この数年、移配エミシ集団の研究を進めてきた私であったが、全く迂闊にして不勉強のそしりを免れないが、下記の平野修論文の存在を見落としていた事のお詫び
- 平野 修. 出土文字資料からみた移配エミシ集団の一様相-帝京大学八王子キャンパス構内遺跡群を事例に-. 帝京大学文化財研究所研究報告. 2020. 19. 347-361
- 古代の塩生産と流通からみた移配エミシの役割-甲斐と駿河における予察-. 山梨県考古学協会誌. 2020. 27. 45-54
- 平野 修. 古代東国牧再考-牛馬飼育における「塩泉」利用の視点から-. 山梨県考古学協会誌. 2023. 30. 41-48
- 平野修. コラム 移住した蝦夷(エミシ)はどこに居たのか. 山梨県立博物館秋期企画展 文字が語る古代甲斐国 展示図録. 2018. 49-50
- 平野修. 武蔵と甲斐における俘囚・夷俘痕跡. 日本学術振興会科学研究費補助金研究成果公開シンポジウム「俘囚・夷俘」とよばれたエミシの移配と東国社会資料集. 2017. 41-80
- 平野修. 東北系土師器を焼いた焼成遺構-東京都多摩市竜ヶ峰遺跡検出SK1土坑の再検討-. 東京考古. 2016. 34. 35-52
- 平野修. 日本古代俘囚の移配に関する考古学的検討. 山梨県考古学協会誌. 2015. 23. 19-34
- 平野修. 平安時代武蔵国における俘囚の土器. 山梨文化財研究所報. 2014. 55. 2-4
- 平野修. 東京都多摩市上っ原〈うわっぱら〉遺跡(多摩市?1遺跡)出土の東北系土師器について. 東京考古. 2013. 31. 67-82
- 平野修. 考古学からみた律令制下の東国内における技能・技術交流. 帝京大学山梨文化財研究所研究報告. 2011. 15. 15. 109-126
この平野修による先行研究を学んだのは、植月学・覚張隆史「百々遺跡と古代の牛馬利用」『
モノ・構造・社会の考古学 : 今福利恵博士追悼論文集』今福利恵博士追悼論文集刊行委員会編.、 今福利恵博士追悼論文集刊行委員会、 2022年、433-444頁であった。
まず百々遺跡とは、
「山梨県南アルプス市百々遺跡は甲府盆地西部の御勅使川扇状地中央部に位置する平安時代を中心とする大規模
集落遺跡である。遺跡は南北約840m、東西推定2500mの範囲に広がる。平安期の住居跡は251軒が確認された(今
福2004b)。遺跡の存続期間はより幅広く、9世紀初頭に始まり10世紀頃をピークに中世鎌倉期からおよそ15世
紀頃までの遺物が確認されている(今福2004b, c)」(433頁)
であるという。
そこに発掘された出土遺物から、植月学・覚張隆史の見解は次の通りである。
「百々遺跡において死牛馬の処理に当たったのはどのような人々だったのか。平野(2015、2017)は東北地方と
の関連を窺わせる遺構(長煙道型カマド)、遺物(東北系土器)の検討により、東北地方より東国に移配された「俘
囚」や「夷俘」と呼ばれた人々の存在を明らかにしている。百々遺跡は山梨県内で長煙道型カマドがもっとも高
率で検出された遺跡であり、「9世紀代に東北の38年戦争が起因として甲斐国内へ移配された俘囚の居住地の一
つであった可能性は極めて高い」とされている(平野2015: 29)。加えて、磨痕石よる皮革加工の可能性が想定
された先述の東京都落川・一の宮遺跡では9世紀第3四半期と10世紀第1四半期に高い率で長煙道型カマドが
検出された(平野2017)。骨髄利用の可能性を指摘した多摩市上っ原遺跡のウシ遺体出土竪穴建物もやはり長煙
道型カマドであり、隣接する竜ヶ峰遺跡も含めて土師器は東北系が主体を占めるという(平野2017)。上っ原遺
跡では甲斐型坏も共伴しており、馬牛生産という共通性もふまえて「飼養技能を持った彼らを、武蔵・甲斐両国
国司がそのつながりのなかで自由に再移配させていた状況も想定される」(平野2015: 31)という興味深い見解
も示されている。また、その後両遺跡の出土墨書土器の再検討を踏まえて「牛馬の扱いに慣れたエミシが甲斐国
から再移配された集団」とも推測された(平野2020: 359)。
平野が提起する甲斐と武蔵における俘囚と牛馬との関連性は説得力があり、筆者も基本的には同意する。」(442頁)
とある。
この平野説を承認する私には、日本全国において
「長煙道型カマド」を発見するに、考古学関係者なお力をお借りしたい。
「蝦夷=エゾは東北」という固定観念があったために、特に西日本において蝦夷との関係を前提として発掘資料の評価がなされなかったのではないかと予想される。
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