2025年4月19日土曜日

九州の蝦夷・俘囚に関する考古学的知見の紹介

 西日本新聞に掲載された記事であるが、

*「福岡に東北・蝦夷の長らの墓? 那珂川市の観音山古墳群、九州初確認か

8ー9世紀に防人などとして強制移住」


を偶見した。

しかも、かって九州国立博物館HPにおいても、


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実は、この蝦夷の一族は、古代には九州地方にも住んでいました。

今回のブログでは、九州在住の蝦夷をクローズアップしていきます笑顔

 

 日本という国が形づくられていく7~8世紀(飛鳥~奈良時代)。

東北では「蝦夷(えみし)」、九州南部では「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が住んでいました。

とは言っても、彼ら自身が蝦夷・隼人と名乗ったわけではありません。

これらの名前は、日本の朝廷側からの呼び名です。

天皇を中心とする日本国の外縁に居住していた人々を、一方的に北では蝦夷、南では隼人と呼んでいたのですなく

 

 日本国と蝦夷・隼人の間では、交易等の平和的交流がある一方で、軍事的衝突も繰り返しました。

日本国が蝦夷・隼人も、自分達の支配下に置きたいと考えていたためです。

とくに、日本国と蝦夷の間では、「三十八年戦争(774~811年)」をはじめとする大規模な戦争が何度も起こりました。

 

 このような対立の下で、日本国に新たに服従した蝦夷の人々は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれましたノート

また、俘囚となった蝦夷の人々は、集まって反乱を起こさないように、日本各地に散らばるように移住させられましたなく

こうして、東北から遠く離れた九州にも、蝦夷の人々がやって来たのです。

 

 現在、九州国立博物館4階の文化交流展では、九州地方で発見された蝦夷ゆかりの出土品を紹介しています笑顔

福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の黒添・赤木遺跡(くろぞえ・あかぎいせき)からは、東北地方の土器と同じ形状のものが数多く出土しました。

出土したのは、「長胴で平底の甕(かめ)」と「黒く燻(いぶ)された椀」の土器セットで、奈良時代・8世紀のものです。

貯蔵用の甕と、お茶碗といったところでしょうか笑顔

甕の底部には木の葉の葉脈が転写されています葉っぱ

※大きな葉を下敷きにして、土器をつくっています葉っぱ

 

 九州に移住させられた蝦夷の人々は、故郷と同じ土器をつくり、使い続けていたようですね笑顔

なお、黒添・赤木遺跡の集落は短期間で廃絶しているので、またどこかに引っ越したようです。 

 次に紹介する展示品は、「蝦夷の刀」と呼ばれる蕨手刀(わらびてとう)ですわらびて

蕨手刀は蝦夷の人々が愛用していた刀に多く見られます。

 錆びてボロボロですが、九州では3振しか確認されていない珍しい小刀ですわらびて

 柄(手で握る部分)の先端が丸まっているので、「蕨(わらび)わらびて」の名前がついています。

蕨手刀という名前は、古代から呼ばれていた名前ではなく、現代人が名付けた名前です。

 

 福岡県朝倉市(あさくらし)の「池の上9号墳」(飛鳥時代・7世紀)という古墳から出土しました。

被葬者は筑紫の豪族と見られますが、どのような経緯で入手したのかは不明ですみずら

 

 蝦夷ゆかりの品々の展示は、来春(2018年3月18日)までの期間限定公開の予定です。

お見逃しなくギャロップ

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