2025年6月26日木曜日

東大寺大仏に対する金属専門家の見解に傾聴

 金属専門家の言は貴重である。この論文発表が一九六八年であるので、その後の研究の深化で訂正する点も生じているにちがいない。だが、重要なのは「知の体系」である隣接諸学問をリンクしながら、奈良学に関する「知の集積」を図ることである。

例えば、「なぜ、塗 金を完了するのに5年 の歳月」を要したかなどは、石野氏の論を踏まえなくてはならない。


石 野 亨「奈 良東大寺大仏の塗金 古 仏 像 の表面処理について」

https://doi.org/10.4139/sfj1954.15.6_7


以下は、石野氏の論文の一部。


1)「延暦僧録に 「塗練金4千 百八十七両一分四銖,為 滅金 二万五千百三十四両二分銖,右 具奉塗御躰如 件」とあるが,こ れは金4187両 を水銀に溶か し,ア マルガムとしたもの25334両 を仏体に 塗ったと読解するのが妥当であろう. 

すなわち,金 と水銀を1:5の 比率で混合 して,ア マルガムとし,こ れを塗って加熱 し,塗 金を完了するのに5年 の歳月を要して いる. 

これは第一に,鋳 放し表面を塗金しうるま で平滑にすること,第 二に,塗 金後の加熱を 十分慎重に行わねば,加 熱時に発生する水銀 の蒸気は非常に有毒なので,す でに大仏殿の 建造も終っている状況(第1表 に示すように 大仏殿は751年 完成し,塗 金は752年 より開 始されている)で は大仏殿内は水銀蒸気が充 満 し,作 業者にとって非常に危険な状態にあ ったことが容易に想像される」


2)「(3) 塗金用材料の使用量と塗金の厚サに ついて 朝比奈貞一氏がアイソトープを用いて,東 大寺大仏の塗金残存部の厚サを測り,厚 い所 で1.31mg/cm2(1mg/cm2は 純金 として約 0.5ミ クロン)と いう値を得ているが,先 の アマルガムの実験で得られた試片の塗金厚サ は3.7~9.2mg/cm2(約1.9~4.8ミ クロン) であった.長 年月の間に塗金層が次第に薄く なったと考えられるので,い ま,完 成当時の 大仏の塗金厚サを9.2mg/cm2と すると,大 仏の表面積527m2(東 大寺要録の記録より換 算)と して,金 の総量は48.48kgで ある.

先 に示した ごとく,文 献によれば塗金に使用し た金(練 金)4187両 とあり,こ れ もC.G.S単 位に換算すると58.5kgと な り,大 体必要金 量に近い値を示している

蝦夷語通訳ーー物部斯波連永野

 蝦夷語通訳の名は、陸奥蝦夷訳語外從八位下物部斯波連永野外從五位下。

『日本三大実録』《卷39、元慶5年(881)5月3日庚戌》条に

○「授蝦夷訳語外従八位下物部斯波連永野外従五位下」

とある。

この物部斯波連は『続日本後紀』承和2年(835年)条に

《承和二年(八三五)二月己卯【4】》

○己卯。俘囚勳五等吉彌侯宇加奴。勳五等吉彌侯志波宇志。勳五等吉彌侯億可太等。賜姓物部斯波連。」

とある。

つまり、物部斯波連永野はもともと蝦夷に属するので、蝦夷語を母語としていた。大和語は習得言語であった。蝦夷語と大和語との接触地帯であったので、永野らは外国語学校での学習も不要であり、あるいはピジン大和語であった可能性もある。


一方、小野春風は京方言の大和語で、蝦夷語を幼少時に学習した、いわば大和語-蝦夷語のバイリンガルであったらしい。

2025年6月25日水曜日

年号「白雉」(650-654)

 偶然に目にした論文(網干善教「長 門国「赤」 と「長登」)に、年号「白雉」に関する新聞記事が紹介されていた。

それには明白に「白い雉」が撮影されている。

まず、その記事とは『山口新聞』平成2年7月6日付けである。署名記事ではないので、その撮影者は判明しないが、小野田市在住の川崎某氏宅にて飼育されているとある。


なお、網干先生の論文とは無関係であるが、白雉はメラニン色素の合成に関わる遺伝子の変異によって体色が白くなる現象である。これは「チロシナーゼ遺伝子」などの変異によって起こることが多く、例えば白いタヌキの体色変異がチロシナーゼ遺伝子の変化によるアルビノ表現型だと紹介されている。


国中連は「本是百済国人」

 『続日本紀』宝亀5年

「 冬十月,丁卯朔己巳,散位-從四位下-國中連-公麻呂,卒。本是百濟國人也。其祖父-德率-國骨富,近江朝庭歲次癸亥屬本蕃喪亂歸化。天平年中,聖武皇帝發弘願,造盧舍那銅像。其長五丈。當時鑄工,無敢加手者。公麻呂頗有巧思,竟成其功。以勞遂授四位。」

2025年6月21日土曜日

上原真人先生のご教示ーー飛鳥寺「花組」と飛鳥寺「星組」ーー百済から渡来した瓦博士4名

 以下の文章は、すべて下記の上原先生の玉稿の紹介に過ぎない。

紹介文中に誤りがあるとすれば、それは私紹介者の落ち度であるので、正確を期するために原文をぜひ一読くださるよう希望する。


上原真人「初期瓦生産と屯倉制」『京都大學文學部研究紀要, 』2003年 

KJ00004251125.pdf


上原氏の指摘に学びたいのは、まず氏の専門が考古学であるために、簡にして要を得た氏の考古学的説明である。この説明の巧みさに感心する。

結論から言えば、、これまで渡来系とか朝鮮半島系などと大きなくくりで把握してきた外来の瓦製造技術や集団を、今いっぽ精緻に2種類に大別して理解できるまでに、考古学的情報が蓄積してきたことである。

通称「花組」瓦と通称「星組」瓦

である。比喩による区分の上手さにも舌を巻くが、高度成長期以来今日に至るまで、日本各地で国土開発に伴う、主に緊急考古学的調査結果を、奈良文化財研究所などの努力で資料収集の労力と時間が軽減されたお蔭も一因であろうが、飛躍的にデータ数が拡充されており、そのエビデンスの確実さに驚嘆する。


さて、上原氏の説明に改めて耳を傾けよう。飛鳥寺造営にあたり来日した4人の瓦博士が寺建設用地の南東の丘陵西斜面に存在する2基の登窯(=穴窯・筈窯)であることを説明し、南の1基は痕跡を残すだけ だが、北の 1基は全長約10mで、長7.5mの焼成室床面lこ20段の階 段を削り出した 登窯であったという。

 それはそれとして、興味深いのは飛鳥寺創建瓦は 二群に大別でき、しかも複数の系統が存在した百済の瓦窯類型の一つの百済式瓦生産の最新技術であったことである。


1)通称「花組」瓦

ひとつは弁端に切れ込みのある桜花形花弁(弁端切込式) を配した素弁十葉蓮華紋軒丸瓦を 基準とするグループ(通称「花組」) 

技術的特徴 ① 軒丸瓦の瓦当は薄く、裏面を 平坦に仕上げる。 ただし、同じ 紋様型で型抜きした同箔瓦で も、磨耗や剥離(箔傷)が進行 した箔の製品では厚手の瓦当が 多くなる。

 ② ともなう丸瓦は葺き重ねるた めの段がない無段式(行基葺式) で、一木の裁頭円錐台形の内型 に巻きつけた粘土円筒を縦に二 分して作る。 分割するための刻 み(分割裁線)は、凸面側から 切り込む。

 ③ 瓦当に接合する丸瓦の先端 は、凸面側を斜めに箆削りする。 箔傷が進行すると、凹凸両面か ら斜めに削るもの、未加工のも 。削った面や端面に刻みを入れるものも出現する・

 ④ ともなう平瓦は、裁頭円錐台形の桶型に粘土板を巻きつけて作った粘土円 筒を四分割した粘土板橋巻作り平瓦である。 桶型外面の4ヶ所に撚紐を縦に 通した分割突帯を設け、その突帯で粘土円筒内面の分割位置に圧痕(分割界 線)を付け、その圧痕を目安に内面から刻み(分割裁線)を入れる。

 ⑤ 平瓦凸面には粗い格子・斜格子・並行条線・縄目など各種の叩きを施した のち、横に粗くナデて調整する。

 ⑥ 並行条線の平瓦では、桶型からはずした段階で、十分に叩きが及ばなかっ た端部を当て具と叩き板で補足的に叩き締める (補足叩きの存在)。

 ⑦ 赤焼の瓦(赤瓦)が主体を占める。 


2)通称「星 組」瓦

これに対して、やや角張った花弁の先端に珠点を置く弁端点珠の素弁十一葉 蓮華紋軒丸瓦を基準とするグループ(通称「星 組」) には、以下のような技術的特徴がある。

 ①'軒丸瓦の瓦当裏面は中央に向けて高まり、回転する成形台上で瓦当部とな る粘土円板を成形したらしい。

 ②'ともなう丸瓦は葺き重ねる段のある有段式(玉縁式)である。一木ででき た内型は、筒部に対応する部分だけで、玉縁部はその上に粘土紐を巻き上げ て回転成形する。

 ③'瓦当に接合する丸瓦の先端は、凹面側をえぐって断面を片柄状に加工する。

 ④'ともなう平瓦は粘土板橋巻作りで、桶型外面の4ヶ所上下に紐を結んだ癌 で突起(分割突起)を設け、その圧痕を巻きつけた粘土円筒を分割する目安 とする (分割界点)。分割裁線は凹面から切り込む。


 ⑤'平瓦凸面は丁寧に縦ナデする。 凸面の叩きには正格子・並行条線がある。

 ⑥'現在のところ、補足叩きの存在は指摘されていない。

 ⑦'赤焼きの瓦はなく、灰色をした黒瓦である。


という。

その「星組」は、飛鳥寺、豊浦寺金堂、斑鳩寺金堂、四 天王寺、新堂廃寺へと、かれらの特長である素 弁九葉蓮華紋軒丸瓦の瓦当箔や、やや丸味を帯びた花弁の先端に珠点を置 く素弁八葉蓮華紋軒丸瓦の瓦当箔などの瓦技術を駆使したという。しかも蘇我氏や上宮王家の 直接の支配下で初期寺院の造営に貢献した造瓦集団であった。

一方、飛鳥寺「花組Jの指標である素弁十葉蓮華紋軒丸瓦と同箔品はこれまで「高句麗系」軒丸瓦とか、あるいは新羅経由の「高句麗新羅系」と理解されてきた瓦であり、豊浦寺所用瓦(宇治市隼上り窯)や京都市北野廃寺瓦(京都市幡 枝元稲荷窯)などに使用された。


祟りの神、出雲伊波比神

 武蔵国入間郡に出雲伊波比神社がある。

住所

〒350-0465
埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1


また、同じく入間郡には、入間市宮寺にも出雲神社

住所

〒358-0014
埼玉県入間市宮寺1

がある。

武蔵野国における出雲系の神々の特長は、神社名に「伊波比=祝」とあったとしても、「祟る」と信仰されていることにある。

なぜ、武蔵国における出雲系神々が祟り、人々に災厄を及ぼすと信じられているのだろうか。そのロジックを解明したい。

英語では、「祟る」は

 ・curse

  ・haunt

  ・bring bad luck

  ・torment  or afflict

と翻訳されるだろう。

今、その理由は全く正反対の「神社名(祝い)と機能・シンボル(祟り)」に求められると考えて、以下の論を展開したい。

いずれにせよ、「祟る」に注目するならば、社会的・文化的な秩序や価値観を反映する象徴的な仕組みであると理解される必要がある。

「祟り」の文化的背景と意味

  1. 社会規範の維持装置
    世界の諸文化において、「祟り」は禁忌を破った者に対する霊的な報復として語られる。これは、共同体の秩序を守るための道徳的な抑止力として機能する。
  2. 死者との関係性
    日本を含む東アジアの文化では、「祖霊信仰」や「怨霊信仰」などとも呼ばれるが、死者との関係性を通じて生者の行動が規定される構造に注目する。
  3. 儀礼と再統合
    祟りを鎮めるための儀礼(たとえば御霊会や供養)は、共同体の再統合や癒しのプロセスに注目して、社会が危機を克服し、新たな社会的秩序を回復すると考える。
  4. 語りと記憶の継承
    story化された「祟りの物語」は断片的で無意味な社会的要素の組み合わせではなく、ある時代の歴史的な出来事や社会的な葛藤を象徴的に表現する手段であると考える


さて、ここまで文化人類学観点からの理論的検討を踏まえれば、古代武蔵国において独自の社会的秩序が形成されていたのではあるまいか。

やはり皆が思い浮かべるのは、『日本書紀』国譲り神話(神代下第九段一書第2)である。
 「天神、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしむ。 〔中略〕 既にして二神、出雲の 五十田狭の小汀に降到て、大己貴神に問ひて曰はく、「汝、将に此の国を以て、天神に奉らむやい なや」と。対こたへて曰はく、「疑ふ。汝二神は、是吾が処に来ませるに非ざるか。故、許さず」と。是 に、経津主神、則ち還り昇りて報告す。 

 高皇産霊尊、乃ち二の神を還し遣して、大己貴神に勅して曰はく、「今、汝が所言を聞くに、深く 其の理有り。故、さらに条にして勅したまふ。夫れ汝が治す顕露の事は、是吾孫治すべし。汝は以 て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の楮縄を以て、結 ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は高く大し。板は広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が 往来かよひて海に遊ぶ具の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、亦供造りまつらむ。又天安河に、亦打橋造ら む。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を 主 らむは、天穂日命、是なり」と。

 是に、大己貴神報へて日さく、「天神の勅教、如此慇懃なり。敢へて 命 に従はざらむや。吾が治 す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」と。乃ち岐神を二の神に薦め て日さく、「是、当に我に代りて従へ奉るべし。吾、将に此より避去りなむ」と。 」

である。

この稿は長大につき、以下は割愛。
続く。





神護景雲三年(七六九)入間郡の人、大伴部直赤男が、奈良西大寺に商布千五百段、稲七万四千束、墾田四〇町、林六〇町を寄進

 鶴ヶ島市史からの転載

>> 神護景雲年代の富豪、入間郡の人、大伴部直赤男

この市史の記述は素晴らしい。


::***********************

 この広大な地域を占め、豊富な遺構・遺物を内蔵した若葉台遺跡群について、その実体は何であろうか。入間郡の郡衙のあとであるのか、それとも地方豪族の屋敷あとか、或は初期荘園の荘家であるのか、今もって定説というものはない。謎に包まれた遺跡群である。このさい、この遺跡群の本来の姿を探索するため、奈良朝末期から、平安朝初期にかけての文献に現われる入間郡の重要な記事を次に並べてみよう。
(一) 神護景雲三年(七六九)に、入間郡の人、大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)なる人物が、奈良西大寺に商布(※1)千五百段、稲七万四千束、墾田(こんでん)(※2)四〇町、林六〇町を寄進し、その功績を賞して、宝亀八年(七七七)六月五日に、外(げ)従五位下(※3)を追贈された。(『続日本紀』巻三四)
 もっとも、宝亀八年は神護景雲三年から八年たっており、位階の昇進は彼の死後である。とにかく、これだけ莫大な財物を寄進できる地方豪族が入間郡にいたわけである。
 ※(1) 古代に、調・庸にあてないで、商品用として織った布(ぬの)。
 (2) 律令制時代に新たに開墾した田地。

 (3) 律令制時代に、五位以下は、内位と外位(げい)(地方豪族出身)の区別があった。

(二) 赤男が墾田と林を寄進した神護景雲三年から二年たって、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日には、西大寺の資財として、次のような図面と帳面が保存されていた。
一巻 武蔵国墾田文図 宝亀九年 在国印

一巻  同  林地帳 宝亀九年 在国印

 また、田園山野図として、
武蔵入間郡榛原(はいはら)庄一枚 布 在国印

がある。これらの墾田・林・荘園は、いずれも国印を受けている。これは、つまり、武蔵国の国司から出された不輸租(租税の免除)の許可状を受けているということである。(「西大寺資財流記帳」)
 この榛原庄について、西岡虎之助氏は同寺の封戸(ふこ)二五〇戸が荘園化したものだろうという(『荘園史の研究』下)。また、その位置については、『埼玉縣史』は「報恩寺年譜」に記載する「春原荘広瀬郷」の春原荘が榛原庄と同一だとして、広瀬の付近である旧水富村を比定している。
(三) (一)と(二)は奈良朝の記録であるが、それから四一八年たった鎌倉時代になると様相は一変した。建久二年(一一九一)五月一九日の「注進 西大寺領諸庄園現存日記ノ事」という事書(ことがき)がある。その記事を見ると、西大寺には四六か所の荘園があったのだが、そのうち九か所は国司に収公されたり、地方豪族に押領されたりして、今は有名無実だという。その次に「顛倒(てんどう)庄々」という項目がある。これには、かつては西大寺領であったが、今では失われてしまった荘園を列記してある。そのなかに「武蔵国入間郡安堵(刀)(あと)郷栗生(くりふ)村田四〇町 林六〇町」が記載されている。(「西大寺文書」)
 この田と林とは、大伴部直赤男が寄進した墾田・林と符合するものである。
 今までの記述は要するに、
(一) 宝亀八年(七七七)の『続日本紀』巻三四、武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が墾田四〇町、林六〇町歩その他を西大寺に寄進して、死後、外従五位下を追贈された。
(二) 宝亀一一年(七八〇)には、不輸租の国印をもらった寄進地を資財帳に書きとどめた。
(三) 鎌倉初期になると、入間郡安堵(刀)郷栗生村の荘園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた。園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた

「夷語」・「謾語」・「夷俘」とは?--陸奥国から日向国へ、えんえんと約1500キロの流刑の例

 『日本後紀』延暦18年(799)2月条

「乙未、流陸奧國新田郡百姓弓削部虎麻呂、妻丈部小廣刀自女等於日向國。久住賊地、能習夷語以謾語、騷動夷俘心也」

とある。

この「夷語」とは、「謾語」とか、「夷俘」とは何か。

それにしても、謾語」によって、直線距離にして約1500キロ離れた日向国に流刑されたとは、なぜ、日向国であったのだろうか。


まず、陸奥国新田郡から考えてみたい。



丈部 呰人(はせつかべ の あざひと)は、日本の奈良時代の人物である。8世紀前半に陸奥国新田郡仲村郷他辺里長で、不明の軍団の二百長(校尉)を務めた。

1955年昭和30年)に宮城県遠田郡田尻町(現在の大崎市)の木戸瓦窯跡で15の文字が刻まれた平瓦が見つかった。二行に分かれて「郡仲村郷他邊里長 二百長丈ム呰人」と読めた。破損した部分に郡の名があったはずだが、破片はいくら探しても見つからなかった[1]

和名抄には陸奥国では新田郡磐井郡宇多郡栗原郡に仲村郷があると記されており、発見地は新田郡に近い[2]。新田郡は神亀5年(728年)に玉作軍団に改称した丹取軍団の所在地に近い。

里長(里正)の丈部呰人は、官が用いる瓦の納入責任者として名を書き入れられたと推測される。二百長としての資格で、軍団兵士を使って製作したと考える説もある[3]。郡-郷-里からなる郷里制は、奈良時代の約25年間だけ実施されたので、瓦の製作は霊亀元年(715年)から天平12年(740年)までの間と知れる。木戸瓦窯は陸奥国で創建された多賀城に瓦を供給したので、この発見は、多賀城創建の時期を示す証拠の一つになった[4]。全国一律の制度が当時の陸奥国北辺にあたるこの地域まで及んでいたことの証拠としても意義深い[5]

2025年6月18日水曜日

古代の健脚:約800キロメートルの多賀城-平安京間を6日間で走れるか?

 先に大宰府ー平城京間の約640㎞(Google算出)を4日間で到達できるかという発問の下て、それに疑問を呈した。

そうしたならば、古代の健脚であえば、約600キロメートル(Googl算出)の多賀城-平安京間を6日間で走破したという実例があるという教えを受けた。

桓武天皇と古代多賀城間の通信は確かに6日から、遅くとも8日間で往来したと『続日本紀』に記述されている。

その距離であれば、

1)徒歩移動の概算

  • 距離約600km以上

  • 1日の歩行距離平均30kmと仮定

  • 所要日数約20日以

この計算は、1日8時間の歩行を前提としている。

2)マラソンペースでの走行時間

  • 距離約600km

  • 平均ペースフルマラソンの平均ペース(1kmあたり6分)

  • 計算600km × 6分/km = 3,600分 = 60時間

この計算では、休憩や睡眠を含まない連続的な走行時間を求めている。


いずれにせよ、各街道の駅にフルマラソン選手と同等の運動能力を有する運び手が常時、多数配置されていること。

しかも海道はほぼ直線で平坦で舗装されており、ジャリ道など走行の障害がないこと

河川を前にしても、橋梁などで容易に渡河できること。その上で山間部の上り道もほとんどないこと。

さらに言えば、夜間の走行も可能であること、雨天や雷雨や強風などの自然の猛威もないこと。

走行中に補給の水や食料も完備されていること。

最も重要なのは、重要な知らせを送り届けなくてはならないという使命感の持ち主が、運び手にいること。そしてそれに見合う俸給が支給されること。


まだまだ多数あるが、長距離選手を育成するコーチの意見を参考にしても、あまりに否定的である。


日本古代史の先生方は全く疑問の余地もなく、史書通りに歴史を記述なさる。

それに疑問を呈するのは、まったくの邪道だろうか。


。。

2025年6月16日月曜日

関東地方の渡来人--鶴ヶ島市史よりの転載

 

以下の文は、『鶴ヶ島市史』からの転載である。

大変に便利な表であり、これを基盤にして自説を展開していきたい。



 関東地方の渡来人

165 ~ 166
 大陸や半島からの渡来人の配置状況については先述の通りであり、七世紀以降は朝廷の方針変更のため、未開地の多い関東に安置されるようになったのである。
 しかし、それ以前にも渡来人はすでに移住していたのであった。
 関東地方の渡米人関係年表は大略次の通りである。
年号西暦事項
六世紀以前武蔵国の屯倉(みやけ)(朝廷直轄領)を掌る者の中に渡来人がいた。旧神代村の大半、三鷹市・武蔵野市・川崎市の一部に高句麗人がいた。
川原氏(漢人系坂上氏)が常陸国の国宰(さい)(国司)となる。
推古三六年六二八土師臣真中知(はじのおみまつち)とその臣の檜前(ひのくまの)浜成・竹戊らが、浅草で黄金像を網にかける(縁起)。檜前氏は漢人(百済経由の漢人)。
天智五年五五五百済人を東国に移す。
〃 七年六六八福信の祖父、背奈福徳が波来す。
天武一三年六八四新羅人羊大夫来朝す。
百済僧尼及び俗人、男女二三人を武蔵国に安置す。
持統元年六八七常陸国に高麗人五六人を居らしむ。
下野国に新羅人一四人を居らしむ
武蔵国に新羅の僧尼・百姓、男女二二人を居らしむ。
〃 三年六八九下野国に新羅人を居らしむ。
下野国那須国造(くにのみやつこ)那須直韋提(あたいいで)、評督(郡司)を賜う。
碑を建て、墓誌を記す。
〃 四年六九〇武蔵国に新羅の韓奈末許満(かんなまこま)ら一二人を居らしむ。
下野国に新羅人らを居らしむ。
和銅四年七一一上野国に多胡郡を新設。碑を建て記念す。
霊亀二年七一六武蔵国に高麗郡を新設。
天平五年七三三武蔵国埼玉郡の新羅人徳司ら五三人、金の姓を与えられる。
〃 一三年七四一国分寺建立の詔下る。関東の国分寺より渡来人関係の文字瓦出土。
天平宝字二年七五八武蔵国に新羅郡を新設。
〃 四年七六〇武蔵国に新羅人一三一人を置く
天平神護二年七六六上野国の新羅人子牛足ら一九三人に吉井連(むらじ)の姓を賜う。
宝亀二年七七一武蔵国は、東山道より東海道へ転属さる。
〃 一一年七八〇武蔵国新羅人、沙羅真熊(さらのまくま)ら二人に広岡造の姓を賜う。
(今井啓一「帰化人の来住」に一部追加)

 この表で見るように、奈良時代までに、おびただしい渡来人が定住している。しかしこれは関東だけである。初めは渡来人の高度な知識や技術を学ぶために、畿内およびその周辺に配置したので、その地域における渡来人の戸数は莫大なものであった。平安初期に朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、左京・右京、そして畿内、すなわち、山城・大和・摂津・河内・和泉の五か国だけで、全体で一、〇五九氏のうち、渡来人系は三二四氏を数え、ほぼ三〇パーセントの多きを占めている。畿内では三人に一人が渡来人系であるわけである。地方の農民層では、その比率は幾分かは下がるであろうが、その時代から千数百年もたっている。その間に縁組みが幾重にも重ねられて、今ではすっかり同化してしまって、区別はなくなっている。
われわれ一人一人の血は、古代の渡来人の血を一〇パーセントか二〇パーセントぐらいは受けついでいると考えざるを得ない。

1 三つの文献資料

167 ~ 168
 この広大な地域を占め、豊富な遺構・遺物を内蔵した若葉台遺跡群について、その実体は何であろうか。入間郡の郡衙のあとであるのか、それとも地方豪族の屋敷あとか、或は初期荘園の荘家であるのか、今もって定説というものはない。謎に包まれた遺跡群である。このさい、この遺跡群の本来の姿を探索するため、奈良朝末期から、平安朝初期にかけての文献に現われる入間郡の重要な記事を次に並べてみよう。
(一) 神護景雲三年(七六九)に、入間郡の人、大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)なる人物が、奈良西大寺に商布(※1)千五百段、稲七万四千束、墾田(こんでん)(※2)四〇町、林六〇町を寄進し、その功績を賞して、宝亀八年(七七七)六月五日に、外(げ)従五位下(※3)を追贈された。(『続日本紀』巻三四)
 もっとも、宝亀八年は神護景雲三年から八年たっており、位階の昇進は彼の死後である。とにかく、これだけ莫大な財物を寄進できる地方豪族が入間郡にいたわけである。
 ※(1) 古代に、調・庸にあてないで、商品用として織った布(ぬの)。
 (2) 律令制時代に新たに開墾した田地。

 (3) 律令制時代に、五位以下は、内位と外位(げい)(地方豪族出身)の区別があった。

(二) 赤男が墾田と林を寄進した神護景雲三年から二年たって、宝亀一一年(七八〇)一二月二五日には、西大寺の資財として、次のような図面と帳面が保存されていた。
一巻 武蔵国墾田文図 宝亀九年 在国印

一巻  同  林地帳 宝亀九年 在国印

 また、田園山野図として、
武蔵入間郡榛原(はいはら)庄一枚 布 在国印

がある。これらの墾田・林・荘園は、いずれも国印を受けている。これは、つまり、武蔵国の国司から出された不輸租(租税の免除)の許可状を受けているということである。(「西大寺資財流記帳」)
 この榛原庄について、西岡虎之助氏は同寺の封戸(ふこ)二五〇戸が荘園化したものだろうという(『荘園史の研究』下)。また、その位置については、『埼玉縣史』は「報恩寺年譜」に記載する「春原荘広瀬郷」の春原荘が榛原庄と同一だとして、広瀬の付近である旧水富村を比定している。
(三) (一)と(二)は奈良朝の記録であるが、それから四一八年たった鎌倉時代になると様相は一変した。建久二年(一一九一)五月一九日の「注進 西大寺領諸庄園現存日記ノ事」という事書(ことがき)がある。その記事を見ると、西大寺には四六か所の荘園があったのだが、そのうち九か所は国司に収公されたり、地方豪族に押領されたりして、今は有名無実だという。その次に「顛倒(てんどう)庄々」という項目がある。これには、かつては西大寺領であったが、今では失われてしまった荘園を列記してある。そのなかに「武蔵国入間郡安堵(刀)(あと)郷栗生(くりふ)村田四〇町 林六〇町」が記載されている。(「西大寺文書」)
 この田と林とは、大伴部直赤男が寄進した墾田・林と符合するものである。
 今までの記述は要するに、
(一) 宝亀八年(七七七)の『続日本紀』巻三四、武蔵国入間郡の人、大伴部直赤男が墾田四〇町、林六〇町歩その他を西大寺に寄進して、死後、外従五位下を追贈された。
(二) 宝亀一一年(七八〇)には、不輸租の国印をもらった寄進地を資財帳に書きとどめた。
(三) 鎌倉初期になると、入間郡安堵(刀)郷栗生村の荘園にある田四〇町・林六〇町歩は顛倒して、西大寺の所領ではなくなっていた

2025年6月10日火曜日

「続日本紀」天平5年(733)6月条に 武蔵國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人に金姓を

 「続日本紀」天平5年(733)6月条に

丁酉。武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。」

の記事がある。この趣旨は「武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、要請に依りて金の姓を許した」という内容である。

この記事に注目する理由は、新羅人徳師等男女53人が姓を有していなかったことであり、その創氏にあたり朝鮮半島の王族名である「金」氏を自称したことである。

 つまり新羅人徳師等男女にとって自ら朝鮮半島に出自を持つ血縁集団(父系もしくは母系、あるいは双系)であることを対外的に標榜することが何らかの権益を確保し、さらには権利書であったのではないか。逆な見方をすれば、この時点で新羅人徳師らは経済的上昇を遂げて、郡衙・国衙を経て中央にまで要請が可能となる社会的認知度までも有するようになっていたと言えよう。

ここでは、「金氏」姓が日本人式姓ではなく、わざわざ朝鮮半島由来の新羅式姓であることによって、実感として連帯を意識し、共通の権益を獲得したと理解しておきたい。

なお、徳師ら53人が始祖からの共通の出自の観念を持ち、同族の構成員を記述的に網羅した家計記録の存在までの推定は史料的な限界ゆえに控えて、後日の課題としたい。

2025年6月2日月曜日

日向国の古代道路関連遺跡 (水野実教授退官記念号)

噂では知るものの、その論文を見る機会がないものに、

 日向国の古代道路関連遺跡 (水野実教授退官記念号)

山近 久美子 収録刊行物 防衛大学校紀要. 人文科学分冊 防衛大学校紀要. 人文科学分冊 108, 75-106, 2014-03 [防衛大学校] 


がある。防衛大学校にアクセスするが、対外秘なのか当該論文のみならず、各論文も読むことはできない。


残念!!