かって、日本古代史の大家に向かって、
「海路ではなく、陸路で大宰府から平城京まで駆け抜けたとすれば、片道640キロメートルを4日間で疾走したことになりますが、本当ですか?」
と不躾な質問をしたことがある。江戸時代の赤穂浪士並みであるからだ。
*大宰府-平安京間の駅数及び距離
西海道11駅(90km)+山陽道49駅(約550km)の60駅(640km)
<延喜式』兵部省諸国駅伝 馬条記載>」
この計算方式を容易に信じがたいのは、上村俊洋氏が論じるように、
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp)
からである。
「やや乱暴ではあるが,平城京周辺の駅名・官道等が不明 な平城京期も同等の駅数・距離を,大宰府-平城京間に仮定した場合,広嗣の上表文を携えた使者 は,60駅を4日間で移動し,1日当たり15駅(約158.3km)を走破したことになる。」(上村俊洋「南九州の古道について 〜菱刈郡・大水駅を中心に」(4頁、) (6757_20220518104920-1.pdf (pref.kagoshima.jp)
からである。
はたして、この距離を走り抜けることが可能であろうか。
直木孝次郎先生にしろ、青木和夫氏にしろ、大宰府の使者が昼夜を分かたず走りぬけば、十分に可能だとご回答になっているようだ。
100歩譲って、馬で疾走したイメージをお持ちであるとしても、その時間で平城京に到着できるだろうか。
私が同意できないのは、
理由①古代日本の在来馬はサラブレッド種のような競走馬ではなく、小型で足がずんぐりとして、高さ1,3メールほどであること。
理由②馬は夜間に走らない事
理由➂最大スピードが15㎞であり、その時速が1時間続くわけもなく、平均平均5㎞ほどである事。
大家の学説を尊重するものの、はたしてこの点は歴史記述にこだわりすぎであるように思えてならない。博雅の士の教えを受けたい。
なお、陸奥国多賀城から京までも7日間の距離であったというが、はたして真実であろうか。
<参考記事①>
アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によって紀元前5世紀に敷設された幹線「王の道」の全長はthe capital, Susa首都スーサ)から小アジアのサルディス( Sardis in Asia Minor.)に至る2,699 km(1,677マイル。
この約2700㎞は
1,馬で約9日間
2,徒歩で約90日
を要したという。諺に「Neither snow nor rain nor heat nor gloom of night stays these couriers from the swift completion of their appointed rounds」。
<参考記事②>矢野圭吾氏報告
江戸 → 赤穂 距離 約155里/約620Km
- 殿中刃傷事件の日、浅野内匠頭長矩が切腹をした日
元禄14年3月14日=1701年4月21日(木曜日) - 刃傷事件を知らせる最初の早駕籠が赤穂へ到着した日
元禄14年3月19日=1701年4月26日(火曜日) - 赤穂城明け渡しの日
元禄14年4月19日=1701年5月26日(木曜日) - 吉良邸へ討入りをした日、吉良上野介義央が亡くなった日
元禄15年12月14日寅の上刻=1703年1月30日(火曜日)
現在でいう時間帯=1703年1月31日(水曜日)午前3時半ころ討入り
※元禄15年8月の翌月に閏8月がありましたので、刃傷事件から1年10ヶ月で討入りということになります。 - 義士たちが四大名家へ預けられた日、大石内蔵助らが細川邸へ到着した日
元禄15年12月15日丑の刻=1703年1月31日(水曜日)
現在でいう時間帯=1703年2月1日(木曜日)午前2時ころ - 義士が切腹をした日
元禄16年2月4日=1703年3月20日(火曜日) (『忠臣蔵寺子屋』第3回、2004年7月29日)
出典: 赤穂市/忠臣蔵寺子屋-第3回
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