2025年7月25日金曜日

妙心寺の鐘に関連して、檀林寺を考える

 檀林寺とは何か。

教科書式に回答すれば、

    創建:?
  • 創建者:嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后、786年延暦5年から850年嘉祥3年5月4日)
  • 開山:唐から来日した禅僧・義空
  • 特徴:日本で最初の禅寺院
  • 所在地右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町

となろうが、最も重要なのは、現存しないこと。

さて、檀林寺はいつ創建されたのだろうか。

『続日本後紀』 承和3年(836)閏5月壬午条に

壬午、右京少屬-秦忌寸-安麻呂、造檀林寺使主典-同姓-家繼等、賜姓-朝原宿禰」

とある。この記事の主眼は、造檀林寺使主典の秦家継が朝原宿祢の名を賜ったことであるが、そこに職位は「造檀林寺使主典」とある。今、主典は別としても、「造檀林寺使」の語句から 承和3年閏5月段階で檀林寺が建立中もしくは建立前後であるので、目安として「この承和3年ごろ」と推測しておきたい。

 ちなみに、『平安遺文』によると、嘉祥4年(851)2月27日時点でも、

*「檀林寺使史生従八位上秦忌寸」(根岸文書、1巻

87頁)

とあるので、この「造檀林寺」のみを以て、檀林寺建立を論じられない。

 次に『文徳実録』嘉祥3年(850 )5月壬午【5】》○壬午条には、

尊天皇爲太上天皇。皇后爲皇太后。仁明天皇受禪。尊皇太后。爲太皇太后。追贈后父太政大臣正一位。母正一位。后自明泡幻。篤信仏理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養

とある。。この記事の 「后みずから泡幻を明 らかにし, 篤く仏理を信ず。 一仁祠を建てて、檀林寺と名づけ、 比丘尼の律を持する者を遣り て寺家に入住せしむ。 仁明天皇其の功徳を助け、五百戸の封を施捨し, 以て供養に充つ」 とある中で、皇后(橘嘉智子)が創建した寺に、供養のために五百戸を封じたとあるので、我々の推測の下限として、嘉祥3年(850 )5月時点では檀林寺は竣工していたに違いない。

 しかしながら文字資料ではないが、絵図資料にお茶の水図書館所蔵「山城国葛野郡班田図」(天長5年、828年)がある。

この地図は山城国葛野郡一帯を描いているが、その中に檀林寺の記載を見る。ただし地図だけに後世に加えられた朱線や加筆・墨書文字を十分に想定しなくてはならないので、828年まで檀林寺建立を遡らせて良いかを保留したい。


 ところで有名な京都 妙心寺銅鐘には、銘文が「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」と陽鋳されている(chi10_04611.pdf )ことで有名である。この文面には「戊戌年」とあり、年号年次なく、ただ干支のみである。この

戊戌年」は698年だと推定されている。

いま、本欄で紹介したのは、「糟屋評造春米連広国」が発願者の名とも鋳物師の名ともある論争に参加することではなく、なぜ妙心寺に所蔵されるに至ったかを知る言い伝えである。

 問題の所在は、なぜ、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺に「糟屋評造春米連広国」の銅鐘が存在するのかという点である。

 妙心寺そのものは花園法皇 の 離宮花園殿を土台に、建武3年 (1336)に 関山慧玄(無相大師) を開山に請じ禅寺として創建された。 その後, 応永六年 (1399)に将軍足利義満によって 、一時廃絶した状態に 陥った。永享四年(1432) に 至り、 妙心寺の 再 建に着手されたが、応仁の 乱によって兵火に見舞われた。乱後 に雪江宗深の手で再建された寺史は、今さら追記する事柄はない。

 しかしなぜ、そもそも1336年建立の禅寺妙心寺に「戊戌年」(698年)陽刻の銅製の梵鐘が掛けられているかは、不可解である。つまり戊戌年」銅製の梵鐘は別な場所から搬入されて、妙心寺に現蔵されていると考えなくてはならない。

その手掛かりを「名所図会」に偶見したので、それを紹介したい。

言い伝えとして、

「右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)

とある。ちなみに嵯峨浄金剛院は京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(現在の天龍寺の位置)にかつて建立された寺。後嵯峨上皇が檀林寺の跡地に建立した亀山殿の別院であった。


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<参考記事>


妙心寺銅鐘

文化遺産データベース


工芸品 / 奈良

  • 奈良 / 698
  • 高さに対する口径の割合を少なくし、中帯と撞座の位置が頗る高く、乳は乳頭が大きくて四段七列に密接して置かれ、華麗な連続唐草文のある上下帯をもっって鐘身の上下を画し、下端には駒爪なく條線があるのみである。
    竜頭は細長くて、宝珠は小さく、装飾文化した火焔が著しい。撞座以下をほとんど直線とした鐘身の形状や高い位置に中帯を回らしたり、乳の間の密接した大きな乳などにより、姿態の中心を上方にして懸垂の安定感をよく表している。撞身の内面縦に陽刻名がある。
  • 総高151.0 竜頭高27.6 身高118.0 撞座中心高49.1 口径86.0 口厚5.3 (㎝)
  • 1口
  • 重文指定年月日:19020731
    国宝指定年月日:19510609
    登録年月日:
  • 妙心寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

わが国最古の紀年名を有することで著名な鐘であり、銘文中の戊戌年は文武天皇即位二年(698)に当たると考えられ、糟屋評は現福岡県にあった郡銘である。
高さに比べて口径が小さく、胴張りの少ない長身瀟洒な鐘である。撞座の蓮華文、上下帯の唐草文など肉取りよく、駒の爪は二条の紐を回らせたもので古式であり、端正な形姿に典麗な装飾を施した名鐘である。

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 それでは、檀林寺とは何か

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