西日本新聞に掲載された記事であるが、
*「福岡に東北・蝦夷の長らの墓? 那珂川市の観音山古墳群、九州初確認か
8ー9世紀に防人などとして強制移住」
実は、この蝦夷の一族は、古代には九州地方にも住んでいました。
今回のブログでは、九州在住の蝦夷をクローズアップしていきます。
日本という国が形づくられていく7~8世紀(飛鳥~奈良時代)。
東北では「蝦夷(えみし)」、九州南部では「隼人(はやと)」と呼ばれる人々が住んでいました。
とは言っても、彼ら自身が蝦夷・隼人と名乗ったわけではありません。
これらの名前は、日本の朝廷側からの呼び名です。
天皇を中心とする日本国の外縁に居住していた人々を、一方的に北では蝦夷、南では隼人と呼んでいたのです。
日本国と蝦夷・隼人の間では、交易等の平和的交流がある一方で、軍事的衝突も繰り返しました。
日本国が蝦夷・隼人も、自分達の支配下に置きたいと考えていたためです。
とくに、日本国と蝦夷の間では、「三十八年戦争(774~811年)」をはじめとする大規模な戦争が何度も起こりました。
このような対立の下で、日本国に新たに服従した蝦夷の人々は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれました。
また、俘囚となった蝦夷の人々は、集まって反乱を起こさないように、日本各地に散らばるように移住させられました。
こうして、東北から遠く離れた九州にも、蝦夷の人々がやって来たのです。
現在、九州国立博物館4階の文化交流展では、九州地方で発見された蝦夷ゆかりの出土品を紹介しています。
福岡県京都郡苅田町(みやこぐんかんだまち)の黒添・赤木遺跡(くろぞえ・あかぎいせき)からは、東北地方の土器と同じ形状のものが数多く出土しました。
出土したのは、「長胴で平底の甕(かめ)」と「黒く燻(いぶ)された椀」の土器セットで、奈良時代・8世紀のものです。
貯蔵用の甕と、お茶碗といったところでしょうか。
甕の底部には木の葉の葉脈が転写されています。
※大きな葉を下敷きにして、土器をつくっています。
九州に移住させられた蝦夷の人々は、故郷と同じ土器をつくり、使い続けていたようですね。
なお、黒添・赤木遺跡の集落は短期間で廃絶しているので、またどこかに引っ越したようです。
次に紹介する展示品は、「蝦夷の刀」と呼ばれる蕨手刀(わらびてとう)です。
蕨手刀は蝦夷の人々が愛用していた刀に多く見られます。
錆びてボロボロですが、九州では3振しか確認されていない珍しい小刀です。
柄(手で握る部分)の先端が丸まっているので、「蕨(わらび)」の名前がついています。
蕨手刀という名前は、古代から呼ばれていた名前ではなく、現代人が名付けた名前です。
福岡県朝倉市(あさくらし)の「池の上9号墳」(飛鳥時代・7世紀)という古墳から出土しました。
被葬者は筑紫の豪族と見られますが、どのような経緯で入手したのかは不明です。
蝦夷ゆかりの品々の展示は、来春(2018年3月18日)までの期間限定公開の予定です。
お見逃しなく。
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