『日本後紀』延暦18年12月甲戌条に、信濃国に定住している高麗人が紹介されている。
「伏奉去天平勝宝9歳4月4日勅直、其高麗・百済・新羅人等、遠慕聖化、来付我俗、情願称姓、悉聴許之、而己等先祖、未改蕃姓、~~(中略)~~、信濃国人外従六位下卦婁真老、後部黒石、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弖麻呂、前部秋足、小県郡人无位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布白等言、己等先高麗人也、小治田、飛鳥二朝庭時節、帰化来朝、自爾以還、累世平民、未改本号、伏望依去天平勝宝九歳四月四日勅、改本姓者、賜信老等姓須須岐、黒足等姓豊岡。黒麻呂姓村上、秋足等姓篠井、豊人等姓玉川、文代等姓清岡、家継等姓御井、貞麻呂姓朝治、色布知姓玉井」
ここで、鈴木・豊岡・村上・篠井・玉川・清岡・御井などの日本式姓の由来を知るが、我々が持つ問題の所在は朝鮮半島出身の高麗人(高句麗人)が日本式姓に変更する前に、
①卦婁+
②後部+
③前部+、
④下部+
⑤上部+
などを自称していたことである。
この記事以外にも、
1)『続日本紀』天平宝字5年3月庚午「庚子、百濟人余民善女等四人、賜姓百濟公。韓遠智等四人、中山連。王國嶋等五人、楊津連。甘良東人等三人、清篠連。刀利甲斐麻呂等七人、丘上連。戶淨道等四人、松井連。憶賴子老等卌一人、石野連。竹志麻呂等四人、坂原連。生河內等二人、清湍連。面得敬等四人、春野連。高牛養等八人、淨野造。卓-杲智等二人、御池造。延爾-豐成等四人、長沼造。伊志-麻呂、福地造。陽-麻呂、高代造。烏那龍神、水雄造。科野-麿等二人、清田造。斯藒國足二人、清海造。佐魯牛養等三人、小川造。王-寶受等四人、楊津造。答他-伊奈麻呂等五人、中野造。調-阿氣麻呂等廿人、豐田造。高麗人達沙仁德等二人、朝日連。上部王蟲麻呂、豐原連。前部高文信、福當連。前部白公等六人、御坂連。後部王安成等二人、高里連。後部高-吳野、大井連。上部王彌夜大理等十人、豐原造。前部選理等三人、柿井造。上部君足等二人、雄坂造。前部安人、御坂造。新羅人新良木舍姓麻呂等七人、清住造。須布呂比滿麻呂等十三人、狩高造。漢人伯德廣足等六人、雲梯連。伯德諸足等二人、雲梯造。
2)『続日本紀』神護景雲元年癸酉の条、
「癸酉,授正六位上-阿倍小殿朝臣-人麿,從五位下。復無位-上毛野公真人、本位外從五位下。正六位上-上部-甲真高、從七位下丹比宿禰真嗣、並外從五位下。」
3)『続日本紀』宝亀7年5月庚午「庚子,正六位上-後部-石嶋等六人,賜姓出水連。」
4)『続日本紀』延暦八年五月庚午「庚午,信濃國筑摩郡人-外少初位下-後部-牛養,無位宗守豐人等,賜姓-田河造。」
5)『続日本紀』天平18年正月庚辰「右京人上部乙麻呂之妻大辛刀自賣一産三女。給正税四百束。」
などに散見する。さらに同種の資料は、『新撰姓氏録』などを通覧すれば、さらに拡充できる。例えば、『新撰姓氏録』左京諸蕃下の条に見る「豊原連、高麗国の人、上部王虫万呂自り出づ」とあり、前掲した『続日本紀』天平宝字5年3月庚午の条、「高麗人達沙仁德等二人、朝日連。上部王蟲麻呂、豐原連。前部高文信、福當連。前部白公等六人、御坂連。」と符合する。
この「上部」・「前部」などに関しては、今西龍などの幾多の先学によって解明されたように、定説通りに高句麗の五部制に由来すると考えている。その由来の説明は、各学説を丁寧にまとめた川本芳昭氏の研究に委ねたい。
ここでの私の問題の所在は、①高麗人は「上部」などの「上」や「部」などをどのように「読んだ」か②「上部」「後部」などのアクショングループに序列が存在したか、あるいは職能別などの差が存在したか。高句麗五部制研究の手掛かりは得られないか
浅学菲才、そのいずれにも私見を提示できないものの、『新撰姓氏録』では、
*上部などは「部」を「ホウ」
と読む。日本語でも韓国語でも、この「部」を「ホウ」と読む根拠を探せない。
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