不思議なことに、貞観5年と貞観6年の両年に朝鮮半島から漂着記事が3件認められる。
(資料1)貞観5年(863)、丹後国に漂着した細羅国人54人
「先是、丹後国言、細羅国人五十四人来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎鳥舎漢書答云、新羅東方別嶋、細羅国人也、自外更無詞。」
(資料2)貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人
因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃。」
(『日本三代実録』貞観5年(863)11月17日条 )
(資料3)貞観6年(864)、石見国に漂着した新羅人30余人
3「先是、去年新羅国人卅余人漂着石見国美乃郡海岸、死者10余人、 生者 24人。詔国司給程粮放却」(『日本三代実録』貞観6年(864)2月17日条 )
<資料1>には、丹後国竹野郡松原村に細羅国54人が漂着したとある。
この竹野は『倭名類聚抄』に「多加乃」とあり、『延喜式』に「竹野郡十四座(大一座、小十三座)」として、「大宇加神社・奈具神社・溝谷神社・久尓原神社・網野神社・依遅神社・大野神社・竹野神社・生王部神社・志布比神社・深田部神社・床尾神社・発枳神社・売布神社」とあり、『丹後国風土記』逸文奈具社条にも「復(、竹野(の郡船木の里の奈具の村に至り」(岩波書店『日本古典文学大系・風土記』)とあるように、「タカノ」と呼ばれていたらしい。ちなみに「Taka」は「take」の被覆形。
竹野郡の郡域は、竹野川下流域北部の旧丹後町、同南部の旧弥栄町、福田川流域の旧網野町の3町にまたがり、北は日本海に面しており、約17kmの海岸線を有している。竹野郡松原村は村名としては見当たらないが、(京丹後市)網野町小字松原付近を想定して大過ないだろう。
さて、次に検討すべきは「細羅国」である。これまで無批判に新羅国と同一されてきた。しかしながら同一文中に「新羅東方別嶋」にあると説明されているので、そのまま新羅国と同一視してきた従来の見解を再検討しなくてはならない。
なお、下記のように『都氏文集』にもほぼ同文が掲載されているが、そこにも「細羅国」とあることに留意しておきたい。
『都氏文集』4「為丹州清刺史請間裁状」
「為丹州清刺史請間裁状。
請国郡司等帯剣以備不虞状。 右此国所治危嶮。 直臨北海、 新羅㺃窟、 天霽遙見。 謹撿案内、 去貞観五年、 新羅東別嶋、 細羅国人五十余口、 舟行遭風、 漂著部下竹野郡松原村。 言上先行。 又故逐老申云、 海浦小民、 或得風濤蕩来、 衣覆器皿等。 皆殊方之讒物、 非中国之所有。 以此験之。 異賊拝城、 相去不遠。 恐有兇類、 一旦来窺。已無武備、 何以承之。 望請帯剣、 以禦非常。 謹解。」(『都氏文集』は都良香 <834-879>の作品集、現存本はいず れも三巻の残闊本)
この2例から判断するに確かに限定付きとなるとしても、「細羅国」を新羅国とは別の国と考えてよいだろう。常識的に言って、「新羅の東にある別嶋」と解釈し、現在の鬱陵島に比定するのが自然である。このように記すと、多くの反論が予想される。すでに鬱陵島が新羅国に併合されていたので、その領有権は新羅だと認定してよい、と。
なるほどその推測も成立するが、はたして860年ごろまでに鬱陵島が新羅国に併合されたという記録を知らないだけに、そのまま迂闊に推断できない。この点に関しては、이재석氏が手際よく研究史を整理している。今、李氏の研究の一端を紹介すれば、我々と同様に「細羅国」を鬱陵島に比定しつつも、韓国側史料に鬱陵島は「于山国」とあるだけに、その断定は躊躇せざるを得ない。それを見据えて、이재석氏は細羅国を「江陵の古地名である何瑟羅・河西良の瑟羅(西良)が 細羅」となったのではないという代案を提出している(「9세기 일본 사료 속의 울릉도・細羅國」『韓日関係史研究』69号、2020年、3-31頁)
しかしながら、管見では、其のleader「長頭」である屎鳥舎漢が虚言を弄した可能性も頭の隅に置いておくべきかもしれない。なるほど原文に忠実である限り、「新羅の東にある別嶋」の「嶋」を「陸地」と見直すわけにいかないのは我が立場である。現段階では鬱陵島であるという説に戻らざるを得ず、現段階では不明だと立ち往生するしかないが、その一方で天長8年(831)に日本は新羅人の来航に制限を加え、交易に管理する政策をとった(『類衆三代格』巻18、天長8年9月7日付「応検領新羅人交関物事」官符)が、すぐさま承和9年(842)年に、新羅人は貿易を目的とする一時滞在のみが許可される方式に変更された。
それゆえに、貞観5年(863)に丹後国に漂着した54人は新羅人であるが、新羅人と名乗るわけにいかず、とっさに想像の国をでっちあげて、丹後国の郡衙に申し出たと想像しても無駄な作業だとは思えない。
もう一つの手がかりである「其長頭屎鳥舎漢」に見るリーダー名「屎鳥舎漢」の言語学的解釈である。新羅語による漢字音推定が不可能であるだけに、その音は現代韓国語漢字音で理解するしかない。参考までに、仮にその現代音を提示すれば
*시조사한((シジョサハン)
となる。「한」を「ハン」と解することが可能であれば、이재석氏の指摘にあるように「 말미의 ‘漢’이 신라・가야계 지배층의 칭호 혹은 신라의 外位에 유래를 둔 ‘干’일
가능성을 언급하였다.」を想定しても良いかもしれない。新羅の官位制にある大角干とか大舎・舎知だけではなく、『日本書紀』の
*「微叱己知波珍干岐」(神功摂政前紀・10月)
*「 上臣伊叱夫禮智干岐 」(継体紀・23年・4月)
に認める「干」を「ハン」と読むならば、あながち無関係ではないと思える。
ちなみに、この当時に、細羅国からの漂着者を取り調べ、滞在させた公館は、京丹後市網野町横枕にある横枕遺跡であったと推定されている(伊野近富「丹後の迎賓館」『京都府埋蔵文化財論集』第6集、2010年、291-298頁) 論集第6集.indb
最後に言及したいのは、新羅の船舶形態である。
「「令下二大宰府一造中新羅船上。以三能堪二風波一也」(『続日本後紀』承和六年(839)七月丙申)
などのように、新羅船は荒海に強い船舶だと知られていたようである。しかしながら、重要なのは54人が乗船した船舶であった事実である。少なくとも小型船舶ではなく、50人以上が乗船できるサイズの船舶であった。しかし現段階で正確な新羅船を再現できる材料に不足している。
ちなみに<資料1>中に「言語不通、文書無解」とある以上、新羅語(ましてや細羅語)を解する日本人が見当らなかったからである。
*「 太政官符 、応停対馬嶋史生一員置新羅譯語一人事、 右
大宰府解
、新羅之船来着件嶋、言語不通、来由難審、彼
此相疑、濫加殺害、望請、
史生一人置件譯語者、右大臣宣、
弘仁四年九月廿九日 」(『類聚三代格』巻五・弘仁4年<813>九月廿九日官符)
を想起すべきだろう。だが、細羅国人と日本人との間のコミニケーションが不可能であったわけではいい。当時の東アジアにおいて、漢文は共通言語であった。つまり漢文による筆談であれば、相互は意思疎通にほとんど不便はなかった事にも、我々は留意しておきたい。
S<参考資料1>
詳細
URL | https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFKJ32000100 |
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木簡番号 | 546 |
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本文 | 旦波国竹野評鳥取里大贄布奈 |
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寸法(mm) | 縦 | 191 |
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横 | 13 |
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厚さ | 2 |
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型式番号 | 031 |
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出典 | 荷札集成-156(藤原宮2-546・日本古代木簡選・飛4-4下(8)) |
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文字説明 | |
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形状 | |
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樹種 | ヒノキ科♯ |
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木取り | 板目 |
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遺跡名 | 藤原宮跡大極殿院北方 |
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所在地 | 奈良県橿原市醍醐町 |
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調査主体 | 奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部 |
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発掘次数 | 藤原宮第20次 |
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遺構番号 | SD1901A |
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地区名 | 6AJFKJ32 |
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内容分類 | 荷札 |
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国郡郷里 | 丹後国竹野郡鳥取郷〈旦波国竹野評鳥取里〉 |
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人名 | |
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和暦 | |
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西暦 | |
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木簡説明 | 贄についての貢進物の荷札。旦浪国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。 |
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