大崎町横瀬古墳とは?
所在地:大崎町横瀬字エサイ(仮宿1029番地)
①前方後円墳(志布志湾の海岸線より約1km入りこんだ標高約6mの水田中にある。墳長137m後円部径80m高さ10.5m,くびれ部幅58m,前方部最大幅88m,高さ11.5mで周囲には濠がめぐっている。後円部は削られて,竪穴式石室の天井石が露出している。)鹿児島県/横瀬古墳
②円筒埴輪・形象埴輪などを持つ古墳の西南限が横瀬古墳、東北限は岩手県の角塚古墳(大量の円筒埴輪片・形象埴輪片(人物・鳥・馬・盾・草摺(くさずりなど)が墳丘・周濠跡より出土)
③大阪府の陶邑窯の須恵器(5世紀後半~6世紀初頭)出土。 南は横瀬古墳、北は岩手県膳性遺跡で陶邑産の須恵器が流通。
④日本列島の河内・奈良地域を中心地とする文化の波及を想定する。
⑤S52・53鹿児島県教育委員会周濠確認。
H22・23大崎町教育委員会外濠確認。
H30 S52・53調査時の出土遺物を譲渡 申請
⑥大崎町教育委員会2016『横瀬古墳』大崎町埋蔵文化財発掘調査報告 書(9)
拙論:志布志湾沿岸における首長権力の形成と展開
あなたの文書は、飯盛山古墳 → 横瀬古墳 → 唐仁大塚古墳 の三古墳を軸に、 志布志湾沿岸で5世紀に展開した首長権力の発展を論じています。
以下、章構成に沿って要点をまとめます。
序論(研究目的)
志布志湾沿岸には、5世紀前半〜後半にかけて連続的に大型古墳が築造された。
これらは規模・副葬品・立地・政治性が段階的に変化しており、 首長権力の発展過程を示す重要資料である。
特に海面が現在より高かった古墳時代の地形環境が、 海上交通を基盤とする首長権力の成立に大きく影響した。
第1章 志布志湾の地形環境と古代海岸線
1. 志布志湾の地形的特徴
遠浅の湾で、砂丘帯と湿地帯が広がる。
海面変動の影響を受けやすい地形。
2. 古墳時代の海面変動
海面は現在より 1〜2m高かったと推定。
志布志湾では海岸線が 500m〜1.5km 内陸に入り込んでいた可能性。
3. 横瀬古墳の立地が示す海岸線
南北は砂丘、東西は湿地に囲まれた「海浜型前方後円墳」。
当時は 海を望む位置に築造されていた。
4. 海上ネットワークと首長権力
志布志湾は南西諸島〜瀬戸内を結ぶ海上交通の要衝。
古墳群は、この海上ネットワークを掌握した首長権力の存在を示す。
第2章 飯盛山古墳と初期首長権力
1. 飯盛山古墳の概要
全長80m、鹿児島県最古級の前方後円墳。
志布志港を見下ろすダグリ岬山上に築造。
2. 大隅隼人首長層との関係
被葬者は大隅隼人の首長層、または同等の豪族と推定。
3. 海上交通の掌握
海上ルートの監視に最適な立地。
志布志湾の初期首長権力の中心。
4. 横瀬古墳との連続性
飯盛山(5世紀前半)→横瀬(5世紀中葉)
同一政治圏の連続した首長墓と理解できる。
第3章 横瀬古墳とヤマト政権との接続
1. 規模と構造
全長165m、5世紀中葉では九州最大級。
二重周溝(内溝+外溝)を備える。
2. 出土遺物
陶邑窯産須恵器、円筒埴輪・形象埴輪。
畿内的儀礼の導入=ヤマト政権との強い関係。
3. 被葬者像
「大陸〜南西諸島〜近畿を結ぶ広域交流を掌握した首長」 (大崎町教育委員会の記述)
4. 立地の特異性
海に近接した砂丘帯に築造された南九州では珍しい例。
第4章 唐仁大塚古墳と南九州盟主権力
1. 古墳群の中心
全長185m、鹿児島県最大の前方後円墳。
周囲に140基以上の古墳群。
2. 副葬品
朱塗り石棺、短甲など。
武力と威信財を備えた首長の墓。
3. 政治的性格
地域政治の統合段階を示す。
横瀬古墳の後継として、南九州の盟主権力を象徴。
第5章 権力の東進モデルの提唱
1. 三古墳の連続性
飯盛山(志布志)→横瀬(大崎)→唐仁(東串良)
首長権力が東へ移動しながら巨大化した。
2. 海上ネットワークの役割
志布志湾の海上交通が権力拡大の基盤。
3. 古代海岸線の影響
海に近接した立地が首長権力の性格を規定。
結論
志布志湾沿岸の首長権力は、海上交通を基盤に成立し、 飯盛山 → 横瀬 → 唐仁 の順に発展した。
横瀬古墳はその政治的ピークを示し、ヤマト政権との結びつきが最も強い。
古代海岸線の復元は、古墳立地と首長権力の理解に不可欠である。
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