遣唐使は630年の犬上三田耜・難波薬師恵日らの使節を第1回として、 894年に停止されるまで、20回の任命があった。その中で746、761、 762、894年の使節は派遣を停止したので、現実には16回派遣されたと考えておきたい。
今、ここで取り上げたいのは、その回数ではなく、遣唐使のように日本から唐へ向かった日本人が存在したように、その逆ルートをたどった、つまり唐から日本へ向かった唐人がいたのではないかという問題関心である。
この関心に関しては、すでに鈴木靖民氏が、
「735年の袁普卿、761年の沈惟岳、徐公卿などがよく知られる。下野国府(栃木県)出土木簡に 見られる同国に員外史生として赴任していた陳廷荘も唐人の可能性がある。736年、唐楽を奏す る皇甫東朝とともに来た皇甫昇女は唐人女性である。また『唐大和上東征伝』などに知られる通 り、754年、遣唐使にともなわれて来日した唐僧は鑑真と法進、思託以下の弟子、高僧、優婆塞 たちが余りにも有名である(葛継勇『《続日本紀》所載赴日唐人研究』〈浙江大学博士学位論文〉 2006年など)。なかには安如宝のような西域(ブハラ)人、軍法力のような崑崙(東南アジア) 人の系統も含まれていた。それ以前、渡来して東大寺大仏開眼にも関与したバラモン(インド) 僧菩提遷那や林邑(ベトナム)僧仏徹もいる。736年の遣唐使の帰国に従った前述の李密翳は波 斯(ペルシャ)人である。彼らは直接母国から来たのではなく、唐の長安や洛陽、揚州、広州な どに来住して活動していた唐社会の異国人である。」
と指摘しており、確たるエビデンスはないものの、「陳廷荘」唐人を主張する鈴木説に賛同したい。
これまで渡来人であるとの理解では、諸氏の認識は一致しており、「陳廷荘」の唐人説を支持する方々が大半である。
私の観点からすれば、下野国府跡から発見された木簡「陳廷荘」が「員外史生」として下野国の国衙で勤務していた事実を念頭におけば、
*仮説:下野国に移住した朝鮮系渡来人の中に、唐国出身の唐人が混入していた可能性
を想定しても良いのではないだろうか。
この仮説にも確実なエビデンスなどはない。したがって、大胆に想像の翼を広げた妄説に近い。
前述の鈴木靖民氏も慎重に筆を運び、軽挙な考えを提示していないので、
①唐人が唐国から遣唐使船などで日本に渡来した
と想定するのが常識的で妥当だろう。しかし、仮にそうだとすれば、たとえ「員外」だとしても「史生」の官職を得るには「お雇い外国人」では無理があったのではないかという前提で、わが仮説を立てている。わが仮説が1%の可能性を有するならば、
*新羅軍とともに、高句麗国を攻撃した唐軍に従軍した兵士の一人
*朝鮮半島に存在した楽浪郡に居住していた中国人であった一人
を視野に入れて検討を進めてはどうだろうか。
私の仮説は「朝鮮系唐人」の存在である。確かに一顧だにすべき仮説ではないものの、いかなる理由かは不明であるが、朝鮮半島にルーツを持つ唐人が高句麗人・新羅人・百済人の中に紛れて日本に渡来して、その一団が下野国に移住したと想像したい。後考を待つ。
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