2024年6月19日水曜日

甲斐国の百済人、石川姓・広石野姓

 『新撰姓氏録』には、

「(天平)勝宝年中に特に恩旨ありて、諸蕃に聴許して願いの任に之を賜ひ、遂に前姓後姓をして文字斯同じく、蕃俗和俗をして氏族相疑はしむ」

とある。

『続日本紀』天平宝字元年4月辛巳条に、

「其高麗、百濟、新羅人等、久慕聖化、來附我俗、志願給姓、悉聽許之。其戶籍、記無姓及族字、於理不穩。宜為改正。」

とあり、『新撰姓氏録』の「諸蕃」もしくは「三蕃」が「高麗・百済・新羅」だと判明する。

同様な言い伝えは『日本後紀』延暦18年12月甲戌条にも見える。

「伏奉去天平勝宝9歳4月4日勅直、其高麗・百済・新羅人等、遠慕聖化、来付我俗、情願称姓、悉聴許之、而己等先祖、未改蕃姓」

とある。ところが、この条の冒頭には、

「甲斐国人止弥若虫、久信鷹長等百九十人言、己等先祖、元是百済人也」

とあり、この「若虫」に「石川」姓、「鷹長」に「広石野」姓を名乗ることが許された。要するに甲斐国に百済出身の渡来人が百九十人が定住していたと語り、日本人との民族的バウンダリーを異にする人々がいた。

ここでの問題の設定は、日本式姓に改める前の姓を知ることである。





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