2025年7月29日火曜日

「浄金剛院の鐘の音」を巡る寺尾美子先生のご指摘とは?ーー檀林寺⇒浄金剛院⇒妙心寺へと伝来した銅鐘

寺尾美子著 『とはずがたり』 注釈小考 - 浄金剛院の鐘の音』(『駒沢国文』29号、 79-88頁、 1992年)を読む

 力作である。資料博捜。寺尾氏の調査が『とはずがたり』注釈作業にどのていど寄与したかは不明であるものの、国文学研究者による雄編の一つであると認め、当該専門分野の研究者に一読を推奨する

 さて、我々の関心は、寺尾先生の論文に触発されて、浄金剛院の梵鐘の来歴にある。

 すでに著名であるので、『とはずがたり』からの引用は後記するとして、なによりも『徒然草』220段全文を紹介したい。

「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢずと云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、

『当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。

その声、黄鐘調の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会より聖霊会までの中間を指南とす。

秘蔵の事なり。

この一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり』と申しき。

凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。

西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出だされけり。

浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」

とある。

もはや浅学菲才の身で、国文学者による幾多の『徒然草』注釈に付け加える情報はないが、我々が注目するのは、

*「遠国より尋ね出だされけり。」

の箇所にある。兼好法師の意図は、冒頭の「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」のアンチテーゼにある。都の文化と比較して、地方(「辺土」)のそれが劣っているはずはないという兼好法師の主張が認められ、その事例として

西園寺の鐘

浄金剛院の鐘

が適例だと掲出している。ここで「黄鐘調」に関する自説は割愛する。我が関心の所在が二つの鐘の遠国より尋ね出だされけり」にあることは上記の通りである。しかしながら西園寺の鐘(今も金閣寺に伝存)の製作地は不明であるものの、律令時代の銅鐘の製作地は

1,奈良

2,越前

3,美濃

4,大宰府

の4か所であったと推定してよい。仮に兼好法師の念頭に東西の製作地から搬入されたとすれば、東の美濃(あるいは越前・奈良)の例として西園寺、西の大宰府の例として浄金剛院の鐘がそれぞれ取り上げられたのではないだろうか。

 すでに寺尾美子先生がご指摘になっているように、

 「浄金剛院は、後嵯峨上皇が亀山の麓(現京都市右京区嵯峨天龍寺付近)に造営された仙居嵯峨殿(亀山殿)内の別院」(81頁)

であるが、ここで注意しておかなくてはならないのは、浄金剛院の鐘はその寺院を建立する時に、同時に銅鐘が製作されたのではないことである。寺尾先生の驥尾に付して掲示すれば、

「『五代帝王物語』(14世紀初) さて院は西郊亀山の麓に御所を立て、亀山殿と名付~(中略)~殊更に梅宮に事由を申されて橘太后の御願檀林寺の跡に浄金剛院を建てられて道観上人を長老として浄土宗を興行せらる」(82頁)

とあるように、浄金剛院は「橘太后の御願檀林寺の跡」であった。

『赤染衛門集』平安時代中期の女流歌人・赤染衛門による私家集、生没未詳、11世紀成立か)は、

檀林寺のかねのつちのしたにきこゆるをいかなるぞととへば、鐘堂もなくなりて、御どうのすみにかかけたればかうきこゆるぞといひしに、きさきのおぼしおきあはれにて、

 ありしならずなりゆくかねの音

  つきはてむこそあはれなあるべき」

とあり、檀林寺が廃絶した後、11世紀に至っても、その鐘は寺院跡の隅に置かれたままであったという。その後、檀林寺跡に建立された浄金剛院へと伝世され、その鐘は再度人々の耳を楽しませることとなった。しかしその浄金剛院さえも、後に廃絶され、その鐘は再び寺院の廃屋に隠れることとなった。

 この鐘が三度世に出るきっかけとなったのは、名所図会には言い伝えとして、

「[右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)

とあったようだ。この言い伝えと同文は『『大日本地名辞書』(編纂期間:1895年(明治28年)から1907年(明治40年) 

にも見るが、編者吉田東伍は未記載であるが、その種本は『都林泉名勝図会』(寛政11年(1799年)刊行。京都の名園案内書。著者は秋里籬島、挿絵は佐久間草偃・西村梅渓・奥文鳴。墨摺の五巻六冊本)であった。


以上の考察によって、檀林寺⇒浄金剛院⇒妙心寺へと伝来されていったと判明する。ただし、『徒然草』(第220段)によってわかるように、その根拠は明示されていないものの、「遠国より尋ね出だされけり」であったと伝える。その「遠国」こそ筑前国であったと推定する。



 




2025年7月25日金曜日

出雲国大原郡に関する仮説ーー「おほはら」とは?

 『出雲国風土記』(天平5年・733年)には、9郡が掲載されている。

ここでは大原郡を取り上げたい。

 常々、不思議なのは大原郡が設置され雲南市大東町・加茂町・木次町を、特に斐伊川に架けられた里熊橋のたもとか、あるいは城名樋屋山(雲南市木次町里方、標高117メートル)の頂上に上っても、それらから視界に入るのは「大きな原」と呼ぶには狭い土地。木次町のみならず、大東町内・加茂町内も同様である。どこに「大きな原」が存在するのだろうかというのが、実感。

 「大原」と呼称するならば、出雲平野や松江平野などの斐伊川や大橋川などが作った低湿地帯の沖積平野がふさわしい。したがって、そもそも「大原」の漢字に引きずられて、「大きな原」だと理解することは正解から遠ざかっているのではないかという長年の疑問が本稿の出発点。

発想を変えて、別な観点から、この「大原」の語源に迫る可能性も考慮したい。


そこで連想するのは伯耆国の「大原」と呼ばれる地である。その地は複数存在し、結論を先取りすれば、それぞれに「古代たたらの生産地」であった。

地域

備考

①伯耆町八郷大原

たたら製鉄跡も残存安綱ゆかりの地 ③伯耆町八郷大原 - info-hinonohi ページ!



②日南町下阿毘縁大原

鋼の産地、たたら生産地跡あり

③日野町上菅大原

日野郡内に500ヶ所以上確認されている「たたら跡」。鍛冶滓が残存。鳥取県指定史跡 都合山たたら跡 - info-hinonohi ページ!

④倉吉市大原

鍛冶滓が出土、砂鉄採取のための「鉄穴井手」。「真守(鍛冶)屋敷跡」「鉄山屋敷」「たたら窪」などの伝承地。後世の刀鍛冶集団「廣賀」が活躍安綱ゆかりの地 ⑤倉吉市大原 - info-hinonohi ページ!


 当然ながらの反論として、まずは単なる思い付きに過ぎないと指摘されるだろう。伯耆国に「大原」はそうだとしても、出雲国の「大原」がかっての「たたら生産地」であるという考古学的物証もなく、文献上のエビデンスもないと反駁されるにちがいない。

それは我が思い付きの本質的な弱点であると知りつつも、『出雲国風土記』大原郡条には、わずかな

波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐山より出で、北に流れて須佐川に入る。鐵あり。

「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮山より出で、北に流れて三刀屋川に入る。鐵あり。


とある記事を掲出できるにすぎない。

 しかも「たたら生産」と「大原」の関係がないという決定的な反論もあろう。これにも回答を準備できないままであると正直に告白する。あえて抗弁するならば、前掲の伯耆国の山間地に位置する日野町上菅大原もそうだからと回答するしかない。

 またまた無理な反論だと揶揄されそうだが、出雲国の山持ち糸原家のたたら生産で有名な出雲国仁多郡大原(島根県奥出雲町大原新田)にある大原鉄山を挙げても良いだろう。 その仁多郡大原にしても、実地に立った方ならばお分かりだろうが、山間の狭隘な地である。その地を「大きな原」と認定する方がおいでであるとすれば、何をか言わんやである。つまり「大原」の漢字に引かれて語義を理解するのではなく、別な語義を想定すべきではないだろうか。

 正直に告白すれば、天平5年(733)成立の『出雲国風土記』にその地名大原が記載されているとすれば、その地名を命名した時期が問題となろう。

 ましてや本稿では「大原ーたたら生産」との関連を主張しているわけなので、出雲におけるたたら生産の開始時期が気がかりである。

 この点、角田徳幸(雲南市教育委員会)らの考古学的研究の進展によって、出雲、しかも雲南地域のたたら生産開始時期の発掘調査結果が判明しつつある(倉内 勝・角田徳幸・松尾充晶 「雲南市の製鉄遺跡とその年代」『雲南市⽂化財調査研究報告』第1集 抜刷 雲南市教育委員会 2025年3⽉ )。

その研究によると、

「 日本列島における鉄生産は、6世紀後半に中国・北九州・近畿で始まった。7世紀代には北陸・関東・ 東北南部、9世紀代には東北北部にも達し、古代製鉄は汎列島的に行われている。」(上掲書、1頁)

である前提の下で、出雲山間部において6世紀から9世紀至るまでに鉄関連物が出土したのは


羽森第3 ーー雲南市掛合町 

瀧坂   ーー 雲南市三刀屋町

鉄穴内  ーー 雲南市三刀屋町 

田Ⅰ  ーー雲南市木次町 

芝原   ーー仁多郡奥出雲町 

などで砂鉄関連施設や残存物が出土した(角田博幸、前掲書、3頁)。しかしながらこれらの考古学的データだけでは我々の仮説の傍証とするにはほど多い。

 博雅の士の教えを俟つ。





















『岩波古語辞典』の「おほの(大野)」の項目には、

*「ノは山のすそ野。ゆるい傾斜地。平地に接した山の側面。山のふもとつづきの地」(24頁)

とあり、同じく「はら(原)」の項目には、

「手入れせずに広くつづいた平地」(1089頁)

とある。


そして「


あえて一つの妄説・仮説として提出しておきたい。 


**************

蛇足であるが、「大原」は「

妙心寺の鐘に関連して、檀林寺を考える

 檀林寺とは何か。

教科書式に回答すれば、

    創建:?
  • 創建者:嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后、786年延暦5年から850年嘉祥3年5月4日)
  • 開山:唐から来日した禅僧・義空
  • 特徴:日本で最初の禅寺院
  • 所在地右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町

となろうが、最も重要なのは、現存しないこと。

さて、檀林寺はいつ創建されたのだろうか。

『続日本後紀』 承和3年(836)閏5月壬午条に

壬午、右京少屬-秦忌寸-安麻呂、造檀林寺使主典-同姓-家繼等、賜姓-朝原宿禰」

とある。この記事の主眼は、造檀林寺使主典の秦家継が朝原宿祢の名を賜ったことであるが、そこに職位は「造檀林寺使主典」とある。今、主典は別としても、「造檀林寺使」の語句から 承和3年閏5月段階で檀林寺が建立中もしくは建立前後であるので、目安として「この承和3年ごろ」と推測しておきたい。

 ちなみに、『平安遺文』によると、嘉祥4年(851)2月27日時点でも、

*「檀林寺使史生従八位上秦忌寸」(根岸文書、1巻

87頁)

とあるので、この「造檀林寺」のみを以て、檀林寺建立を論じられない。

 次に『文徳実録』嘉祥3年(850 )5月壬午【5】》○壬午条には、

尊天皇爲太上天皇。皇后爲皇太后。仁明天皇受禪。尊皇太后。爲太皇太后。追贈后父太政大臣正一位。母正一位。后自明泡幻。篤信仏理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養

とある。。この記事の 「后みずから泡幻を明 らかにし, 篤く仏理を信ず。 一仁祠を建てて、檀林寺と名づけ、 比丘尼の律を持する者を遣り て寺家に入住せしむ。 仁明天皇其の功徳を助け、五百戸の封を施捨し, 以て供養に充つ」 とある中で、皇后(橘嘉智子)が創建した寺に、供養のために五百戸を封じたとあるので、我々の推測の下限として、嘉祥3年(850 )5月時点では檀林寺は竣工していたに違いない。

 しかしながら文字資料ではないが、絵図資料にお茶の水図書館所蔵「山城国葛野郡班田図」(天長5年、828年)がある。

この地図は山城国葛野郡一帯を描いているが、その中に檀林寺の記載を見る。ただし地図だけに後世に加えられた朱線や加筆・墨書文字を十分に想定しなくてはならないので、828年まで檀林寺建立を遡らせて良いかを保留したい。


 ところで有名な京都 妙心寺銅鐘には、銘文が「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」と陽鋳されている(chi10_04611.pdf )ことで有名である。この文面には「戊戌年」とあり、年号年次なく、ただ干支のみである。この

戊戌年」は698年だと推定されている。

いま、本欄で紹介したのは、「糟屋評造春米連広国」が発願者の名とも鋳物師の名ともある論争に参加することではなく、なぜ妙心寺に所蔵されるに至ったかを知る言い伝えである。

 問題の所在は、なぜ、臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺に「糟屋評造春米連広国」の銅鐘が存在するのかという点である。

 妙心寺そのものは花園法皇 の 離宮花園殿を土台に、建武3年 (1336)に 関山慧玄(無相大師) を開山に請じ禅寺として創建された。 その後, 応永六年 (1399)に将軍足利義満によって 、一時廃絶した状態に 陥った。永享四年(1432) に 至り、 妙心寺の 再 建に着手されたが、応仁の 乱によって兵火に見舞われた。乱後 に雪江宗深の手で再建された寺史は、今さら追記する事柄はない。

 しかしなぜ、そもそも1336年建立の禅寺妙心寺に「戊戌年」(698年)陽刻の銅製の梵鐘が掛けられているかは、不可解である。つまり戊戌年」銅製の梵鐘は別な場所から搬入されて、妙心寺に現蔵されていると考えなくてはならない。

その手掛かりを「名所図会」に偶見したので、それを紹介したい。

言い伝えとして、

「右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)

とある。ちなみに嵯峨浄金剛院は京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(現在の天龍寺の位置)にかつて建立された寺。後嵯峨上皇が檀林寺の跡地に建立した亀山殿の別院であった。


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<参考記事>


妙心寺銅鐘

文化遺産データベース


工芸品 / 奈良

  • 奈良 / 698
  • 高さに対する口径の割合を少なくし、中帯と撞座の位置が頗る高く、乳は乳頭が大きくて四段七列に密接して置かれ、華麗な連続唐草文のある上下帯をもっって鐘身の上下を画し、下端には駒爪なく條線があるのみである。
    竜頭は細長くて、宝珠は小さく、装飾文化した火焔が著しい。撞座以下をほとんど直線とした鐘身の形状や高い位置に中帯を回らしたり、乳の間の密接した大きな乳などにより、姿態の中心を上方にして懸垂の安定感をよく表している。撞身の内面縦に陽刻名がある。
  • 総高151.0 竜頭高27.6 身高118.0 撞座中心高49.1 口径86.0 口厚5.3 (㎝)
  • 1口
  • 重文指定年月日:19020731
    国宝指定年月日:19510609
    登録年月日:
  • 妙心寺
  • 国宝・重要文化財(美術品)

わが国最古の紀年名を有することで著名な鐘であり、銘文中の戊戌年は文武天皇即位二年(698)に当たると考えられ、糟屋評は現福岡県にあった郡銘である。
高さに比べて口径が小さく、胴張りの少ない長身瀟洒な鐘である。撞座の蓮華文、上下帯の唐草文など肉取りよく、駒の爪は二条の紐を回らせたもので古式であり、端正な形姿に典麗な装飾を施した名鐘である。

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 それでは、檀林寺とは何か

2025年7月15日火曜日

『九章算術』解法セミナー開催の呼びかけ

 希望者がおいでであれば、

*『九章算術』解法セミナー

開催の呼びかけ。

本書は9章246問からなる問題集形式であるので、その紹介を兼ねて、数学に関心をお持ちになる方々に、上記のセミナーを開催しても構いません。むしろ数学の門外漢である私が博雅の士から学びたいので。

特に神戸航介先生(未見)ご主宰のセミナーに参加したいと希望するるのは、名著『日本古代財務行政の研究』吉川弘文館、2022年刊を知るからである。

あるいは、大隅亜希子先生(未見)のご参加を得れば、『九司』研究は進展するかもしれない。

大隅亜希子 「奈良時代権衡制度に関する一考察―大小制の問題を中心として―」 会計量史研究』23、2001)。

2025年7月14日月曜日

古代日本の理系人材養成(算数・算術)--律令社会で大活躍した算法(日本古代史家・考古学者対象セミナー)

 小結①日本古代の財政担当官司である民部省・主計寮の官人たちは9つの算術書をマスターして、それらを駆使して財政・管理などのファイナンシャルを担当していた。

小結②なかでも軍政・財政・物資管理に関する取扱いに不可欠な『五曹算経』などは財務官僚の座右の書であった。

小結③平城京建設や大規模寺院建築物、大規模土木工事などには、『海嶋算経』などで構造計算がなされた。



『三国史記』巻38雑志7職官上 には、

[資料①] 「差算学博士若助教一人、以綴経三開九章六章 教授之」

とある。

この記述は、古代中国数学テキストである『孫子算経』『五曹算経』『九章算術』『海島算経』『綴術』『周髀算経』、『六章』『三開重差』『九司』などを想起すれば、氷解する。

即ち「綴経三開九章六章」は『綴術』・『三開重差』・『九章算術』・『六章』の4テキストを指す。


ところで、古代日本の場合、

資料②「凡算経孫子。五曹。九章。海嶋。六章綴術三開重差。周髀。九司。各為一経。学生分経習業」


とあり、新羅の上記4テキストと比較すれば、

『孫子算経』・『五曹算経』・『海嶋算経』『周髀算経』『九司』

の5テクスト多く学習している。新羅か日本が先かの争いは無用である。中国算術に見当たらない『三開重差』が両地域で算術テキストとして利用されていることを見逃さないでおきたい。何のエビデンスもないままであるが、やはり三開重差』は新羅算術界で成立し、日本に新羅系渡来人の手で持ち込まれた。その後、遣唐使などを経由して中国算術界の新しい動きに接することで、新羅経由ではなく中国経由で算術の新しいテキストを日本にもたらし、さらに深化させたと考えるのが無難ではないだろうか。

 古代文化は何でもかんでも半島から日本に流入したという、戦後の「渡来人史観」に見られた教条的な考えから早く脱皮しても良いはずである。「臨機応変」に対応したいと考える。


 ところで日本人の面白いのは、算数の試験問題の出題までも記録していることである。

資料③「学生、弁明術理、然後為通、試九章三条、 海嶋・周髀・五曹・九司・孫子・三開重差各一条、試 九、全通為甲。通六為乙、若落九章者、雖通六、猶為 不第、其試綴術六章者、准前、綴術六条、六章三条、 試九、全通為甲、通六為乙、若落経者、雖通六、猶為 不第」

つまり、「九章三条」(『九章算術』より三問)、「海嶋。周髀。五曹。九司。孫子。三開重差各一条」(『海嶋算経』・『周髀算経』・『五曹算経』・『九司』・『孫子算経』・『三開重差』より各1問)の全9問が出題されている。『九章算術』は出願者を振るい落とす、基礎数学の役割を果たしていたらしい。


(1)『九章算術』

紀元前1世紀ごろに成立したテキストであると伝えられており、三国時代の魏の劉徽が263年に注釈本で世に知られた。  9章246問からなる問題集形式。

算木(竹の棒)を使った計算に特徴。正負の数を色や配置で表現。

円周率は、3.14。

章名

内容

実用例

方田

面積計算、分数の四則演算

農地の測量

粟米

穀物の交換、比例計算

物々交換

衰分

財産の分配、利息計算

商業・税制

少広

平方根・立方根の計算

土地の辺長測定

商功

土木工事の体積計算

城や運河の建設

均輸

租税の計算

輸送・徴税

盈不足

鶴亀算、復仮定法

過不足の問題解決

方程

連立一次方程式

負の数の導入もあり

句股

ピタゴラスの定理

測量・幾何学



(2)『海嶋算経』

三国時代の数学者・劉徽の数学書。測量技術と幾何学的思考と微積分に特徴。第一問が「海島の高さと距離を測る問題」であることで、「海嶋算経」と命名。現代の三角測量の原型。正192角形や正3072角形を内接させることで、円周率は3.1416。

問題例:海の中の島の高さを測る

海の中の島の高さを測るために、海岸線上の2地点A・Bから島の頂点を観測する。

  • 点Aからの仰角:α
  • 点Bからの仰角:β
  • 点Aと点Bの距離:d(海岸線に沿った水平距離)

求めたいのは、海の中の島の高さ h

解法:重差法の幾何学的アプローチ

この問題の解法は、三角形の相似。

  1. 点Aと点Bから海島の頂点に向かって視線を伸ばすと、それぞれの視線と地面がなす角度が仰角αとβ。
  2. それぞれの視線と地面が作る直角三角形を考えると、以下の式が導ける:

\tan(\alpha) = \frac{h}{x}, \quad \tan(\beta) = \frac{h}{d - x}

ここで、xは点Aから島の垂直線までの水平距離。

  1. 2式から h を消去して連立方程式を解くと:

x = \frac{d \cdot \tan(\beta)}{\tan(\alpha) + \tan(\beta)}

h = x \cdot \tan(\alpha)

 具体例

  • α = 30°
  • β = 45°
  • d = 100m


平城京建設には、この算術などがフル回転したにちがいない。


’(3)『周髀算経』

中国古代の天文学と数学の融合。上下2巻。天文観測・な測量・暦学・幾何学が融合した編成。

概念

説明

応用

一寸千里法

影の長さ1寸の差が地上距離1000里に相当するという測量法

緯度差の測定、地球規模の距離推定

勾股弦の法

ピタゴラスの定理を用いた三角測量

天体の高さや距離の計算

用矩の法

相似三角形による距離・高さの推定

建築・天文観測

蓋天説

天は笠のように地を覆うという宇宙観

暦学・天文学の基礎理論

 一寸千里法の問題例(夏至の太陽観測)

  • 8尺の棒を立てたとき、影の長さが1寸違えば、南北の距離は1000里。
  • 例えば、洛陽で影が16寸、南1000里で15寸、北1000里で17寸。
  • この差から、太陽の仰角や地球の緯度差を測定する。

古代日本において、主に墳墓建設や官道などの土木工事などに役立てたに違いない。


(4)『五曹算経』

軍政・財政・物資管理に関する実務官僚に必読な計算問題集。財務官僚などが駆使した算法。

内容と特徴

主題

内容例

兵曹

軍事

兵士の人数、兵糧の配分、布・絹の支給量など

集曹

飲食

席数と客数の関係、醤や酒の分配計算

金曹

財政

銭の支給、物価換算、給与計算

倉曹

穀物管理

粟から精米への換算、穀物の交換比率

市曹

市場取引

雉や梨の購入、物々交換の比率計算


同書に掲載された問題例1

「ある官吏に月俸として絹3疋と銭500文を支給する。絹が不足して2疋しか用意できない場合、残り1疋分を銭で支給するには、絹1疋=銭180文としたとき、追加で何文支給すべきか?」

 解法:

  • 絹1疋=180文
  • 不足分:1疋 → 180文
  • 既定の銭支給:500文
  • 合計支給額:500 + 180 = 680文

この実例は古代資料の中に枚挙の暇がない。

問題例2
兵士500人に対して、1人あたり1日2升の粟を支給する。15日間の遠征に必要な兵糧は何斛か?」

解法:

  • 1人1日:2升
  • 総量:500人 × 15日 × 2升 = 15,000升
  • 換算:1斛 = 10升 → 15,000 ÷ 10 = 1,500斛

つまり、遠征に必要な兵糧は 1,500斛 。


(5)『九司』

現存しないので、詳細は不明。


項目

内容

備考

官司別算術

各官庁(兵曹・金曹など)に対応した実務計算

『五曹算経』との類似性がある

比例・換算

物資・貨幣・人数などの按分

科挙試験向けの実務問題

度量衡

升・斛・斤などの単位換算

和算にも影響を与えた可能性あり

問題形式

「答曰く」「術曰く」形式

『九章算術』と同様の記述スタイル

どうやら升・斛・斤などの単位換算などに活用されたらしい。


問題例ある村に3町5段2畝の田地がある。これを歩数に換算すると何歩か?

解法:

  • 3町 = 3 × 3,000 = 9,000歩
  • 5段 = 5 × 300 = 1,500歩
  • 2畝 = 2 × 30 = 60歩
  • 合計 = 10,560歩


(6)『孫子算経』
  立時期:南北朝時代(5世紀頃)

  • 内容構成:上・中・下の三巻

  • 主な特徴
    • 算木(算籌)による計算方法の詳細な記述
    • 四則演算、分数、開平法(平方根の計算)などを扱う
    • 「中国剰余定理」や「鶴亀算(雉兎同籠)」の原型も登場
問題例  「3で割ると2余り、5で割ると3余り、7で割ると2余る数は?」

解法

『孫子算経』に登場する有名な算題の一つで、**中国剰余定理(Chinese Remainder Theorem)**の応用例。

求める数 x は以下の3つの条件を満たす:

  • x \equiv 2 \mod 3
  • x \equiv 3 \mod 5
  • x \equiv 2 \mod 7

中国剰余定理によると、

この範囲内で条件を満たす最小の自然数を求める。

ステップ1:候補を探す


x

x \mod 3

x \mod 5

x \mod 7

1

1

1

1

2

2 ✅

2

2 ✅

3

0

3 ✅

3

...

...

...

...

23

2 ✅

3 ✅

2 ✅

答えは 23


問題例

:「ある数は、」

  • 5で割ると 4余る
  • 7で割ると 2余る
  • 9で割ると 8余る

この数のうち、100未満で最小の自然数を求めよ。

 解法

この問題は以下の条件に従って数 x を探す

  • x \equiv 4 \mod 5
  • x \equiv 2 \mod 7
  • x \equiv 8 \mod 9

3つの法はすべて互いに素なので、**中国剰余定理(CRT)**を使えば、


最小公倍数は 5 \times 7 \times 9 = 315。



(8)『三開重差』と『綴術』と『六章』


中国の算術書ではない。新羅と古代日本での本書使用例が認められる。大学寮算科の教科書。


個別の特徴

算経名

内容の推定

教育的役割

中国文献への記載

備考

三開重差

「三開」は平方・立方・高次根の開法、「重差」は級数展開や測量術と推定

測量術の教材

記載なし

新羅でも使用

綴術

円周率や球体積などの高等数学を扱う(祖沖之撰)

円理・解析的手法の教材

唐代文献に記載あり

日本では祖沖之の注釈本が使用された

六章

『九章算術』の応用編

中級数学教材

記載なし

九章のうち六章のみを扱ったか



「問題例①:円弧の長さを求める(弧背術)

  • 直径 d = 10
  • 弦の高さ(矢) c = 5

このとき、円弧の長さ s を求める。

解法の特徴:

  • 弧背の半分の平方 (s/2)^2 を「半背冪」と呼び、冪級数展開によって近似値を求める
  • 建部は微積分を使わずに、累進増約術や**零約術(連分数展開)**を用いて高精度な近似を実現
  • 現代のテイラー展開と一致

問題例②
「問冪級数による近似展開

数式例

\left(\frac{s}{2}\right)^2 = cd + \frac{c^3}{8d^3} + \frac{c^4}{15d^4} + \frac{c^5}{32d^5} + \cdots

  • これは逆正弦関数の平方のテイラー展開に相当
  • 建部はこの展開を観察と数値実験から導出し、証明なしに規則性を見抜く

問題例③:算脱の術(継子立)

問題設定:

  • 黒石1個と白石 n 個を円形に並べる
  • 一定の数 m ごとに石を取り除いていく
  • 最後に残る石の位置を求める

解法

  • 現代のヨセフス問題に相当

2025年7月12日土曜日

豊前国上毛郡多布郷塔里(大宝2年戸籍)の新羅系渡来人集団の大隅国桑原郡への移住

結論を先取りすれば、

通説の通り、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里、そして大隅国桑原郡仲川(仲津川)里は豊前国豊前国仲津郡からの渡来系氏族によって成立したと想定してよいだろう。その仮説の上に立脚すれば、大隅国桑原郡答西郷にせよ、大隅国桑原郡仲川(仲津川)里にせよ移住民の大半が渡来系氏族であったという仮説を提出したい。しかも彼らは新羅系造瓦に従事したり、土地開発・土木技術、さらには、養蚕・織物技術を保持する集団であった。

老司式軒瓦が筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・薩摩に分布することから、彼ら新羅系渡来人は老司式軒瓦を製作したと考えてよい。」
+++++++++++++++


 『行橋市史』には、下記のように記述されている。

行橋市-行橋市デジタルアーカイブ:『行橋市史』


「豊前国戸籍断簡

536 ~ 537 / 761ページ
 大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍断簡には上三毛郡塔里(とうり)・上三毛郡加自久也里・仲津郡丁里の三つが記されている。この大宝二年の豊前国戸籍断簡は奈良の正倉院に伝わる戸籍の一部であり、大宝二年に戸令に基づいて中央政府に提出され、一定の保管年限を経たのち反故紙として払い下げられ今日まで伝えられたものである。
 まず、大宝二年の豊前国戸籍断簡に記されている豊前国上三毛郡加自久也里は、現在の豊前市大村および八屋付近に比定されている。豊前国上三毛郡塔里は多布郷の地で現在の築上郡大平村唐原付近に比定されている。豊前国仲津郡丁里は直接的に『和名抄』の郷名と結ばれるものはないが、勝姓に見える阿射弥勝(呰見郷)は豊津町呰見付近、高屋勝は(高屋郷)犀川町下高屋付近、狭度勝(狭度郷)は築城町上城井付近などが明らかになっており、丁里は京都郡を中心とした地域と考えられている。」
そして、次のようにも記述されている。
「和銅七年(七一四)、大隅国が日向国から分立する際に、隼人の教化と国府防衛のために豊前国より二〇〇戸(約五〇〇〇人)の人々が桑原郡(国府所在郡)に移住させられている。桑原郡には『和名抄』によると豊国郷・大分郷のほかに中津郷・答西郷の郷名も確認でき、中津郷は豊前国仲津郡、答西郷は豊前国上三毛郡塔里の人々の移住によって成立したと推定されている5。この説に従うと、二〇〇戸(約五〇〇〇人)の一部は大宝二年の豊前国戸籍断簡に記されている地域の人々と推定され、この大宝二年の豊前国戸籍が作成された一二年後の和銅七年に当該地から隼人の地へ移住させられたと考えることができる。」(【大隅国移住者の原郷】
とある。賢明な諸氏がすぐに想定するように、通説の通り
*前提①豊前国上三毛郡塔里は多布郷の地で現在の築上郡大平村唐原付近
*前提②大隅国桑原郡答西郷(とうせごう)は、現在の鹿児島県姶良市加治木町周辺
とは、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里からの移住民によって成立したと考えている。
さて、過日のブログの中で、次のように記述した(2024年11月3日日曜日)。
「豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡 紙背検受疏目録断簡には、「秦部」が全体の約49%を占める。」
そして
「勝」は秦氏や秦氏と結び付く渡来系氏族に与えられたカバネである。そこで勝姓者は秦氏の支配下集団を領率する在地的有力者であったと考えられないだろうか。
とすれば、豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡に認められる渡来系氏族の割合は約74%に達する。
ちなみに、仲津郡丁里であれば、約95%が秦部と勝の姓を持つ。

かれら朝鮮半島に由来する渡来系氏族は「平底の鉢や縄蓆文、そして有溝把手、鳥足文タタキ」などを保持し、L字形カマドを取 り付けたオンドル住居に居住していたと考えてよいだろうか。例えば、時代は少し遡るけれども、池ノ口遺跡(築上郡新吉富村垂水字池ノ口)で発掘された5世紀前半代の竪穴住居跡約30軒の中の3軒からオンドル遺構が見つかっていることは、小石原泉遺跡のそれと共に、そのエビデンスの一つに数えられよう。
ちなみに岸本一宏氏によると、
‘「オンドル状遺構は、4世紀の初頭までには日本で認められるようになり、8世紀まで存在するのであるが、 通常の竈に比べて極めて限られており、全国でも40遺跡程度(松室 1996)にとどまる。それによれば、オ ンドル状遺構の分布は北部九州と近畿地方に多く、北部九州では福岡県、近畿地方では京都府・滋賀県が特 に多い。近畿地方では滋賀県西ノ辻遺跡で4世紀後半に出現し、滋賀県大塚遺跡、京都府今林遺跡、大阪府 小阪遺跡、滋賀県岩畑遺跡、和歌山県田屋遺跡などで5世紀代のものが確認されている。また、京都府綾部 市の青野・綾中遺跡群では6世紀末~8世紀前半にかけて30棟以上が確認されており、青野型住居(中村 1982)と呼称されている」(「伊勢貝遺跡」(兵庫県埋蔵文化財調査報告 第 430 冊、2012年3月、54頁)
参考文献
松室孝樹 1996「竪穴住居に設置されるL字形カマドについて」『韓式土器研究』Ⅵ 韓式土器研究会」

とも紹介した。

さて、論点を絞ろう。『行橋市史』のみならず、日隈正守氏の研究(「大隅国における建久図田帳体制の成立過程」)も参照にした。

大隅固における郡郷は、『倭名類聚抄』大隅国項によると、

桑原郡 大原郷・大分郷豊国郷答西郷・稲積郷・広田(西)郷・桑善郷・ 仲川 (中津川)郷
贈於郡 葛例郷・志摩(島)郷・同気郷・方後郷・人野郷 
菱刈郡 羽野郷・亡野郷・大水郷・菱刈郷
 姶羅郡 野裏(浦)郷・串(釧)怯(占)郷・鹿屋郷・岐刀郷
 肝属郡 桑原郷・鷹屋郷・川上郷・属(鷹)麻郷 
大間郡 人野郷・大隅郷・謂列郷・姶蕗郷・禰覆郷・大阿郷・岐(支)刀郷 
熊毛郡 熊(能)毛郷・幸毛郷・阿枚郷
■(馬+又)漁(諜)郡諜賢郷・信有郷
とある。


 通説の通り、大隅国桑原郡答西郷は豊前国上三毛郡塔里、そして大隅国桑原郡仲川(仲津川)里は豊前国豊前国仲津郡からの渡来系氏族によって成立したと想定してよいだろう。その仮説の上に立脚すれば、下記の表に見る通り




戸籍によると、豊前国上三毛郡塔里の住民129姓の内、124姓が渡来系である。そして豊前国仲津郡丁里の住民479姓の内400が渡来系氏族である。
常識的に見て、大隅国桑原郡答西郷にせよ、大隅国桑原郡仲川(仲津川)里にせよ移住民の大半が渡来系氏族であったという仮説を提出したい。しかも彼らは新羅系造瓦に従事したり、土地開発・土木技術、さらには、養蚕・織物技術を保持する集団であった。
老司式軒瓦が筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・薩摩に分布することから、彼ら新羅系渡来人は老司式軒瓦を製作したと考えてよい。

その逆な発想をすれば、隼人の地に渡来系氏族を移配することで、隼人地域開発に貢献したと積極的に考えられないだろうか。
<参考資料>
秦部+勝姓の総人数に対する比率は、
 丁里94%、塔里96%、加目久也里82%、某里100%で、
平均93%にのぼる。(『福岡県の歴史』平野邦雄・飯田久雄著 山川出版より)

<参考資料>
天平19年12月から金光明寺写経所での二次利用の反故文書として、
①大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍
②大宝2年筑前国嶋郡川辺里戸籍 
③大宝二年豊前国上三毛那加自久也里戸籍 
④大宝二年豊後国郡里未詳戸籍 
神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳 
⑥神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲下里計帳 
⑦和銅元年陸奥国戸口損益帳
の一つが大宝二年豊前国上三毛那加自久也里戸籍 。
<参考資料>
平野邦雄「豊前の条理と国府」8-9頁、平野邦雄 - 九州工業大学研究報告. 人文・社会科学, 1958 - kyutech.repo.nii.ac.jp
human6_p1_16 (7).pdf
「秦部の分布を,大宝2年の戸籍から推すと、上三毛郡塔里(和 名抄の多布郷)・上毛郡加回久山川(和名抄の炊江郷)に亙っているが・この3里が共に山国川左岸より京都郡行橋に至る間に位置していたことは明白であり26)・史料の偶然性はあるにしても, この地域に集住していたことは間迎いない。即ち秦部,某勝を称するものの総人口に対する百分比 は,秦部48%,某勝37%で,計85%を占め人口数は,例えば丁里の場合,氏姓の判明する口数のみで480,氏名不明のものを加えると,最低 に抑えても680を数える。むろん断簡が多い上に断簡をも数えて戸数34の人口にとピまるのであるから,1里50戸とし,完金な籍帳を想定すると,人rlは確実に1,500を越えたであろう」

<参考資料>
小田富士夫氏によって、すでに先駆的な研究が発表されており、ほぼこの見通しの上で研究が展開されてきた。
「以上にみた豊前を主体とする新羅系古瓦は臼鳳後期から奈良朝前期に盛行したものであり、これは我国に於ける新羅系 古瓦の行われた一般の年代観からすれば古期に属する。新羅系瓦当文は(1)鐙瓦周緑に唐草文を配すること、 面に文様を施すこと、(2)鐙瓦中房の周囲に雄■を附することの三点で我国奈良時代の瓦当文に受継がれ、その分布は北は 東北から南は九州までの広範聞にわたっている。しかも畿内よりも周辺地域に見るべきものの多いことは、書紀や続紀に 伝える新羅帰化人の安置と無関係でないと思われる。九州地方でも奈良盛期には肥後地方で立願寺(玉名郡)、肥後国分寺(熊本市)などにみられ、平安期に下つては稲佐廃t寺(玉名郡)に受継がれている。また肥前でも晴気寺(小城郡) があり、筑後井上廃寺(三井郡)、筑後国分寺(久南米市)などにも新羅系文様の要素が入っている。特に太宰府地方の都府楼、観世音寺、筑前国分寺、学業院などにみられる新羅系文様■は注目をあつめる資料である。しかし、この文様■のと北九州との交渉を『続日本紀』にうかがえば、 
「天平宝字(759〕9月丁卯、勅大宰府、頃年新羅帰化、舶■不絶、規避賦役之苦、遠奔墳基之郷、言念其意、 豈無顧恋、宜再三引問、情願選者、給粮線放却、
と記されているように新羅からの渡航者多く、しかもそれは賦役の苦を逃れて来るような社会的身分の人々であった。彼 等のうちには造瓦などにたずさわるような低い身分の者もいたであろう。事実、稍時代は下るが貞観十二年(871)、 大宰府から差出した新羅人潤清、宣堅等が陸奥に移されたが、そのうち「潤消、長焉、真平等才長於造瓦、預陸奥国 修理府粁造託事、令長其道者、相従伝習」せしめている。」(小田富士夫、「 豊前に於ける新羅系古瓦とその意義: 九州発見朝鮮系古瓦の研究 (一)」1961年、121頁)



大宰府から肥後国府に至る古代官道に関する覚書

 (1)大宰府から豊前国へのルート

大宰府から穂浪、嘉麻二郡を経て豊前国に至るには、政庁から朱雀路を経て左郭の東南端にあたる22条から蘆城駅を経て、米ノ山峠を越えるルートがある。

以下は、

日野尚志「古代に沿ける大宰府周辺の官道について」『歴史地理学紀要 』 歴史地理学会編、 (16), 129-147頁、 1974年
所収の地図である。


(2)大宰府から肥後国府に至る古代官道


肥後国から大宰府までは上り3日、下り1日半。

太宰府から長丘駅(御笠郡長崗郷)を経て基肄駅(基山)、そして筑後国府所在地の御井駅のルートであった。その内で、

*福岡市小郡市から佐賀県鳥栖市に至る8.5㎞に及ぶ直線道路

であった。


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立明寺地区遺跡C地点の古代道(北から)

城山道と立明寺地区遺跡の古代官道[立明寺]

記事ID:0001829 更新日:2020年11月30日更新 印刷ページ表示

 「城山道」と呼ばれる古代道は、大宰帥(だざいのそち)であった大伴旅人(おおとものたびと)が任を終えて都へ帰った後に、筑後守(ちくごのかみ)葛井連大成(ふじいのむらじおおなり)が悲しみを詠んだ歌にのみ残されています。

 今よりは 城の山道は寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを(万葉集巻4-576)

 そのルートはほとんど解明されていませんが、基肄城(きいじょう)の東麓を抜けて大宰府(だざいふ)と筑後国を結び、基肄駅家(うまや)を経由する直線道が推定されています。

 平成20(2008)年6月から8月にかけて発掘調査した立明寺地区遺跡C地点で、奈良時代(約1,200年前)の古代官道と考えられる遺構が見つかりました。これは今日まで推定されていなかった未知の官道で、城山道につながる可能性があります。

遺跡周辺遠景
遺跡周辺遠景(北から)

立明寺地区遺跡C地点の古代道
立明寺地区遺跡C地点の古代道(北から)

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西海道西路(小路)駅家比定地及び駅馬数 国名 駅家等 比定地 馬配置数 

 筑前 

大宰府 太宰府市 兵馬20疋 

 肥前 

基肄駅 基山町小倉 駅馬10疋 

 筑後 

御井駅 久留米市合川町 駅馬 5疋 

 葛野駅 筑後市羽犬塚 駅馬 5疋 

 狩道駅 山川町尾野 駅馬 5疋 

 肥後 大水駅 南関町関下 駅馬 5疋 

 江田駅 菊水町江田 駅馬 5疋 

 高原駅 熊本市改寄町立石 駅馬 5疋 

 蚕養駅 熊本市黒髪 駅馬 5疋 

 球磨駅 城南町宮地 駅馬 5疋

 豊向駅 宇城市豊野町糸石馬立 駅馬 5疋 

 片野駅 八代市妙見町 駅馬 5疋 

 朽網駅 八代市二見本町 駅馬 5疋 

 佐職駅 芦北町佐敷 駅馬 5疋 

 水俣駅 水俣市古城 駅馬 5疋 

 薩摩 

市来駅 出水市武本 駅馬 5疋 

 英祢駅 阿久根市波留 駅馬 5疋 

 網津駅 薩摩川内市網津町 駅馬 5疋 

 国府 薩摩川内市御陵下町 

 田後駅 薩摩川内市向田本町 駅馬 5疋 

 櫟野駅 薩摩川内市樋脇市比野 駅馬 5疋 


 大隅 

蒲生駅 姶良市蒲生町下久徳 駅馬 5疋 

 国府 霧島市国分 


 ※比定地参考:武部健一2005『完全踏査 続古代の道 山陰道・山陽道・南海道・西海道-』 

6757_20230504160658-1.pdfからの転載



肥後国府

①1期国庁 :久留米市合川町古宮地区 (7世紀末~8世紀中頃)

②2期国庁 久留米市合川町阿弥陀地区 (8世紀中頃~10世紀中頃)


③『肥後国交替実録帳』(仁治2年<1241>年


④筑後国の主要駅は御井駅、(御井町)上妻駅(福嶋)葛野駅(羽犬塚)狩道駅(山門郡山川村)井上駅(御原郡井上)を筑後国主要五駅といい各駅には駄馬五頭、伝馬五頭を備えていた。

⑤東山道駅路推定東山道駅路下新田ルート(西から。)の画像

推定東山道駅路下新田ルート(西から。)

郡家の南縁には、西は佐位郡(さいぐん。およそ現在の伊勢崎市地域。)、東は山田郡(やまだぐん。およそ現在の太田市東部と桐生市地域。)を結ぶ東山道(推定東山道駅路下新田ルート)が延びています。写真は、太田市新田市町の下新田遺跡で見つかった東山道駅路の遺構で、両側に側溝をもつ幅約12mの道路の跡です



<参考文献>

 浅島武幹 1940『青柳村誌』(浅島武幹1973『青柳村誌』古賀町文化財研究会) 

 井英明編 2015『青柳篠林地区遺跡の調査(瓜尾・梅ヶ内古墳群と古代遺跡の調査報告)』(古賀市文化財調査報告書第66集)

今井隆博編 2011『名子遺跡1』(福岡市埋蔵文化財調査報告書第1123集)

 大庭康時 2001「福岡市内検出の古代・中世道路遺構について」『博多研究会誌』9 pp.21-31

上角智希編 2002『高畑遺跡−第18次調査−』(福岡市埋蔵文化財調査報告書第699集)

神啓崇 2020「古代官道を掘る 名子遺跡5次調査の成果より」( 考古学講座・発掘調査速報編① )福岡市埋蔵文化財課、 2020.11.28 配布資料

 岸本道昭 2006『山陽道駅家跡』(日本の遺跡11)同成社 

岸本道昭 2017「山陽道の駅家と関連遺跡群」鈴木靖民・荒木敏夫・川尻秋生編『日本古代の道路と景観 −駅家・官衙・寺−』八木書店 pp.453-473

 木下 良 2013『日本古代道路の復原的研究』吉川弘文館 

坂上康俊 2018「阿恵遺跡の歴史的特質」西垣彰博編『阿恵遺跡』(粕屋町文化財調査報告書第43集)  pp.110-134 


重藤輝行 2020「古墳時代九州北部の排水溝付竪穴住居と渡来人」『福岡大学考古学論集3−武末純一先生退職記念−』 pp.367-382  

永田英明 2004『古代駅伝馬制度の研究』吉川弘文館 

中村太一 2001「地理資料にあらわれた古代駅路」『古代交通研究』10 

中村太一 2017「古代の道路と景観」鈴木靖民・荒木敏夫・川尻秋生編『日本古代の道路と景観−駅家・官衙・寺−』八木書店 pp.23-61

山村信榮 1993「大宰府周辺の古代官道」『九州考古学』68 pp.65-81 


山陽道の場合、大阪府高槻市の摂津国島上郡街跡の南の道路は奈良 時代では幅10mから12m以上あ