*高麗太祖の二回に渡る日本通使の派遣
①承平七年八月五日の条
②天慶二年三月十一日の条
『帥記』承暦四年閏八月四日の条
③天禄三年
『百錬抄』天禄三年十月二十日の条
④貞治五年(1366)九月 金竜および金逸の一行
三条公忠『後愚昧記』貞治六年三月二十四日の条
「自去月之比、蒙古ならびに高麗使、持牒状来朝之由、有其聞、不経日 数而即上洛、嵯峨天竜寺居住云々、牒状案流布之由、聞之、乃乞取按 察写留了、蒙古状、献方物、即彼目録、載牒状奥者也、但件物等、於 雲州、為賊被掠取云々、糺出而可献之由、武家称之間、有其聞、然而 不及其沙汰?」
この記事からも判断されるように、高麗からの通使はすぐさまに洛中に入ることはなく、嵯峨の天竜寺に滞在しながら、朝廷からの連絡を待ち続けた。それはその当時の寺が、明および高麗からの通使たちの接待のみならず、外交往復文書の起草の任に当たった。
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金竜および金逸両使は恭愍王十七年(1368)に開京に帰着する。
僧梵??・梵繆は日本の使臣として随行して、恭愍王に接見するさいに、諸大臣は立って行礼したが、辛呑のみは坐したままであった。欠礼に立腹した日本の使僧たちは声を激しく、辛呑をなじった。辛呑も激怒し、その場で応酬した。
ここで問題は、彼らはいかなる言語を用いて、その憤怒を表現したかである。
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