九世紀半ばの東アジアの交易マーケットは、揚子江以北から山東半島 、遼 東半島を経て朝鮮半島にいたる海域で 、 莞 島 清 海 鎮 を 拠 点 にとする 張 保皐 の よ う な 新羅系商人と、 広州を拠点として波 斯 ・大 食 人 な ど が東南アジアから運搬する物品を交易する浙東海商との二分されていた。
したがって、史料に見える中国商人にしても、新羅系商人か浙東海商なのか。
次の史料は明白である。
『日本紀略』弘仁10年(819)6月16日条
「 大唐越洲人周光翰・言升則等乗新羅人船来 。 問唐国消息 、 光翰等対日 、 己等遠州鄙人 、 不知京邑之事 。 但去元和十一年 、 円洲節度使李師道反 、 所擁兵馬五十万、 極為精鋭 。」
とある越州商人は新羅系商人の交易圏で動き回っていたようだ。
そして次のような史料は考えさせる。例えば、
1, 「太政官給. 2 公験牒」
「(858年)6月8日 、 辞台州 、 上商人李延孝船 、 過海 、 17日申頭 、 南海望見高山 、 18日丑夜 、 至止山島 、 ……19日平 明 、 傍山行至、本国西界肥前国松浦県管曼美楽埼 、 天安2年6月12日 、 廻至大宰府鴻臚館 」
2,『日本三代実録』元慶元年(877)8月22日には 、
「先是 、 大宰府言 、 7月25日 、 大唐商人崔鐸等63人 、 駕一 隻船 、 来著管筑前国 、 間其来由 、 崔鐸言 、 従大唐台州 、 載貴国使 多安江(豊後介正六位下多治真人安江)等 、 頗費貨物 。 6月1日解纜 、 今日得投聖岸 。 是日勅 、 宜依例安置供給 。
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