『日本三代実録』巻13 、貞観8年(866)7月15日丁巳 条には、
「大宰府馳奏言、『肥前国基肆郡人川辺豊穂告、同郡擬大領山春永語豊穂云、与 新羅人珎賓長 、共渡入新羅国 、熹造兵弩器械之術 、還来将撃取対馬嶋 、藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡人永岡藤津等・是同謀者也。仍副 射手卌五人名簿 』、 進 之 。」
とある。この記事が伝えるメッセージは敵国新羅に流出した兵器製造技術情報は大宰府にとって深刻な事態であったという京への通報である。しかもその流出した武器情報を持ち込んだ新羅による対馬侵攻によって新羅・日本間の領土紛争が発生する危険性もあったという。
結論から言えば、私の仮説は次の通りである。
①肥前国基肆郡擬大領山春永が藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主が盟約を結んだ
②(筑前国席田郡居住か?)新羅人珎賓長の道案内で、肥前国基肆郡擬大領山春永が新羅に渡航する(「共渡入新羅国」)。
⇒「新羅人珎賓長」に関する資料は見当たらないものの、仮に「珎」の漢字音が「진」であると仮定すれば、同一漢字音である「秦」氏と関係するかもしれない。朝鮮資料に「珎」の姓氏は管見の限りでは存在しなかったからである。
③大宰府から新羅に、兵器製造技術情報が流出
ところで、同じ貞観8年に隠岐守越智貞厚が新羅人と結託して反逆を謀議していると、隠岐国浪人安曇福雄に密告された。次の『日本三代実録』貞観11年(869)10月26日条である。
「太政官論奏曰、刑部省断罪文云、貞観8年隠岐国浪人安曇福雄 密告。前守正六位上越智宿袮貞厚、与新羅人同謀反造。遣使推之、福雄所告事是誣也。至是法官覆奏、福雄応反坐斬。但貞厚 。 知部内有殺人者不挙。仍応官当者。詔、斬罪宜減一等処之遠流。
貞観11年 (869) になって 誣告だとされたものの、これら北九州と隠岐の両事例を見ても、新羅国への渡航を可能にするルートや人的ネットワークが成立していたと思われる。
問題の本質は、日本から新羅に流出した武器情報である。武器や軍事転用可能な貨物・技術が隣国である新羅に伝わることは日本の国防を脅かす恐れがあるために、それは、何としても防止しなくてはならなかった。
しかしながら日本のみに兵器「弩」が使用されていたわけでなかったことを知っておくべきである。中国由来の品であった。しかも中国の陸続きで唐の大軍が朝鮮半島に駐留していたこともあり、新羅国において兵器「弩」は必ずしも目新しい武器ではなかった。むしろ新羅軍にとって大切なのは自軍との比較することにあった。日本軍が使用する兵器「弩」の殺傷能力であり、日本式改造品の優劣であっただろう。新羅軍には、大宰府から新羅に伝来した「弩」の製造情報は孫子の兵法に曰く「知彼知己者、百戰不殆」であったにちがいない。
<資料1>指定文化財<県指定文化財>弩機 伊治城跡出土 - 宮城県公式ウェブサイト
弩機 伊治城跡出土
県指定有形文化財(考古資料) 栗原市
伊治城は,神護景雲元年(767)に律令政府が東北統治の拠点の一つとして設置した城柵で,現在の栗原市築館城生野に所在する。本資料は,伊治城跡SI491竪穴建物跡床面から出土した古代武器・弩の発射装置「機」である。
弩は弓と機を臂に取り付けた構造であり,このうち機は「牙(が)」「望山(ぼうざん)」「懸刀(けんとう)」「牛(ぎゅう)」「郭(かく)」「栓塞(せんそく)」の各部からなる。本資料は,それら各部を留めるピンの一部の欠損を除くと完形である。大きさから兵士の携行用とみられ,8世紀後半の律令政府の最前線拠点だった伊治城に所属する弩手の武器と考えられる。
本資料以外の国内出土の弩はすべて臂で,祭祀用木製具と元寇の際に元軍が使用したものに限られる。発見から約20年が経過した現在においても,国内で出土した弩機としては,本資料が初例かつ唯一であり,文献でのみ知られていた弩の存在を証明し,中国出土の弩機と構造が共通した実戦用の武器であることを示したものとして,学術的並びに歴史的価値が高い。
(指定年月日)令和2年(2020年)2月14日
(大きさ)長軸70ミリメートル・短軸45ミリメートル・高さ53ミリメートル
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<資料2>
埋蔵文化財|パネル展1999築館町伊治城跡 - 宮城県公式ウェブサイト
まぼろしの武器「弩」発見 (9)伊治城跡(築館町)
「弩」の発射装置部分「機」が古代の城柵跡伊治城の竪穴住居跡から発見されました。これは国内初の出土例です。「弩」は現代の「クロスボウ」と同じものです。引き金を使って矢を発射する弓で、命中率が高く、普通の弓よりも強力で矢を遠くへ飛ばすことができます。
協力:築館町教育委員会
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<資料3>前賢故実(全10巻20冊、菊池容斎)巻3,「小野春風」の項
<資料4>
姫原西遺跡出土の弩形木製品の写真あり、
<参考論文」
① 板橋源 「鎮守府弩師考」『岩手大学学芸学部研究年報』第8巻第1部、1955
②八幡一郎「古代中国の弩について」(『史潮』84.85,1963年)
*加藤孝「弩・弩台考―古代東北の城柵跡の 考古学的研究―」(『東北学院大学論集(歴史学・地理学)』7、1976年)
* 近江昌司 「 本朝弩考」『 国 学 院 雑 誌 』 80-1、 1979 年
* 櫛 木 謙 周 「 律 令 制 下 に お け る 技 術 の 伝 播 と 変 容 に 関 す る 試 論 」『 歴 史 学 研 究 』 518号、198年
* 加 藤 孝 「 考 古 学 上 よ り 観 た 古 代 野 代 営 跡( 二 )」『 東北学院大学東北文化研究所紀要 』 14、1983 年
*岩城正夫「古代「弩」復元の試み―「弩」復元過程でみえてきた私 の研究法―」(『和光大学人間関係学部』5、2000年)のように考古学 の成
*鄭淳一「貞観年間における弩師配置と新羅問題」) 『早稲田大学大学院文学研究科紀要第4分冊』56、201 」BungakuKenkyukaKiyo4_56_Chong (1).pd
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