2025年1月12日日曜日

貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

「因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃 」

この記事では、貞観5年とあるのみで、その日時は未記載である。したがって、台風シーズンなどの自然災害なのか、それとも船内の偶発もしくは故意による事故が発生したのかを類推できないのを残念に思う。

 文中の「荒坂浜」は未詳。常識的に「波の荒い浜」と理解してよいだろう。仮にそうであれば、なぜ、この浜のみを「波の荒い浜」と呼称するのかに対して、回答できない。愚見によれば、「アラ+浜」と分析され、「アラ」は朝鮮半島南部に存在した「安羅」に由来すると考えている。ちなみに鳥取市福部町湯山に位置する湯山6号墳は大谷山先端部にある直径13m、高さ1mの5世紀初頭の円墳であるが、小札鋲留眉庇付冑が出土したことで著名である。この鋲留技法や鍛造技術は、朝鮮半島からの伝製品か、朝鮮半島からの渡来系技術者が作製したか不明であるが、いずれにせよ朝鮮半島南部に存在した安羅地域との関連を予測させる。後考を俟つ。

因幡国府(鳥取市国府町中郷)に着任した、時の国守は藤原有貞(?ー貞観15年<873>3月26日>

因幡国庁跡 /とっとり文化財ナビ /とりネット /鳥取県公式ホームページ

「来着」(漂着?)したのは「新羅57人」乗船の中型サイズの朝鮮船か。ここで注目すべきは「略似商人」の文言。


新羅」五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮」

この文言を理解する為には、

「太政官符

 応領新羅人交関物事 

 右被大納言正三位兼行左近衛大將民部卿淸原真人夏野宣偁、如聞、愚闇人民傾覆櫃速、踊貴競買、物是非可鞱奉遣弊則家資殆罄、耽外土之声聞、蔑境内之貴物、是実不加捉搦所致之弊、 宜下知大宰府厳施禁制、勿令輙商人来着、船上雑物一色已上、簡定適用之物、附駅進上、不適之色、府官検察、遍令交易、 其直貴賎、一依估價、若有違犯者、殊処重科、莫従寛典、 天長八年九月七日 」(『類聚三代格』巻18、天長八年<831>九月七日、官符)

を念頭において当該文を理解しても良いはずである。つまり「新羅人交関」は新羅商人の日本列島来航を認めたうえで、日本人商人との交易を許可しているからである。ただし、大宰府において「適用之物」は官に納入させ、それ以外の物は民間マーケットで交易しても良いと命令している。

 とすれば、本資料において「略似商人」と特記して、さらに「勅給程粮、放却本蕃」とまで明記している背景には、漂着した新羅人57人は商人であるので、彼らが持参した商品との「交易」を終えたならば、規定に従って「勅給程粮」した後、「放却」(大宰府に通告することなく、現地から「本蕃」、つまり「本の蕃国である新羅国」に帰国するように命令した)という含意があると理解しても、あながち不自然ではないだろう。

  1. 因幡国府は法美郡稲葉郷(現国府町中郷)に設置、郡衙跡は気多郡衙(現気高町)・八上郡衙(現郡家町)に配定されたので、いずれかを経由して荒浜から因幡国府へと新羅人商人漂着の知らせが伝わっただろう。

写真は、因幡国府跡。鳥取県庁HPからの転載

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