2025年7月12日土曜日

豊前国上毛郡多布郷塔里(大宝2年戸籍)の新羅系渡来人集団の大隅国桑原郡への移住

結論を先取りすれば、

通説の通り、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里、そして大隅国桑原郡仲川(仲津川)里は豊前国豊前国仲津郡からの渡来系氏族によって成立したと想定してよいだろう。その仮説の上に立脚すれば、大隅国桑原郡答西郷にせよ、大隅国桑原郡仲川(仲津川)里にせよ移住民の大半が渡来系氏族であったという仮説を提出したい。しかも彼らは新羅系造瓦に従事したり、土地開発・土木技術、さらには、養蚕・織物技術を保持する集団であった。

老司式軒瓦が筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・薩摩に分布することから、彼ら新羅系渡来人は老司式軒瓦を製作したと考えてよい。」
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 『行橋市史』には、下記のように記述されている。

行橋市-行橋市デジタルアーカイブ:『行橋市史』


「豊前国戸籍断簡

536 ~ 537 / 761ページ
 大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍断簡には上三毛郡塔里(とうり)・上三毛郡加自久也里・仲津郡丁里の三つが記されている。この大宝二年の豊前国戸籍断簡は奈良の正倉院に伝わる戸籍の一部であり、大宝二年に戸令に基づいて中央政府に提出され、一定の保管年限を経たのち反故紙として払い下げられ今日まで伝えられたものである。
 まず、大宝二年の豊前国戸籍断簡に記されている豊前国上三毛郡加自久也里は、現在の豊前市大村および八屋付近に比定されている。豊前国上三毛郡塔里は多布郷の地で現在の築上郡大平村唐原付近に比定されている。豊前国仲津郡丁里は直接的に『和名抄』の郷名と結ばれるものはないが、勝姓に見える阿射弥勝(呰見郷)は豊津町呰見付近、高屋勝は(高屋郷)犀川町下高屋付近、狭度勝(狭度郷)は築城町上城井付近などが明らかになっており、丁里は京都郡を中心とした地域と考えられている。」
そして、次のようにも記述されている。
「和銅七年(七一四)、大隅国が日向国から分立する際に、隼人の教化と国府防衛のために豊前国より二〇〇戸(約五〇〇〇人)の人々が桑原郡(国府所在郡)に移住させられている。桑原郡には『和名抄』によると豊国郷・大分郷のほかに中津郷・答西郷の郷名も確認でき、中津郷は豊前国仲津郡、答西郷は豊前国上三毛郡塔里の人々の移住によって成立したと推定されている5。この説に従うと、二〇〇戸(約五〇〇〇人)の一部は大宝二年の豊前国戸籍断簡に記されている地域の人々と推定され、この大宝二年の豊前国戸籍が作成された一二年後の和銅七年に当該地から隼人の地へ移住させられたと考えることができる。」(【大隅国移住者の原郷】
とある。賢明な諸氏がすぐに想定するように、通説の通り
*前提①豊前国上三毛郡塔里は多布郷の地で現在の築上郡大平村唐原付近
*前提②大隅国桑原郡答西郷(とうせごう)は、現在の鹿児島県姶良市加治木町周辺
とは、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里からの移住民によって成立したと考えている。
さて、過日のブログの中で、次のように記述した(2024年11月3日日曜日)。
「豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡 紙背検受疏目録断簡には、「秦部」が全体の約49%を占める。」
そして
「勝」は秦氏や秦氏と結び付く渡来系氏族に与えられたカバネである。そこで勝姓者は秦氏の支配下集団を領率する在地的有力者であったと考えられないだろうか。
とすれば、豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡に認められる渡来系氏族の割合は約74%に達する。
ちなみに、仲津郡丁里であれば、約95%が秦部と勝の姓を持つ。

かれら朝鮮半島に由来する渡来系氏族は「平底の鉢や縄蓆文、そして有溝把手、鳥足文タタキ」などを保持し、L字形カマドを取 り付けたオンドル住居に居住していたと考えてよいだろうか。例えば、時代は少し遡るけれども、池ノ口遺跡(築上郡新吉富村垂水字池ノ口)で発掘された5世紀前半代の竪穴住居跡約30軒の中の3軒からオンドル遺構が見つかっていることは、小石原泉遺跡のそれと共に、そのエビデンスの一つに数えられよう。
ちなみに岸本一宏氏によると、
‘「オンドル状遺構は、4世紀の初頭までには日本で認められるようになり、8世紀まで存在するのであるが、 通常の竈に比べて極めて限られており、全国でも40遺跡程度(松室 1996)にとどまる。それによれば、オ ンドル状遺構の分布は北部九州と近畿地方に多く、北部九州では福岡県、近畿地方では京都府・滋賀県が特 に多い。近畿地方では滋賀県西ノ辻遺跡で4世紀後半に出現し、滋賀県大塚遺跡、京都府今林遺跡、大阪府 小阪遺跡、滋賀県岩畑遺跡、和歌山県田屋遺跡などで5世紀代のものが確認されている。また、京都府綾部 市の青野・綾中遺跡群では6世紀末~8世紀前半にかけて30棟以上が確認されており、青野型住居(中村 1982)と呼称されている」(「伊勢貝遺跡」(兵庫県埋蔵文化財調査報告 第 430 冊、2012年3月、54頁)
参考文献
松室孝樹 1996「竪穴住居に設置されるL字形カマドについて」『韓式土器研究』Ⅵ 韓式土器研究会」

とも紹介した。

さて、論点を絞ろう。『行橋市史』のみならず、日隈正守氏の研究(「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」)も参照にした。

大隅固における郡郷は、『倭名類聚抄』大隅国項によると、

桑原郡 大原郷・大分郷豊国郷答西郷・稲積郷・広田(西)郷・桑善郷・ 仲川 (中津川)郷
贈於郡 葛例郷・志摩(島)郷・同気郷・方後郷・人野郷 
菱刈郡 羽野郷・亡野郷・大水郷・菱刈郷
 姶羅郡 野裏(浦)郷・串(釧)怯(占)郷・鹿屋郷・岐刀郷
 肝属郡 桑原郷・鷹屋郷・川上郷・属(鷹)麻郷 
大間郡 人野郷・大隅郷・謂列郷・姶蕗郷・禰覆郷・大阿郷・岐(支)刀郷 
熊毛郡 熊(能)毛郷・幸毛郷・阿枚郷
■(馬+又)漁(諜)郡諜賢郷・信有郷
とある。


 通説の通り、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里、そして大隅国桑原郡仲川(仲津川)里は豊前国豊前国仲津郡からの渡来系氏族によって成立したと想定してよいだろう。その仮説の上に立脚すれば、下記の表に見る通り




戸籍によると、豊前国上三毛郡塔里の住民129姓の内、124姓が渡来系である。そして豊前国仲津郡丁里の住民479姓の内400が渡来系氏族である。
常識的に見て、大隅国桑原郡答西郷にせよ、大隅国桑原郡仲川(仲津川)里にせよ移住民の大半が渡来系氏族であったという仮説を提出したい。しかも彼らは新羅系造瓦に従事したり、土地開発・土木技術、さらには、養蚕・織物技術を保持する集団であった。
老司式軒瓦が筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・薩摩に分布することから、彼ら新羅系渡来人は老司式軒瓦を製作したと考えてよい。

その逆な発想をすれば、隼人の地に渡来系氏族を移配することで、隼人地域開発に貢献したと積極的に考えられないだろうか。
<参考資料>
秦部+勝姓の総人数に対する比率は、
 丁里94%、塔里96%、加目久也里82%、某里100%で、
平均93%にのぼる。(『福岡県の歴史』平野邦雄・飯田久雄著 山川出版より)

<参考資料>
天平19年12月から金光明寺写経所での二次利用の反故文書として、
①大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍
②大宝2年筑前国嶋郡川辺里戸籍 
③大宝二年豊前国上三毛那加自久也里戸籍 
④大宝二年豊後国郡里未詳戸籍 
神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳 
⑥神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳 
⑦和銅元年陸奥国戸口損益帳
の一つが大宝二年豊前国上三毛那加自久也里戸籍 。
<参考資料>
平野邦雄「豊前の条理と国府」8-9頁、平野邦雄 - 九州工業大学研究報告. 人文・社会科学, 1958 - kyutech.repo.nii.ac.jp
human6_p1_16 (7).pdf
「秦部の分布を,大宝2年の戸籍から推すと、上三毛郡塔里(和 名抄の多布郷)・上毛郡加回久山川(和名抄の炊江郷)に亙っているが・この3里が共に山国川左岸より京都郡行橋に至る間に位置していたことは明白であり26)・史料の偶然性はあるにしても, この地域に集住していたことは間迎いない。即ち秦部,某勝を称するものの総人口に対する百分比 は,秦部48%,某勝37%で,計85%を占め人口数は,例えば丁里の場合,氏姓の判明する口数のみで480,氏名不明のものを加えると,最低 に抑えても680を数える。むろん断簡が多い上に断簡をも数えて戸数34の人口にとピまるのであるから,1里50戸とし,完金な籍帳を想定すると,人rlは確実に1,500を越えたであろう」

<参考資料>
小田富士夫氏によって、すでに先駆的な研究が発表されており、ほぼこの見通しの上で研究が展開されてきた。
「以上にみた豊前を主体とする新羅系古瓦は臼鳳後期から奈良朝前期に盛行したものであり、これは我国に於ける新羅系 古瓦の行われた一般の年代観からすれば古期に属する。新羅系瓦当文は(1)鐙瓦周緑に唐草文を配すること、 面に文様を施すこと、(2)鐙瓦中房の周囲に雄■を附することの三点で我国奈良時代の瓦当文に受継がれ、その分布は北は 東北から南は九州までの広範聞にわたっている。しかも畿内よりも周辺地域に見るべきものの多いことは、書紀や続紀に 伝える新羅帰化人の安置と無関係でないと思われる。九州地方でも奈良盛期には肥後地方で立願寺(玉名郡)、肥後国分寺(熊本市)などにみられ、平安期に下つては稲佐廃t寺(玉名郡)に受継がれている。また肥前でも晴気寺(小城郡) があり、筑後井上廃寺(三井郡)、筑後国分寺(久南米市)などにも新羅系文様の要素が入っている。特に太宰府地方の都府楼、観世音寺、筑前国分寺、学業院などにみられる新羅系文様■は注目をあつめる資料である。しかし、この文様■のと北九州との交渉を『続日本紀』にうかがえば、 
「天平宝字(759〕9月丁卯、勅大宰府、頃年新羅帰化、舶■不絶、規避賦役之苦、遠奔墳基之郷、言念其意、 豈無顧恋、宜再三引問、情願選者、給粮線放却、
と記されているように新羅からの渡航者多く、しかもそれは賦役の苦を逃れて来るような社会的身分の人々であった。彼 等のうちには造瓦などにたずさわるような低い身分の者もいたであろう。事実、稍時代は下るが貞観十二年(871)、 大宰府から差出した新羅人潤清、宣堅等が陸奥に移されたが、そのうち「潤消、長焉、真平等才長於造瓦、預陸奥国 修理府粁造託事、令長其道者、相従伝習」せしめている。」(小田富士夫、「 豊前に於ける新羅系古瓦とその意義: 九州発見朝鮮系古瓦の研究 (一)」1961年、121頁)



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