埼玉県和光市に午王山遺跡(新倉3丁目)がある。
*和光市教育委員会 2019 『和光市埋蔵文化財調査報告書66:午王山遺跡総括報告書』和光市教育委員会
において報告書全文を一読できる。
その第3章に、江戸時代の官選地理書『新編武蔵土記稿』巻133,新座郡之五、上新倉村、「古蹟 新羅王居跡」を紹介する。
「 古蹟 新羅王居跡
牛房山ノ上ニワヅカノ平地アリ、昔シ新羅ノ王子京ヨリ下向ノ頃、コヽニ居住セシト 云、和名鈔ニ載スル当郡ノ郷名志木ト云ヘルハ此辺ノ事ニテ志楽木ノ中略ナルベシト、此村ニスメ ル好事ノ者イヘリ、当村ニ山田、上原、大熊ナド氏トセル農民アリ、是ハ旧キ家ナルヨシ、彼等ガ 祖先ハ京都ヨリ新羅王ニ従ヒ来リシナリト云伝フ、サレバ此山ノ名モ元此王子居跡ヨリ起リタル事 ナレバ、御房山ナドカクベキヲ、イツノ頃ヨリカ牛房ノ字ニカヘシナラント、是モ村老ノ説ナリ、 続紀持統紀元年四月甲午朔癸卯、筑紫太宰、献投化新羅僧尼、及百姓男女二十三人、居于武蔵国、 賦田受稟使安生業ト云ヒ、又同ジ紀ニ、韓奈末許満等十二人ヲ、コノ国ニヲカレシコトアレバ、コ ノ居蹟ト云ハモシクハコレラノ人ヲリシニヤ、サレド外ニ拠モナケレバ、詳ナルヲシラズ 」
『新編武蔵土記稿』は著名であるので、この文献の説明に関しては割愛する。
さて、問題は上記の『午王山遺跡総括報告書』に明記してあるように、この遺跡から新羅系渡来人居住地の痕跡を認める資料が発掘されていないことである。
いまさら言い伝えと史実の間の論争に参戦するつもりはないが、新羅王の一族であったかどうかは確証するすべはないものの、何らかの史実が反映されていると考えても、決して不自然ではないだろう。
その地域はズレるけれども、狭山市に目を転ずれば、
「東京市役所が発行した『山口貯水池小誌』(1934年) によれば、
「山口貯水池(狭山湖)の中心とも云うべき所にあった勝楽寺村に、昔高麗人が居たといふ伝説がある・・・この伝説が真実だとすると、旧勝楽寺村の地は高麗人が武蔵に来た最初の場所の一つであったものではないかと思われのだ」とある。辰爾山仏蔵院大坊と称す。真福寺末也。創立甚だ古く、或は王辰爾の子其父の菩提の為めに開闢せりと云ふ。又王辰爾此地に於て終焉せしとの説もあり、野話に曰く、「山号を辰爾と云ふは恐らく敏達天皇の時、高麗より送れる鳥羽の表文を読み得たる王辰爾の墳墓あるがためならんか。」と然れども王辰爾は畿内にて死し、畿内に墳墓を有するが如く推定せらる。思ふに辰爾の後裔此の地に入り、此の寺をたてたるにや。野話尚曰く、「昔高麗人の来りし時、此の地に来り土地を見立てし上、今の高麗郡に住居なさしめ、其地に寺院なきを以て勝楽寺の住僧彼の地へ寺を建て、高麗山勝楽寺と同名を以て名けしならんと云ふ。後聖天を祀りし故、聖天院と云ふ」と。又曰く、「勝楽寺往古は大伽藍なり、鎌倉将軍の世々祈願所にして、十二の坊ありしが、鎌倉滅て次第に衰へ、今は七社権現の祠と勝楽寺大坊のみ残れり。十二の坊は其跡みな田畑となり、新田坊、テラウ坊、天狗坊、向坊、外坊、長明坊、東坊、北蓮坊、永源坊、勝般寺と地名に残れり。然れども三坊の名所知れず。大坊の鐘は延久の比のものなりしが。災に遇ひて、亀裂を生ぜし故、元禄年間改鋳して、延久の銘を刻り出し之に追加を加へり」と。又曰く、「大坊の西南堂地入と云ふ小地名あり。此の地より布目ある瓦を夥しく穿出せり。国分寺の瓦に似て重きこと、鉄の如し。又村中古き石碑(石の板碑也)処々にあり」。と。」
勝楽寺 : 山口村 : 南部諸町村(所沢町付近、柳瀬川沿岸地方) : 入間郡誌
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