2026年4月19日日曜日

(新稿)昭島市史古代編の記述に異議あり!

 

「未墾地」という言葉を疑う

――昭島市史の東国移住論をめぐって

昭島市史には、古代における渡来・帰化人の東国移住について、次のような記述がある。

「帰化人が多く東国へ配属されるようになったのは、一つには畿内や近江に収容しきれなくなったという理由が考えられる。あるいはまた、未墾地の開拓のために集団移住せしめたのかもしれない。畿内から遠く離れた東山道・東海道の未開地に彼らを集住させることにより、荒涼とした原野が広がり人は稀薄という状態の東国を開拓させ、古代国家の強化をはかったのであろう」
(昭島市史、395頁)

この説明には、私は異議を唱えたい。

もちろん、律令国家が渡来系集団を東国に移住させ、開発・定住を進めたこと自体を否定するものではない。実際、昭島市史は、武蔵国において新羅系集団を新羅郡(新座郡)に、高句麗系集団を高麗郡に配置し、集団的な定住と開発を進めたと説明している。さらに東国を、蝦夷支配の前進基地、兵力供給地、馬の生産・貢納地として位置づけている。

問題は、その前提として東国を、

「荒涼とした原野が広がり、人は稀薄で、未墾地が残された地域」

と一面的に描いてしまうことである。

1 「未墾地」とは、誰にとっての未墾地なのか

ここで、一つの単純な問いを立てたい。

「未墾地」とは、誰にとって未墾地なのか。

水田を開き、土地を耕し、租税を徴収することを国家の基本的な土地利用と考えるならば、森林・草原・湿地などの広大な土地は「未開発」であり、「未墾地」と映る。

しかし、それは必ずしも「利用されていない土地」を意味しない。

森林には木材・果実・山菜・鳥獣があり、河川や湖沼には魚介類があり、草原には馬などの放牧に利用できる空間がある。

すなわち、農耕民の目から「荒野」と見える空間が、別の生業を営む人々にとっては、生活を維持するための生産空間であった可能性がある。

ここを区別しなければならない。

「未墾地」と「無利用地」は同義ではない。

むしろ重要なのは、土地利用の方法が違っていたということである。

2 「原野」は「無人地」ではない

昭島市史自身、東国について、広大な原野・森林を背景として狩猟・漁撈・放牧などの生業が行われていたことを記している。

そうであるならば、東国の「原野」を、そのまま「人の稀薄な未開地」と理解することには慎重でなければならない。

ここで私は、「非定住民」という言葉も慎重に扱いたい。

東国の住民を一括して「定住農耕民ではない狩猟採集民」とすることも、逆方向の単純化だからである。

東国には農耕集落も存在していた。

したがって、問題は、

農耕民か狩猟採集民か

という二者択一ではない。

むしろ、

水田耕作・畑作・狩猟・漁撈・採集・牧畜・林産資源の利用など、多様な生業を組み合わせながら、土地を利用していた社会

として東国を捉える必要がある。

その意味で、「原野」という景観は、国家の土地制度から見れば「開発余地」であったとしても、在地社会から見れば、すでにさまざまな資源を生み出す生産空間だった可能性がある。

3 「開拓」という言葉にも注意が必要である

ここから、もう一つ重要な問題が出てくる。

国家が東国へ渡来系集団を移住させ、「開拓」させたという場合、その「開拓」とはいったい何を意味するのか。

それは必ずしも、

「何もなかった土地に人間が入ってきて、初めて土地を生産的にした」

という意味ではない。

むしろ、

在地社会が従来とは異なる方法で利用していた土地を、国家が水田・集落・道路・牧・租税徴収などの制度的空間へ再編成した

と理解する方が重要なのではないか。

ここには、「自然を開拓する」という意味と、「既存の土地利用を国家的土地利用へ組み替える」という意味との違いがある。

私は後者を重視したい。

つまり、古代国家の「開拓」とは、単なる自然改造ではなく、土地と人間との関係を国家の側から再編成する行為だったのではないか。

4 「帰化人を東国へ送った理由」も、再検討すべきである

この視点に立つと、渡来・帰化系集団を東国へ移住させた理由についても、従来の説明を再検討する必要がある。

昭島市史は、

畿内・近江に収容しきれなくなった

ことと、

未墾地の開拓

という二つの可能性を挙げている。

しかし、これでは東国移住を「人口の余剰処理」あるいは「労働力による開拓」という観点から説明しすぎているように思われる。

なぜなら、東国には国家にとって別の価値が存在したからである。

東国は、

  • 蝦夷支配のための前進地域
  • 兵士・防人などの人的資源の供給地
  • 馬の生産地
  • 租税・物資の供給地
  • 東海道・東山道など交通網の拠点
  • 国家支配を東方へ伸ばすための政治的空間

でもあった。

昭島市史自身、これらを東国政策の重要な目的として認めている。

そうであれば、渡来系集団の東国移住も、単純な「開拓民の派遣」と見るより、

国家が東国という広大な空間を、農耕・生産・交通・軍事・行政を組み合わせた新しい国家的空間へ編成する過程

の一環として理解すべきではないだろうか。

5 「未墾地」ではなく「異なる土地利用」

ここで、私の問題提起を一つの言葉に集約してみたい。

東国は、

「未墾地」だったのではなく、「異なる土地利用の世界」だった。

この表現の方が、東国の実態に近いのではないか。

中央の国家から見れば、水田になっていない土地は「未墾地」である。

しかし、狩猟・漁撈・採集・牧畜・林産資源の利用などを生活基盤とする人々にとっては、その土地は決して「未利用」ではない。

むしろ、森林や草原や湿地が残されていることそのものが、生業を維持する条件であった可能性がある。

ここで重要なのは、「自然のまま放置されていた」という意味ではない。

人々はその環境を利用し、場合によっては火入れ、採集、狩猟、放牧などを通じて、積極的に環境に働きかけていた可能性がある。

したがって、

「荒野」=「無人」=「未利用」

という三者を同一視することはできない。

6 「開拓」の実態を問い直す

そう考えると、古代国家による東国開発の意味も変わってくる。

国家が行ったのは、単純に「人のいない荒野を耕地に変える」ことではなかった。

そこにはすでに人間がおり、彼らが利用する土地があり、生業があり、交通があり、資源があった。

国家はその上に、

水田・租税・行政区画・道路・駅・牧・軍事拠点・集落

などの新しい制度的空間を重ねていったのである。

この視点に立てば、「帰化人の東国移住」は、単なる開拓民の配置ではなく、異なる生業・異なる土地利用体系を持つ東国社会を、国家の行政・財政・軍事システムへ組み込んでいくための人的配置として見えてくる。

これはかなり大きな問題である。

なぜなら、ここには「国家が未開の土地を開発した」という従来型の開拓史観とは異なる、もう一つの歴史像が浮かび上がるからである。

すなわち、

古代国家の東国支配とは、無人の土地を開拓した歴史ではなく、すでに人間が利用していた広大な空間を、国家が自らの土地利用・租税・軍事・行政の論理へと再編成していった歴史だったのではないか。

この観点からすれば、「未墾地」という言葉そのものが、もう一度問い直されなければならない。

それは土地の状態を客観的に表現した言葉ではなく、中央国家の側から見た土地の評価なのである


 

 

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