2025年6月16日月曜日

関東地方の渡来人--鶴ヶ島市史よりの転載

 

以下の文は、『鶴ヶ島市史』からの転載である。

大変に便利な表であり、これを基盤にして自説を展開していきたい。



 関東地方の渡来人

165 ~ 166
 大陸や半島からの渡来人の配置状況については先述の通りであり、七世紀以降は朝廷の方針変更のため、未開地の多い関東に安置されるようになったのである。
 しかし、それ以前にも渡来人はすでに移住していたのであった。
 関東地方の渡米人関係年表は大略次の通りである。
年号西暦事項
六世紀以前武蔵国の屯倉(みやけ)(朝廷直轄領)を掌る者の中に渡来人がいた。旧神代村の大半、三鷹市・武蔵野市・川崎市の一部に高句麗人がいた。
川原氏(漢人系坂上氏)が常陸国の国宰(さい)(国司)となる。
推古三六年六二八土師臣真中知(はじのおみまつち)とその臣の檜前(ひのくまの)浜成・竹戊らが、浅草で黄金像を網にかける(縁起)。檜前氏は漢人(百済経由の漢人)。
天智五年五五五百済人を東国に移す。
〃 七年六六八福信の祖父、背奈福徳が波来す。
天武一三年六八四新羅人羊大夫来朝す。
百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。
持統元年六八七常陸国に高麗人五六人を居らしむ。
下野国に新羅人一四人を居らしむ
武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。
〃 三年六八九下野国に新羅人を居らしむ。
下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。
碑を建て、墓誌を記す。
〃 四年六九〇武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。
下野国に新羅人らを居らしむ。
和銅四年七一一上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。
霊亀二年七一六武蔵国に高麗郡を新設。
天平五年七三三武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。
〃 一三年七四一国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。
天平宝字二年七五八武蔵国に新羅郡を新設。
〃 四年七六〇武蔵国に新羅人一三一人を置く
天平神護二年七六六上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。
宝亀二年七七一武蔵国は、東山道より東海道へ転属さる。
〃 一一年七八〇武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。
(今井啓一「帰化人の来住」に一部追加)

 この表で見るように、奈良時代までに、おびただしい渡来人が定住している。しかしこれは関東だけである。初めは渡来人の高度な知識や技術を学ぶために、畿内およびその周辺に配置したので、その地域における渡来人の戸数は莫大なものであった。平安初期に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、左京・右京、そして畿内、すなわち、山城・大和・摂津・河内・和泉の五か国だけで、全体で一、〇五九氏のうち、渡来人系は三二四氏を数え、ほぼ三〇パーセントの多きを占めている。畿内では三人に一人が渡来人系であるわけである。地方の農民層では、その比率は幾分かは下がるであろうが、その時代から千数百年もたっている。その間に縁組みが幾重にも重ねられて、今ではすっかり同化してしまって、区別はなくなっている。
われわれ一人一人の血は、古代の渡来人の血を一〇パーセントか二〇パーセントぐらいは受けついでいると考えざるを得ない。

1 三つの文献資料

167 ~ 168
 この広大な地域を占め、豊富な遺構・遺物を内蔵した若葉台遺跡群について、その実体は何であろうか。入間郡の郡衙のあとであるのか、それとも地方豪族の屋敷あとか、或は初期荘園の荘家であるのか、今もって定説というものはない。謎に包まれた遺跡群である。このさい、この遺跡群の本来の姿を探索するため、奈良朝末期から、平安朝初期にかけての文献に現われる入間郡の重要な記事を次に並べてみよう。
(一) 神護景雲三年(七六九)に、入間郡の人、大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)なる人物が、奈良西大寺に商布(※1)千五百段、稲七万四千束、墾田(こんでん)(※2)四〇町、林六〇町を寄進し、その功績を賞して、宝亀八年(七七七)六月五日に、外(げ)従五位下(※3)を追贈された。(『続日本紀』巻三四)
 もっとも、宝亀八年は神護景雲三年から八年たっており、位階の昇進は彼の死後である。とにかく、これだけ莫大な財物を寄進できる地方豪族が入間郡にいたわけである。
 ※(1) 古代に、調・庸にあてないで、商品用として織った布(ぬの)。
 (2) 律令制時代に新たに開墾した田地。

 (3) 律令制時代に、五位以下は、内位と外位(げい)(地方豪族出身)の区別があった。

(二) 赤男が墾田と林を寄進した神護景雲三年から二年たって、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日には、西大寺の資財として、次のような図面と帳面が保存されていた。
一巻 武蔵国墾田文図 宝亀九年 在国印

一巻  同  林地帳 宝亀九年 在国印

 また、田園山野図として、
武蔵入間郡榛原(はいはら)庄一枚 布 在国印

がある。これらの墾田・林・荘園は、いずれも国印を受けている。これは、つまり、武蔵国の国司から出された不輸租(租税の免除)の許可状を受けているということである。(「西大寺資財流記帳」)
 この榛原庄について、西岡虎之助氏は同寺の封戸(ふこ)二五〇戸が荘園化したものだろうという(『荘園史の研究』下)。また、その位置については、『埼玉縣史』は「報恩寺年譜」に記載する「春原荘広瀬郷」の春原荘が榛原庄と同一だとして、広瀬の付近である旧水富村を比定している。
(三) (一)と(二)は奈良朝の記録であるが、それから四一八年たった鎌倉時代になると様相は一変した。建久二年(一一九一)五月一九日の「注進 西大寺領諸庄園現存日記ノ事」という事書(ことがき)がある。その記事を見ると、西大寺には四六か所の荘園があったのだが、そのうち九か所は国司に収公されたり、地方豪族に押領されたりして、今は有名無実だという。その次に「顛倒(てんどう)庄々」という項目がある。これには、かつては西大寺領であったが、今では失われてしまった荘園を列記してある。そのなかに「武蔵国入間郡安堵(刀)(あと)郷栗生(くりふ)村田四〇町 林六〇町」が記載されている。(「西大寺文書」)
 この田と林とは、大伴部直赤男が寄進した墾田・林と符合するものである。
 今までの記述は要するに、
(一) 宝亀八年(七七七)の『続日本紀』巻三四、武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が墾田四〇町、林六〇町歩その他を西大寺に寄進して、死後、外従五位下を追贈された。
(二) 宝亀一一年(七八〇)には、不輸租の国印をもらった寄進地を資財帳に書きとどめた。
(三) 鎌倉初期になると、入間郡安堵(刀)郷栗生村の荘園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた

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