2025年1月13日月曜日

『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』(島根県古代文化センター編、八木書店、2023年刊)を読む(第2稿)

(1) 『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』(島根県古代文化センター編、八木書店、2023年刊)の上梓を心からお祝い申し上げたい。本書の企画は島根県古代文化研究センター設立30周年記念事業の一環であったそうだ。その事前調査研究調査作業は平成26年(2014)から令和2(2020)まで6年間継続した。島根県古代文化センター総出で取り組んだ研究成果の一つが本書である。周年事業の企画立案から予算措置、特に長期間にわたり、古代文化センターにおいて所員すべてを統率したリーダーはどなたか未記載であるが、そうした大きな「縁の下の力持ち」役を果たした方に深甚の謝意を表したい。察するに、県庁内における稟議書を通すために、多大なエネルギーを費やされただろう。とかく文化関係予算配分には、県庁における「内なる敵対勢力」の強硬な抵抗にあったはずである。端的言えば、「なぜ、今なのか?」というのが常套句。敬服する次第である、それに戦い勝ったリーダーに。

(2)まず、佐藤信「風土記の編纂と『出雲風土記』成立」は佐藤氏の力量と知識をもってすれば、奇妙なほどに軽い読み物となっている。序文として執筆なさったに違いない。

無益な憶測は控えなくてはならないが、佐藤氏の力の入れ方の差が出たものに違いない。したがって、本エッセイを論評の対象から除外しても佐藤氏は了となさるだろう。

(3)次に中身の軽い論は、山村桃子「『出雲国風土記』の神話的性格」。山村氏のアカディミック背景は何かを知らないが、それだけに主軸となる戦略的ツールがないだけに、すべての論点が漠然としている。その一例をあげれば、論文全体を通覧しても、出雲神話が首尾一貫した体系性を有したstoryであったかなのか、山村氏が強調する断片でしかなかったか判然としないのは、惜しい。だからこそ神話的世界観(コスモロジー)を描写できないのも当然である。個々のAgendaに論証を加えているものの、では出雲神話全体を問われたときに、回答に窮するはずである。このように書けば、鋭利な山村氏の予想される反論は、本論は『出雲国風土記』に視点を限定した考察であるので、記紀神話など総体をカバーしてはないという点であろう。もし仮にそうであれば、やはり本論の冒頭で、事前説明をしておくべきだった。それがないだけに、山村氏の念頭にいかなる分析手法と神話的世界が存在しているか不明なままで考察がなされれおり、斬新な結論が見当たらないばかりでなく、本論が学界に議論を噴出させる新説も提出されていない。例えば、「天下造らしし神」(飯石郡条)とは何かを論じることがない。つまり出雲国において宇宙起源神話=世界創造神話がいかに語られていたかに関する山村説がない。

 この点、加藤義成氏の広い視野を踏まえることも必要だっただろうし、大林太良氏や吉田敦彦氏・伊藤清司氏・松村一男氏などの神話学研究にもう少しアクセスしても良かったのではないだろうか。

なお、お望みであれば、本論の個々に関する論評は山村氏に対して個別に申し上げたい。

(4)力作は、荒井秀規氏「史料としての『出雲国風土記』」であり、高橋周「『出雲国風土記』の写本と写本系統」である。この2編は読みがいがある。


(5)本論評の核心は、同書の「注釈」にある。補注の1-1001(417-621頁)全体を、私の手許のノートと照合しながら精読させていただいた。その結果、二三の疑問の箇所を発見するにいたったので、それを本欄で公表したい。



(この稿、つづく)

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