2018年4月13日金曜日
太宰府のご神幸
「西都安楽寺天満宮例祭神幸之図」(元治元年1864、平戸の樹応寺僧円心筆)がある。康和3年(1101)大江匡房が始めたといういわれを持つ天満宮例祭神幸は、『筑前国続風土記』に詳細を見る。
太宰府の「連歌屋」
太宰府天満宮の近くに「連歌屋」という地名がある。
毎年、1月20日、5月20日、9月20日(黒田如水の命日)、太宰府の神職たちが連歌屋に集まり、連歌を作ったという(貝原益軒『如水遺事』)。
慶長7年(1602)1月16日に、黒田如水が主催した連歌の会(「夢想の連歌」)を紹介したいが、こうしたマニアックな話題に関心を寄せる人はいないだろうから、冥土の土産としたい。
毎年、1月20日、5月20日、9月20日(黒田如水の命日)、太宰府の神職たちが連歌屋に集まり、連歌を作ったという(貝原益軒『如水遺事』)。
慶長7年(1602)1月16日に、黒田如水が主催した連歌の会(「夢想の連歌」)を紹介したいが、こうしたマニアックな話題に関心を寄せる人はいないだろうから、冥土の土産としたい。
太宰府史跡保存の恩人、矢野太左衛門昭徳伝
機会があれば、太宰府史跡保存の恩人、矢野太左衛門昭徳伝を書きたいと思う。少しずつ関係資料を蓄えてきたので、この恩人の功に報いるために、老骨に鞭を入れたい。
嘉永5年(1852)である。
嘉永5年(1852)である。
2018年3月29日木曜日
太宰帥とは
平安時代になると、太宰帥に任命されるのは親王であった。したがって、権帥や大弐などが太宰府に赴任するのみで、親王は京都にとどまった。
一方、奈良時代では、大宝2年(702)8月16日の石上麻呂から延暦5年(786)4月11日の佐伯今毛人まで21人の太宰帥が任命された。親王ではなく、臣下であったために、彼らの太宰府への赴任は当然であった。
親王任官の初例は大同元年(806)5月9日の伊予親王であった。官職名は中務卿兼太宰帥。
問題は、「太宰員外帥」と「権帥」とが同一視されていくことである。つまり左遷・懲戒などで流配された者たちを「員外帥」と呼称するが、菅原道真などは「権帥」とも「員外帥」とも呼ばれている。つまり、いつの間にか「権帥」に左遷・懲戒による流配などの意味を帯び始めたことに他ならない。
一方、奈良時代では、大宝2年(702)8月16日の石上麻呂から延暦5年(786)4月11日の佐伯今毛人まで21人の太宰帥が任命された。親王ではなく、臣下であったために、彼らの太宰府への赴任は当然であった。
親王任官の初例は大同元年(806)5月9日の伊予親王であった。官職名は中務卿兼太宰帥。
問題は、「太宰員外帥」と「権帥」とが同一視されていくことである。つまり左遷・懲戒などで流配された者たちを「員外帥」と呼称するが、菅原道真などは「権帥」とも「員外帥」とも呼ばれている。つまり、いつの間にか「権帥」に左遷・懲戒による流配などの意味を帯び始めたことに他ならない。
太宰府の木簡と日下部君
太宰府市蔵司の水田から発掘された木簡に、次の資料がある。
「日下部牛□□
里長日下部君牛□
□□疾病□□」(
この文には、「里」が見えることから霊亀元年(715)以前の木簡だと推定される。注目すべきは、「日下部君」である。蔵司にいかなる理由で埋められたのか不明であるが、日田郡および松浦郡などに居住した日下部君の一族に連なる人間であろうか。「疾病」による休暇願木簡であるらしい。
「日下部牛□□
里長日下部君牛□
□□疾病□□」(
| 木研37-170頁-(1)(大宰府木簡概報1-1・日本古代木簡選) |
| 跡名 | 大宰府跡蔵司西地区 | |
|---|---|---|
| 所在地 | 福岡県太宰府市(旧筑紫郡太宰府町)大字観世音寺字蔵司 | |
| 調査主体 | 福岡県教育委員会 | |
| 発掘次数 | 4 | |
| 遺構番号 | 南北溝(Nトレンチ第Ⅳ層黄色砂質粘土層) | |
| 地区名 | MK037170 | |
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