この読みは、
*ダザイノダイ「ゲム」 ただし「ケム」という清音で読んでも良い。
である。歴史研究者は「ゲン」と読むが、それは正確ではない。
少監とともに太宰府の3等官。正六位下相当。主に、大宰府管内の訴訟事務などを担当。
令制官職で「監」は、この大宰府の判官(ジョウ)の大監・少監であり、令外では制東将軍などの判官が「軍監」、中衛府の判官が「将監」があり、監は判官に相当するらしい。
ところで和銅4年(711)12月に、葛城王は馬寮監に任命されている。ちなみに『公卿補欠任』天平8年(736)には、橘諸兄が「従三位行左大弁兼侍従左右馬・内匠・催造監葛城王」とあり、左右馬寮監・内匠寮監・催造監を兼務していたが、葛城王は元明・元正・聖武の三代にわたり馬寮監の地位にいた。
この官職は、大宰府の官人の中にあって大弐・少弐に次ぐ位置であり、梅花の宴の三十二首の配列でわかるように、大宰大弐・少弐のように筑前守・筑後守・豊後守と共にトップグループの賓客として遇される中には属さないが、第ニグループの第一位に列されている。
大宰大監大伴宿祢百代の事例を取り上げておきたい。
万葉集には、
1大宰大監大伴宿禰百代梅歌(巻3、392)
事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも吾は逢へるかも(巻4・559)
恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ(560)
思はぬを思ふと言はば大野なる三笠の社の神し知らさむ(561)
暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも(562)
2大宰大監大伴宿禰百代等贈二駅使一歌(左注)右一首大監大伴宿禰百代(巻4、566)
3梅花歌(歌下)大監伴氏百代(巻5、823)
の7首が伝わっている。
その中で、作歌年月が判明するのは、3の天平二年正月十三日の大宰帥大伴旅人の官邸での梅花の宴において、主人旅人の歌の次に記されたものである。2は同年六月、重病の旅人の遺言を聴くべく勅により下向した大伴稲公と大伴胡麻呂の帰京を送る役の先頭に立って送別したおりの歌である。
その後、大伴宿祢百代の官職は、天平十年(七三八)閏七月七日外従五位下で兵部少輔に任 ぜられ、同十三年八月九日美作守に任ぜられた。その時も外従五位下と記されている。同十五年十二月二十六日初めて筑紫に鎮西府が置かれ、従四位下石川加美を将軍とし、外従五位下大伴百代が副将軍に任ぜられた。同十八年四月二十二日従五位下に叙せられ、同年九月二十日豊前守に任ぜられた。同十九年正月二十日正五位下を授けられた。それ以後のことはわからない。
なお、百代の父系をたどることもできない。
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