2024年6月19日水曜日

赤司善彦著『大宰府跡』に対するコメント(その2)

 (3)本書全体にわたる頻出する文末表現「~のである」の特異性

→試算では、全体で39か所。この「~のである」という文末表現が持つ特別なニュアンスを、明敏怜悧な赤司氏に改めて説明するまでもないだろう。別な表現に変えた方が良いと愚案する。むしろ不要だとさえ思える。『日本語練習帳』(岩波新書)をご案内したい。


⇒この記述を公開した後、ご意見を寄せられたのは、「~~のである」はなぜ再検討すべきかを具体的に教えてほしいという要望であった。

まず『日本語練習帳』90-97頁をご参照頂ければ、それでよい。

同書に明記してあるように、赤司氏の記述に認められるのは、著者ご自身が意識するにせよ、無意識もしくは習慣であるにせよ、

*読者の皆様はご存じではないだろう。だから私が皆様に貴重な情報を教えて差し上げますよ

という「押しつけ」ニュアンスが文面に顔をのぞかせていることである。さすがにそれは避けた方が良いと赤司氏にアドバイスしたい。

いやいや、無知蒙昧な読者諸君、私(赤司氏)の高邁な学説を知る機会を得ただけでも幸せであり、冥途の土産になったはずだと赤司氏がお考えであれば、無理に訂正を求めない。

(ただし、個人的な感想となりますが、上から目線に辟易するばかりですが。)

なお、これまでに何回、本書の読後評を書き直しただろうか。大宰府を愛する者の一人として、赤司氏の労作を切り口にして、古代大宰府像を再検討しており、拙論はすでに数十頁に達した。

 それにしても川添先生編『大宰府市史』は傑作である。思い悩むときに、いつも立ち返るので。

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