなく、出挙、利稲、雑用、残稲、さらには郡間の稲の移動など、地方財政の実態を復元できる数字が残されている。例えば出挙本稲と利稲から利率を算出すれば、官稲がどの程度の収益を生み出すことを期待されていたのかを検討できる。また、雑用の比率を算出すれば、得られた稲のどれだけが行政経費として消費されたのかを把握できる。こうした分析を越前国だけで終わらせず、たとえ断片であろうとも豊後・駿河・周防などの現存正税帳と比較するならば、地域的な特殊性と律令国家に共通する財政構造とを区別できるにちがいない。

 このような作業を進めれば、本庄氏が明らかにされた天平六年の税帳制度の変化についても、別の角度から説明できる可能性がある。すなわち、国家財政が厳しくなったからこそ、地方に分散している官稲の実態を正確に把握し、雑用を実績として報告させ、官稲の運用結果を確認する必要が高まったのではないか、という作業仮説である。

 とはいえ、ここでも慎重でなければならない。「財政危機があった」と先に結論を置いて史料を読むのではなく、まず数字そのものを検証しなければならない。税収は本当に不足していたのか。正税・出挙利稲などの財源はどの程度であったのか。国家支出はどのように増大していたのか。地方に残された官稲は、国家財政全体から見てどの程度の比重を占めていたのか。こうした問いに具体的な数字で答えることが、次の研究の課題となる。

 本庄氏の論文は、その意味で重要な到達点である。税帳制度が「どのように変化したか」を、これほど精密に追究した研究があるからこそ、次に「なぜ、その時点で変化しなければならなかったのか」という問いを立てることができる。示唆に富んだ論文だけに、江湖の士に広く目に触れて、議論の糸口としてほしい。

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