2026年4月28日火曜日

調布の価格は?

 まず、『続日本紀』にある

「《天平8年(736)5月辛卯【12】》辛卯。諸国調布。長二丈八尺。闊一尺九寸。庸布、長一丈四尺。闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布。上総望陀細貲。安房細布及出絁郷庸布。依旧貢之。」

の記事に注目したい。このルールは全国に普及しいたらしく、

『周防国正税帳』(天平10年)には、

「布弐丈捌(28)尺価稲弐拾(20)束(以1束、充1尺4寸)」(『大日本古文書』2-240頁)

とある。

とある。これによって、全国的に統一した基準で徴収されていたとしてよい。したがって、

「調布1端は稲20束」

であると判明する。


2026年4月27日月曜日

周防国周防郡の「殷富」(長者)であった凡直氏

『周防国正税帳』(天平6年=734年)には、周防郡の長者(「殷富」<『続日本紀』延暦10年5月条>で凡直国造氏の後裔・周防凡直葦原が塩三千顆を貢献したと記される。

凡直氏は奈良時代に周防国全域に大きな影響力を持っていたことは、たとえば『続日本紀』に

「宝亀元年(七七〇)3月癸未【二十】癸未、外正八位下周防凡直葦原献銭百万、塩三千顆、授外従五位上」

とあることでも傍証できよう。この塩三千顆とは「塩90石」(13.5トン=約13,500kg。計算式は1石=10斗=100升 であり、現代の 1石=約180リットル に相当し、90石 × 180L = 16,200L=16.2㎥。16,200L × 0.83(塩の比重) ≒ 13,446kg)に該当する。

この凡直氏は周防のみならず、同じ『続日本紀』に

「天平勝宝元年(749)五月戊寅【十五】戊寅。上野国碓氷郡人外従七位上石上部君諸弟。尾張国山田郡人外従七位下生江臣安久多。伊予国宇和郡人外大初位下凡直鎌足等。各献当国国分寺知識物。並授外従五位下。」

とあり、同じ『続日本紀』に

「《延暦十年(791)九月丙子【十八】》○丙子、讃岐国寒川郡人正六位上凡直千継等言、千継等先、皇直、訳語田朝庭御世、継国造之業、管所部之堺、於是因官命氏、賜紗抜大押直之姓、而庚午年之籍、改大押字、仍注凡直、是以皇直之裔、或為讃岐直、或為凡直、方今聖朝、仁均雲雨、恵及昆〓[虫+支]、当此明時、冀照覆盆、請因先祖之業、賜讃岐公之姓、勅千継等戸廿一煙依請賜之、」

とあるように、伊予国や讃岐国にも凡直氏が居住していたことから推測して、瀬戸内海の伊予・周防地域、つまり瀬戸内海西部の海浜の生産組織(塩浜・漁撈民)に大きく関与していたとみてもよいだろう。

さて、改めて塩三千顆(九〇石)の量が示す経済力を考えてみたい。塩は周防国の主要な調物であった。とすれば、瀬戸内沿岸の塩田・製塩技術を背景に、凡直氏が海浜資源を直接掌握していたことを示す。『延喜式』によると、周防国は調として塩・鯖・比志古鰯など海産物を中央に献納しており、海産加工・製塩は在地首長の富の源泉であった。

ちなみに、塩三千顆(九〇石)とは1石を約180Lとすると、

0.03石×180リットル=5.4リットル=5.4顆

したがって、1顆 ≒ 1本約1.5リットル×3本に該当するので、塩容器×1.5リットルボトル9000本となり、「突出した私的資力」を有しながら、在地の富豪として名をはせていたに違いない。

ちなみに凡直氏は周防国熊毛郡条に

「塩竈壱口」(『大日本古文書 編年文書之一』 天平六年(734)周防国正税帳 文書第247号 コマ420–423(NDLデジタルコレクション)

とあり、その塩生産流通システムを掌握していたに違いない。しかもこの凡直氏の貢納は公的塩生産(国衙や郡家工房など)とは別なルートで私的に準備されたものであり、凡直氏の強大な富の存在を想定させる。

ところで、奈良時代の塩生産方式は

製塩の技術体系(奈良時代)

  • 藻塩焼き(海藻灰を使う古式製塩)

  • 塩浜(砂浜に海水を撒いて濃縮)

  • 竈での煎熬

でのいずれかだが、上述した「塩竈壱口」とあることで、この中で 煎熬工程で使う容器 と推測される。

 要するに、周防国周防郡(防府市周辺)を本拠地とする凡直国造氏は 、

  • 周防国最大の製塩地帯を管理し、

  • 海産物の集積地を形成し、

  • 国衙(周防国府)の所在地に位置し

国府と海産物流通の結節点を押さえた 周防国随一の「殷富」(長者) であった。

 なお、塩長者といえば、筑前国縞郡大領肥公五百麻呂と大宰府観世音寺の「塩釜」を連想させる。





同じ『周防国正税帳』に記録される郡家の備蓄量を見ると、

都濃郡:糒430斛

吉敷郡:糒1733斛

熊毛郡:糒359斛9斗4升



2026年4月22日水曜日

設問)鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は誰か?

 設問)横瀬古墳の埋葬者は誰か?


本稿の目的は、鹿児島県大崎町の横瀬古墳(および隣接する神領古墳群)の埋葬者が、「隼人」のものか「和人(ヤマト王権側の人々)」なのものかという問いの解明にある。これにより南九州の古代史において、隼人勢力圏内への大和政権の影響力の浸透の手がかりの一助としたいからである。

結論から言えば、現在の考古学的な見解では「ヤマト王権文化(和人のスタイル)を強く受けて作られたが、その作り手や背景には隼人文化要素も混じり合っている」と考えるのが自然だと思っている。

論点を整理すると以下のとおりである。

1. 形式は「ヤマト(和人)」のスタイル

盾持埴輪という文化そのものは、近畿地方(ヤマト王権の中心地)で発生し、全国へ広まったものだと考える。

• 横瀬古墳の重要性: 横瀬古墳は全長140メートルに及ぶ、当時としては南九州最大級の前方後円墳です。前方後円墳という形自体がヤマト王権との強い繋がりを示す「政治的シンボル」である。

• 技術: 盾持埴輪の造形や配置の仕方は、近畿地方の作法に準じている。つまり、ソフト(思想)やデザインの源流は「和人」側にある。

2. 「隼人」的な要素と地域性

一方で、南九州は古くから「隼人」と呼ばれる人々が固有の文化(地下式横穴墓など)を持っていた地域です。

• 顔の表現: 大崎町の盾持埴輪は、近畿地方のものに比べると、大隅独特の「入れ墨」のような文様が顔に施されているようにも見える。

• 在地での製作: 埴輪に使われている粘土の分析などから、これらは近畿から運ばれてきたのではなく、大崎町の周辺で作られたことが判明した。在地の埴輪職人(?)がヤマトの技術を導入しつつ、自分たち独自の感性で作ったとみても不思議ではない。


結論として

この盾持埴輪は、「和人の文化を受け入れた、あるいはヤマト王権と深く結びついた現地の隼人系政治的指導者(隼人のリーダー層)」を守るために作られたもの、と捉えるのが最も自然だろう。

「隼人か和人か」という二者択一というよりは、「ヤマトの政治制度の中に組み込まれていった、南九州独自の隼人武人像」が描かれていると言えないだろうか。


【西:志布志湾モデル】 飯盛山(初期)──→ 横瀬(中期ピーク)──→ 唐仁大塚(後期巨大化) │ │ │ │(海上交通) │(王権承認) │(地域巨大化) ↓ ↓ ↓ 大隅海峡・日向灘 西日本海上ネットワーク 南九州支配の中核

鹿児島県大崎町横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?

 設問)横瀬古墳の「盾持埴輪」は何を守っているのか?


仮説:「被葬者」もしくは「聖域」



仮説1: 被葬者(古墳の主)の守護

 古墳に埋葬された主を、敵対する勢力や邪悪な宗教的存在まどか防御すると考えて不都合はない。そして盾持埴輪は武装兵士であるだけに、死後の世界(あの世)でも主人を警護し続ける「ボディーガード」であったと考える。


仮説2: 聖域と俗界の境界を守護する

 埴輪は多くの場合、宗教儀式などを行う空間である古墳の堤や造り出しに置かれている。

 • 結界の役割: 死者が赴く「あの世(聖)」(古墳が入口)と、あとに残された生者たちが暮らす「日常世界(俗)」の境界線の明示化。「聖と俗」という2項対立を必要とする文化装置である。

 • 盾の象徴: 盾は「防御」と「進撃」の2面性をもつ「不動」の象徴である。死者との強いつながりを求める生者には、武力によって築かれた平穏な日常性と、武力によって維持される平和な日々の象徴。特に武人像を据えることで、生者へのメッセージは、死者が作りあげた政治的権力の誇示とその永続性を保証するものであった。


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鹿児島県大崎町横瀬古墳の埋葬者は?ーー拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

本論は約3万時余りの拙稿である。ここではその一部のみを掲載する。 



大崎町横瀬古墳とは?

所在地:大崎町横瀬字エサイ(仮宿1029番地)

①前方後円墳(志布志湾の海岸線より約1km入りこんだ標高約6mの水田中にある。墳長137m後円部径80m高さ10.5m,くびれ部幅58m,前方部最大幅88m,高さ11.5mで周囲には濠がめぐっている。後円部は削られて,竪穴式石室の天井石が露出している。)鹿児島県/横瀬古墳


②円筒埴輪・形象埴輪などを持つ古墳の西南限が横瀬古墳、東北限は岩手県の角塚古墳(大量の円筒埴輪片・形象埴輪片(人物・鳥・馬・盾・草摺(くさずりなど)が墳丘・周濠跡より出土)

③大阪府の陶邑窯の須恵器(5世紀後半~6世紀初頭)出土。 南は横瀬古墳、北は岩手県膳性遺跡で陶邑産の須恵器が流通。

④日本列島の河内・奈良地域を中心地とする文化の波及を想定する。

 ⑤S52・53鹿児島県教育委員会周濠確認。

 H22・23大崎町教育委員会外濠確認。 

H30 S52・53調査時の出土遺物を譲渡 申請

⑥大崎町教育委員会2016『横瀬古墳』大崎町埋蔵文化財発掘調査報告 書(9)



拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開

飯盛山古墳 → 横瀬古墳 → 唐仁大塚古墳 の三古墳を軸に、志布志湾沿岸で5世紀に展開した首長権力の発展を論じたい。


序論(研究目的)

  • 志布志湾沿岸には、5世紀前半〜後半にかけて連続的に大型古墳が築造された。

  • これらは規模・副葬品・立地・政治性が段階的に変化しており、 首長権力の発展過程を示す重要資料である。

  • 特に海面が現在より高かった古墳時代の地形環境が、 海上交通を基盤とする首長権力の成立に大きく影響した。

第1章 志布志湾の地形環境と古代海岸線

1. 志布志湾の地形的特徴

  • 遠浅の湾で、砂丘帯と湿地帯が広がる。

  • 海面変動の影響を受けやすい地形。

2. 古墳時代の海面変動

  • 海面は現在より 1〜2m高かったと推定。

  • 志布志湾では海岸線が 500m〜1.5km 内陸に入り込んでいた可能性。

3. 横瀬古墳の立地が示す海岸線

  • 南北は砂丘、東西は湿地に囲まれた「海浜型前方後円墳」。

  • 当時は 海を望む位置に築造されていた。

4. 海上ネットワークと首長権力

  • 志布志湾は南西諸島〜瀬戸内を結ぶ海上交通の要衝。

  • 古墳群は、この海上ネットワークを掌握した首長権力の存在を示す。

第2章 飯盛山古墳と初期首長権力

1. 飯盛山古墳の概要

  • 全長80m、鹿児島県最古級の前方後円墳。

  • 志布志港を見下ろすダグリ岬山上に築造。

2. 大隅隼人首長層との関係

  • 被葬者は大隅隼人の首長層、または同等の豪族と推定。

3. 海上交通の掌握

  • 海上ルートの監視に最適な立地。

  • 志布志湾の初期首長権力の中心。

4. 横瀬古墳との連続性

  • 飯盛山(5世紀前半)→横瀬(5世紀中葉)

  • 同一政治圏の連続した首長墓と理解できる。

第3章 横瀬古墳とヤマト政権との接続

1. 規模と構造

  • 全長165m、5世紀中葉では九州最大級。

  • 二重周溝(内溝+外溝)を備える。

2. 出土遺物

  • 大和国陶邑窯産須恵器、円筒埴輪・形象埴輪                           →<朝鮮系渡来人文化および伽耶系文化の系譜も想定すべし>

  • 畿内的儀礼の導入=ヤマト政権との強い関係。

3. 被葬者像

  • 「大陸〜南西諸島〜近畿を結ぶ広域交流を掌握した首長」 (大崎町教育委員会の記述)

4. 立地の特異性

  • 海に近接した砂丘帯に築造された南九州では珍しい例。

第4章 唐仁大塚古墳と南九州盟主権力

1. 古墳群の中心

  • 全長185m、鹿児島県最大の前方後円墳。

  • 周囲に140基以上の古墳群。

2. 副葬品

  • 朱塗り石棺、短甲など。

  • 武力と威信財を備えた首長の墓。

3. 政治的性格

  • 地域政治の統合段階を示す。

  • 横瀬古墳の後継として、南九州の盟主権力を象徴。

第5章 権力の東進モデルの提唱

1. 三古墳の連続性

  • 飯盛山(志布志)→横瀬(大崎)→唐仁(東串良)

  • 首長権力が東へ移動しながら巨大化した。

2. 海上ネットワークの役割

  • 志布志湾の海上交通が権力拡大の基盤。

3. 古代海岸線の影響

  • 海に近接した立地が首長権力の性格を規定。ヤマトと隼人の両サイドのダブルマインドとして、権力構造の解明に資する。

結論

  • 志布志湾沿岸の首長権力は、海上交通を基盤に成立し、 飯盛山 → 横瀬 → 唐仁 の順に発展した。

  • 横瀬古墳はその政治的ピークを示し、ヤマト政権との結びつきが最も強い。

  • 今後の課題は古代海岸線の復元。古墳立地と首長権力の理解に不可欠な分析視点である。











2026年4月21日火曜日

鹿児島県大崎町の地名に関して

 1)大崎町横瀬字大領丸

→「郡大領」が居住した郡衙跡か?

2)菱田に残る条里制の痕跡か?

下住上住(下条上条)
仮宿(5条)

豊住(10条)


2026年4月19日日曜日

(新稿)昭島市史古代編の記述に異議あり!

 

「未墾地」という言葉を疑う

――昭島市史の東国移住論をめぐって

昭島市史には、古代における渡来・帰化人の東国移住について、次のような記述がある。

「帰化人が多く東国へ配属されるようになったのは、一つには畿内や近江に収容しきれなくなったという理由が考えられる。あるいはまた、未墾地の開拓のために集団移住せしめたのかもしれない。畿内から遠く離れた東山道・東海道の未開地に彼らを集住させることにより、荒涼とした原野が広がり人は稀薄という状態の東国を開拓させ、古代国家の強化をはかったのであろう」
(昭島市史、395頁)

この説明には、私は異議を唱えたい。

もちろん、律令国家が渡来系集団を東国に移住させ、開発・定住を進めたこと自体を否定するものではない。実際、昭島市史は、武蔵国において新羅系集団を新羅郡(新座郡)に、高句麗系集団を高麗郡に配置し、集団的な定住と開発を進めたと説明している。さらに東国を、蝦夷支配の前進基地、兵力供給地、馬の生産・貢納地として位置づけている。

問題は、その前提として東国を、

「荒涼とした原野が広がり、人は稀薄で、未墾地が残された地域」

と一面的に描いてしまうことである。

1 「未墾地」とは、誰にとっての未墾地なのか

ここで、一つの単純な問いを立てたい。

「未墾地」とは、誰にとって未墾地なのか。

水田を開き、土地を耕し、租税を徴収することを国家の基本的な土地利用と考えるならば、森林・草原・湿地などの広大な土地は「未開発」であり、「未墾地」と映る。

しかし、それは必ずしも「利用されていない土地」を意味しない。

森林には木材・果実・山菜・鳥獣があり、河川や湖沼には魚介類があり、草原には馬などの放牧に利用できる空間がある。

すなわち、農耕民の目から「荒野」と見える空間が、別の生業を営む人々にとっては、生活を維持するための生産空間であった可能性がある。

ここを区別しなければならない。

「未墾地」と「無利用地」は同義ではない。

むしろ重要なのは、土地利用の方法が違っていたということである。

2 「原野」は「無人地」ではない

昭島市史自身、東国について、広大な原野・森林を背景として狩猟・漁撈・放牧などの生業が行われていたことを記している。

そうであるならば、東国の「原野」を、そのまま「人の稀薄な未開地」と理解することには慎重でなければならない。

ここで私は、「非定住民」という言葉も慎重に扱いたい。

東国の住民を一括して「定住農耕民ではない狩猟採集民」とすることも、逆方向の単純化だからである。

東国には農耕集落も存在していた。

したがって、問題は、

農耕民か狩猟採集民か

という二者択一ではない。

むしろ、

水田耕作・畑作・狩猟・漁撈・採集・牧畜・林産資源の利用など、多様な生業を組み合わせながら、土地を利用していた社会

として東国を捉える必要がある。

その意味で、「原野」という景観は、国家の土地制度から見れば「開発余地」であったとしても、在地社会から見れば、すでにさまざまな資源を生み出す生産空間だった可能性がある。

3 「開拓」という言葉にも注意が必要である

ここから、もう一つ重要な問題が出てくる。

国家が東国へ渡来系集団を移住させ、「開拓」させたという場合、その「開拓」とはいったい何を意味するのか。

それは必ずしも、

「何もなかった土地に人間が入ってきて、初めて土地を生産的にした」

という意味ではない。

むしろ、

在地社会が従来とは異なる方法で利用していた土地を、国家が水田・集落・道路・牧・租税徴収などの制度的空間へ再編成した

と理解する方が重要なのではないか。

ここには、「自然を開拓する」という意味と、「既存の土地利用を国家的土地利用へ組み替える」という意味との違いがある。

私は後者を重視したい。

つまり、古代国家の「開拓」とは、単なる自然改造ではなく、土地と人間との関係を国家の側から再編成する行為だったのではないか。

4 「帰化人を東国へ送った理由」も、再検討すべきである

この視点に立つと、渡来・帰化系集団を東国へ移住させた理由についても、従来の説明を再検討する必要がある。

昭島市史は、

畿内・近江に収容しきれなくなった

ことと、

未墾地の開拓

という二つの可能性を挙げている。

しかし、これでは東国移住を「人口の余剰処理」あるいは「労働力による開拓」という観点から説明しすぎているように思われる。

なぜなら、東国には国家にとって別の価値が存在したからである。

東国は、

  • 蝦夷支配のための前進地域
  • 兵士・防人などの人的資源の供給地
  • 馬の生産地
  • 租税・物資の供給地
  • 東海道・東山道など交通網の拠点
  • 国家支配を東方へ伸ばすための政治的空間

でもあった。

昭島市史自身、これらを東国政策の重要な目的として認めている。

そうであれば、渡来系集団の東国移住も、単純な「開拓民の派遣」と見るより、

国家が東国という広大な空間を、農耕・生産・交通・軍事・行政を組み合わせた新しい国家的空間へ編成する過程

の一環として理解すべきではないだろうか。

5 「未墾地」ではなく「異なる土地利用」

ここで、私の問題提起を一つの言葉に集約してみたい。

東国は、

「未墾地」だったのではなく、「異なる土地利用の世界」だった。

この表現の方が、東国の実態に近いのではないか。

中央の国家から見れば、水田になっていない土地は「未墾地」である。

しかし、狩猟・漁撈・採集・牧畜・林産資源の利用などを生活基盤とする人々にとっては、その土地は決して「未利用」ではない。

むしろ、森林や草原や湿地が残されていることそのものが、生業を維持する条件であった可能性がある。

ここで重要なのは、「自然のまま放置されていた」という意味ではない。

人々はその環境を利用し、場合によっては火入れ、採集、狩猟、放牧などを通じて、積極的に環境に働きかけていた可能性がある。

したがって、

「荒野」=「無人」=「未利用」

という三者を同一視することはできない。

6 「開拓」の実態を問い直す

そう考えると、古代国家による東国開発の意味も変わってくる。

国家が行ったのは、単純に「人のいない荒野を耕地に変える」ことではなかった。

そこにはすでに人間がおり、彼らが利用する土地があり、生業があり、交通があり、資源があった。

国家はその上に、

水田・租税・行政区画・道路・駅・牧・軍事拠点・集落

などの新しい制度的空間を重ねていったのである。

この視点に立てば、「帰化人の東国移住」は、単なる開拓民の配置ではなく、異なる生業・異なる土地利用体系を持つ東国社会を、国家の行政・財政・軍事システムへ組み込んでいくための人的配置として見えてくる。

これはかなり大きな問題である。

なぜなら、ここには「国家が未開の土地を開発した」という従来型の開拓史観とは異なる、もう一つの歴史像が浮かび上がるからである。

すなわち、

古代国家の東国支配とは、無人の土地を開拓した歴史ではなく、すでに人間が利用していた広大な空間を、国家が自らの土地利用・租税・軍事・行政の論理へと再編成していった歴史だったのではないか。

この観点からすれば、「未墾地」という言葉そのものが、もう一度問い直されなければならない。

それは土地の状態を客観的に表現した言葉ではなく、中央国家の側から見た土地の評価なのである