寺尾美子著 『とはずがたり』 注釈小考 - 浄金剛院の鐘の音』(『駒沢国文』29号、 79-88頁、 1992年)を読む
力作である。資料博捜。寺尾氏の調査が『とはずがたり』注釈作業にどのていど寄与したかは不明であるものの、国文学研究者による雄編の一つであると認め、当該専門分野の研究者に一読を推奨する。
さて、我々の関心は、寺尾先生の論文に触発されて、浄金剛院の梵鐘の来歴にある。
すでに著名であるので、『とはずがたり』からの引用は後記するとして、なによりも『徒然草』220段全文を紹介したい。
「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢずと云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、
『当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。
その声、黄鐘調の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会より聖霊会までの中間を指南とす。
秘蔵の事なり。
この一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなり』と申しき。
凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。
西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出だされけり。
浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」
とある。
もはや浅学菲才の身で、国文学者による幾多の『徒然草』注釈に付け加える情報はないが、我々が注目するのは、
*「遠国より尋ね出だされけり。」
の箇所にある。兼好法師の意図は、冒頭の「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」のアンチテーゼにある。都の文化と比較して、地方(「辺土」)のそれが劣っているはずはないという兼好法師の主張が認められ、その事例として
①西園寺の鐘
②浄金剛院の鐘
が適例だと掲出している。ここで「黄鐘調」に関する自説は割愛する。我が関心の所在が二つの鐘の「遠国より尋ね出だされけり」にあることは上記の通りである。しかしながら西園寺の鐘(今も金閣寺に伝存)の製作地は不明であるものの、律令時代の銅鐘の製作地は
1,奈良
2,越前
3,美濃
4,大宰府
の4か所であったと推定してよい。仮に兼好法師の念頭に東西の製作地から搬入されたとすれば、東の美濃(あるいは越前・奈良)の例として西園寺、西の大宰府の例として浄金剛院の鐘がそれぞれ取り上げられたのではないだろうか。
すでに寺尾美子先生がご指摘になっているように、
「浄金剛院は、後嵯峨上皇が亀山の麓(現京都市右京区嵯峨天龍寺付近)に造営された仙居嵯峨殿(亀山殿)内の別院」(81頁)
であるが、ここで注意しておかなくてはならないのは、浄金剛院の鐘はその寺院を建立する時に、同時に銅鐘が製作されたのではないことである。寺尾先生の驥尾に付して掲示すれば、
「『五代帝王物語』(14世紀初) さて院は西郊亀山の麓に御所を立て、亀山殿と名付~(中略)~殊更に梅宮に事由を申されて橘太后の御願檀林寺の跡に浄金剛院を建てられて道観上人を長老として浄土宗を興行せらる」(82頁)
とあるように、浄金剛院は「橘太后の御願檀林寺の跡」であった。
『赤染衛門集』(平安時代中期の女流歌人・赤染衛門による私家集、生没未詳、11世紀成立か)には、
「檀林寺のかねのつちのしたにきこゆるをいかなるぞととへば、鐘堂もなくなりて、御どうのすみにかかけたればかうきこゆるぞといひしに、きさきのおぼしおきあはれにて、
ありしならずなりゆくかねの音
つきはてむこそあはれなあるべき」
とあり、檀林寺が廃絶した後、11世紀に至っても、その鐘は寺院跡の隅に置かれたままであったという。その後、檀林寺跡に建立された浄金剛院へと伝世され、その鐘は再度人々の耳を楽しませることとなった。しかしその浄金剛院さえも、後に廃絶され、その鐘は再び寺院の廃屋に隠れることとなった。
この鐘が三度世に出るきっかけとなったのは、名所図会には言い伝えとして、
「[右都て一行廿二字に鐫ず。戊戌の年暦分明ならず、糟屋は筑前州の 郡名なり。評は地名、造はミヤツコなり、舂米は氏にして、連はム ラジ、広国は名なり。寺説に云、此鐘は嵯峨浄金剛院の鐘なり、此寺 久しく荒廃して鐘も民間の手にあり。ある時妙心寺の前を擔ふて京 師に出る者あり、開山国師これを見咎て云く、其鐘は何れより何れ へ持行ぞや。鐘主の云く、われらは嵯峨浄金剛院の古跡に棲て農 なり、此鐘村中に久しく持伝へしが、今日京師に出し農具鋤鍬の類 に交易せん為め持行なり。国師悦んで幸に此寺にいまだ鳬鐘なし我 に譲り与へよと、頼給へば。農人悦んで鳥目一貫文に売て嵯峨へ帰る。 それより国師嵯峨に至り、浄金剛院の鐘なる事を糺し、ここに掲る なり。](『都林泉名勝図会』巻之二)
とあったようだ。この言い伝えと同文は『『大日本地名辞書』(編纂期間:1895年(明治28年)から1907年(明治40年)
にも見るが、編者吉田東伍は未記載であるが、その種本は『都林泉名勝図会』(寛政11年(1799年)刊行。京都の名園案内書。著者は秋里籬島、挿絵は佐久間草偃・西村梅渓・奥文鳴。墨摺の五巻六冊本)であった。
以上の考察によって、檀林寺⇒浄金剛院⇒妙心寺へと伝来されていったと判明する。ただし、『徒然草』(第220段)によってわかるように、その根拠は明示されていないものの、「遠国より尋ね出だされけり」であったと伝える。その「遠国」こそ筑前国であったと推定する。