以下は、吉開潔氏の論文「古代製鉄から解く地名「行々林」の謎 古代製鉄から解く地名「行々林」の謎」『秀明大学紀要』2022年 から学んだものであり、私の考えではない。
吉開氏の論点は、 千葉県の下総台地西部に位置する船橋市豊 富地区にあった旧村名・大 字名で、昭和30(1955) 年に「鈴身町」と改称され消失した地名「行々林」を「おどろばやし」と読むことの解明にある。
今、その吉開氏の関心とは別に、千葉県船橋市豊富地区には、「別所」と呼ぶ地域があり、そこには
>>「別所べっしょ」=一説に蝦夷の捕虜を 産鉄、採鉱労働者として住まわせた場所(同論文、32頁)
とあることに注目したい。この言及は
*24 柴田弘武(2007)『全国「別所」地名事典(上巻)鉄と俘囚の民俗誌―蝦夷「征伐」の真相』彩流社、240頁。(未見)
の引用文献を提示しているので、かならずしも吉開氏の説ではないかもしれない。
この別所地域に「蝦夷の捕虜」であったのどうか意見が分かれるが、仮に俘囚だとしても、何らかの東北出身の蝦夷系の人間たちが産鉄に従事していたと想像させる。
この項目も確実なエビデンスないままの想像に過ぎないが、今後の考察の道しるべとしておきたい。
ちなみに吉開氏の結論は
「具体的に「行々林」地名は、8世紀後半に産鉄技術を有する秦氏の一族が古代蝦夷地域への支配領域 拡大という国策によって備前方面から房総の地に移住し故地の「オドロ」地名を伝えたのが、その起源であろ うと考えた」(同論文、34頁)
である。
0 件のコメント:
コメントを投稿