2023年7月7日金曜日

大宰府を通過した外国人(天武朝以前)

 584年 百済から帰朝した鹿深臣が弥勒石造1体、佐伯連が仏像一体を持ち帰る

588年 百済使が来朝。仏舎利や僧、技術者を帯同。善信尼らとともに百済に帰国

595年 高麗僧慧慈、百済僧慧聡が来朝。

597年 百済王子阿佐が来朝。

598年 難波吉士磐金が新羅から帰国。新羅が孔雀を献上

599年 百済がラクダ1匹、ロバ1匹、羊2頭、白雉1隻を持参。

602年 百済僧観勒が来朝。高句麗僧僧隆が来朝。

610年 高句麗僧曇徴・法定が来朝。 

612年 百済より路子工が来朝、須弥山形・呉橋を建築。

615年 遣隋使犬上御田鍬とともに、百済送使と共に帰国

621年 新羅使が来朝

622年 新羅使・任那使が来朝

625年 高句麗僧恵灌が来朝

630年 高麗使。百済使が来朝

632年 遣唐使犬上御田鍬が新羅送使と共に帰国。唐使高表仁と共に。

630年 高麗使・百済使が来朝

635年 百済使が来朝

638年 新羅使・任那使・百済使が来朝

639年 新羅送使が来朝。遣隋使僧恵穏・恵雲とともに。

640年 百済。新羅送使が来朝


この一連の歴史的流れを大宰府の観点から整理しておきたい。

まず、最も大きな変化は東アジア情勢の転換点にあった618年である。この年、隋が滅亡し、唐が覇権を樹立する。

その歴史的変化に敏感に即応したが新羅であった。621年、それまで対日政策を司っていた「倭典」を組織改編し、唐をも含む対外政策全般を取り扱う「領客司」を設置し、新羅は唐そして日本へ、ほぼ同時に上表文を送付する。その上表文を作成する組織として「詳文師(司)」をも開設する。

 確かに高句麗は619年に、そして百済も新羅と同じく621年に使者を派遣している。しかしながら、新羅が高句麗や百済と大きく違うのは、唐風化である。649年の唐風衣装との一致、650年の唐式年号の布告し、併せて唐風の把笏制度の導入、そして極めつけは654年の唐の律令をモデルとした「理方府格」の制定である。つまり、新羅は唐帝国と一体化しながら、唐の信頼を得るとともに、律令による法の整備と実施主体(官僚組織)を確立することで、百済や高句麗との国力に差を付けるとともに、凌駕することに努めた。



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