2025年5月25日日曜日

渡来系牛馬皮革加工業者と日向国児湯郡平群郷と韓家郷

 先に、日向国児湯郡韓家郷は約1000人の渡来系住民の居住地であったという仮説を提出した。それは考古学的エビデンスを伴わない暴論でもあるので、今後の考古学的発掘成果に期待する。私の願いは仮説提出にある。検証結果、正解であればそれはそれ、たとえ間違いであっても多くの先行する仮説の残骸の上に真実が見えて来ると信じる。

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それを踏まえて、まず一つの木簡に注目したい。

(資料①)に

○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲」

とあり、また、

(資料②)に、

日向国牛□〔皮ヵ〕四□」

とある記事である。この資料②の空欄は、通説通りに

「日向国牛皮4枚」

と埋めても大過ないに違いない。

資料①は文意不明であるが、断片的な情報として、奈良文化財研究所HP「木簡庫」が指摘するように

1、地名:日向久湯評

2,人名:漆部佐俾支(Safiki)

3、人名:平群部美支□((Miki)(名前を2文字とするか、3文字とするかは存疑)

と理解することに首肯したい。


上記したように、

4、資料②「卅」は「牛皮」と解すべきか(奈良文化財研究所)

となると、この牛皮はどこの牛牧から持ってきたかが、我々の関心である。

その手掛かりは、『延喜式』巻28,兵部省に見る

日向国〈野波野馬牧、堤野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、長野牛牧、三野原牛牧」

とあるこの3つの牛牧からであっただろうが、現段階で文献資料の限界と考古学的未発掘などで、それらの比定地は不明である以上、これ以上の探求は止めておきたい。

その上で、問題は、どこで誰が牛を飼養し、誰が牛から、どのような器具で皮を剥いだか、さらにはその皮を誰が、いつ、どのようになめして、誰が京に、どのようにして運搬し、どこに貢納したかを考えたい。






 資料①にせよ資料②にせよ、様々な視点からのアプローチがあるものの、我々の論点を錯綜させないために、まず関心を資料①に存在する「平群」に集中したい。
 資料①の「平群部」は日向国児湯郡平群郷」(現在の西都市大字平群付近)の住民であったか、さもなくばその地と深い縁を有する人々であっただろう。

 そもそも牛は日本列島に存在しなかった。宮路淳子の指摘あるように、

「ウシ骨の明確な出土事例は、南郷大東遺跡(奈良県御所市)の五世紀中ごろ以前 (初期須恵器︱TK208型式)の層位からのものであり、日本列島にウシが移入さ れ人の生活に関わるようになるのは、五世紀以降であることは明らかである」(宮路淳子、「古墳時代におけるウシ飼養に関する予備的研究」『奈良女子大学文学部研究教育年報』第16号、)

だという。

そして、宮路淳子氏が的確に要言したように

「 古墳時代には、皮革生産が直接的には朝鮮半島からの技術の移入によって開始さ れた。小林行雄は『日本書紀』巻十五 仁賢六年の「遣日鷹吉士使高麗召巧手者。(中 略)是歳、日鷹吉士還自高麗、献工匠須流枳、奴流枳等。今大倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」という記述から、大倭国山辺郡額田邑に住む革公人たちの技術が高 麗から渡来した工匠によって伝えられたことを主張していることに注目した(小林 、一九六二)。遺物としての革製品は、奈良県當麻町三ツ塚古墳群の七世紀末頃の改葬 墓から漆塗革袋が出土している(千賀久二〇〇四)など、衣服、馬具、武具、楽器など、 動物の皮革はさまざまな用途に用いられていたと考えられる。 」(宮路、同上)(小林行雄、『古代の技術』正、 塙選書、1962)

であった。

 このことを念頭に置きつつ、ここで、唐突であるものの、『紀氏家牒』逸文に注目したい。田中卓氏が紹介する『紀氏家牒』は奈良末~平安初期に成立したといわれ、逸文26条を見出している。その中の3条に、「平群」の語句を見る。

(資料③)「家牒曰、六男平群木兎宿祢、歴仕応神・仁徳・履中三代天皇、執国政。凡寿殆一百五十余歳。初木兎宿祢与仁徳天皇同日生。神功皇后政六十年然後、家大倭国平群県平群里。故称平群木兎宿祢。是平群朝臣・馬工連等祖也。」


(資料④)

家牒曰、家大倭国平群県平群里。故称曰平群木兎宿祢。是平群朝臣・馬工連等祖也。

又云、額田早良宿祢男、額田駒宿祢、平群県在馬牧、択駿駒養之。献天皇。勅賜姓馬工連、令掌飼。故号其養駒之処曰生駒。又云額田駒宿祢男、□□馬工御連。

(資料⑤)

紀氏家牒曰、平群真鳥大臣弟、額田早良宿祢家、平群県額田里。不尋父氏、 負「母氏」姓額田首 田中卓注:「母氏」は脱字か>


当面の我々の関心に限定すれば、この記事からは推測できることは、平群郡平群里を出身地とする平群氏の一族 が生駒山東麓の馬牧を管理したこと、そして大倭国平群郡額田郷を出身地とする平群氏系額田首も馬の飼育を担当していたことは間違いない。そこで平群氏の職掌が馬飼育であったとすれば、当然に思い起こされるのは、先の引用にも言及された『日 本書紀』仁賢六年是歳条の

「日鷹吉士還 、自高麗、献工匠須 流枳・奴流枳等。今倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」

とある熟皮高麗の渡来記事である。「今倭国山辺郡額田邑熟皮高麗、是其後也」の箇所は日本書紀編纂時の追記である。

それを知った上でも、熟皮とは皮革の加工技術 であり、日本書紀編纂時の共通理解として、朝鮮半島出身の渡来系住民(高句麗出身)が額田邑で動物皮革技術者であったという事実である。彼らの職掌は単に熟皮だけではなく、馬の繁殖・飼養・放牧・管理などでもあったことは想像に難くない。

しかも、『「古事記』安康天皇 条

「於是,市辺王之王子等,意祁王・哀祁王二柱 聞此乱而逃去。故到山代苅羽井,食御粗之時, 面黙老人来,奪其粗。爾其二王言「不惜根。 然汝者誰人。」答日「我者山代之猪甘也。」故 逃渡玖須婆之河,至針間国,入其国人・名志 自牟之家,隠身,役於馬甘牛甘也。」

とあるように、馬飼育者は同時に牛飼育舎であったことにも注目しておきたい。


『延喜式』巻28、兵部省式には牛牧(含む馬牛牧)が十三ヶ所に置かれたとある.

[諸国馬牛牧

駿河国〈岡野馬牧、蘇弥奈馬牧、〉 

相と摸国〈高野馬牛牧、〉 

武蔵国〈檜前馬牧、神埼牛牧、〉 

安房国〈白浜馬牧、鈖師馬牧、〉 

上總国〈大野馬牧、負野牛牧、〉 

下總国〈高津馬牧、大結馬牧、木嶋馬牧、長洲馬牧、浮嶋牛牧、〉 

常陸国〈信太馬牧、〉 

下野国〈朱門馬牧、〉 

伯耆国〈古布馬牧、〉 

備前国〈長嶋馬牛牧、〉 

周防国〈竈合馬牧、垣嶋牛牧、〉 

長門国〈宇養馬牧、角嶋牛牧、〉 

伊予国〈忽那嶋馬牛牧、〉 

土佐国〈沼山村馬牧、〉 

筑前国〈能臣嶋牛牧、〉 

肥前国〈鹿嶋馬牧、庇羅馬牧、生属馬牧、柏嶋牛牧、■【テヘン+遷】野牧、早埼牛牧、〉

肥後国〈二重馬牧、波良馬牧、〉 

日向国〈野波野馬牧、堤野馬牧、都濃野馬牧、野波野牛牧、長野牛牧、三野原牛牧、〉

右諸牧馬五六歳、牛四五歳、毎年進左右馬寮、各備梳刷剉、其西海道諸国、送太宰府、但帳進省」

とあるように、日向国には野波野馬牧と野波野牛牧を同時に置いたことも我々の推測を裏切らないだろう。

そこで、再掲するが、 『倭名類聚抄』にある日向国児湯郡内の八つの郷を列挙すると、

①穂北郷

②大垣郷

③三宅郷

④覩唹唹

⑤三納郷

⑥平群郷

⑦都野郷

韓家郷


であった。我々の仮説は次の通りである。
「平群郷には、半島由来の渡来人平群氏もしくは平群氏系額田首一族が馬・牛の繁殖・飼養、そして皮を剥ぐなどに従事していた。
そして韓家郷には、その馬や牛、さらには鹿など動物皮革を加工する渡来系技術者集団が居住していた。」

『延喜式』内寮式などに記載された動物皮革の加工法に関する管見は、後日に譲る。

蛇足となるが、この日向国で作られた動物皮革製品はなにも正倉院蔵のような貴人の装身具にだけ作られたものではなく、わざわざ日向国に馬牧や牛牧を配置し、そのために渡来系皮革技術者を多数投入した最大の理由は、戦闘が続く隼人との闘いに備えるための武具制作の為であったと考えている。換言すれば、軍団制を念頭に置くことが求められよう。天長3年(826)に軍団制が廃止されるまで、日向国の牧は

なお、それを傍証するように、資料①の「漆部」にも注目する。なぜならば、正倉院に現存する牛皮製品の大多数に漆が塗布されているからである。したがって動物皮革加工技術と漆塗技術とは一体化して考えなくてはならない。

<参照記事>
出口公長「正倉院宝物に見る皮革の利用と技術」

<参考情報>

『大和志』

額田邑 「嘉幡村西十町許有皮工邑、隣平群」


<参考情報>養老令廐牧令

1,廐牧令第一 廄細馬條:凡廄。細馬一疋。中馬二疋。駑馬三疋。各給丁一人穫丁每馬一人。日給細馬。粟一升。稻三升。豆二升。鹽二夕中馬。稻若豆二升。鹽一夕。駑馬。稻一升。乾草各五圍。木葉二圍。【周三尺為圍。】青草倍之。皆起十一月上旬飼乾。四月上旬給青。其乳牛。給豆二升。稻二把取乳日給。

  1. 廄牧令第二 馬戶分番條:凡馬戶。分番上下。其調草。正丁二百圍。次丁一百圍。中男五十圍。
  2. 廄牧令第三 官畜條:凡官畜。應請脂藥療靄病者。所司預料須數每季一給。
  3. 廄牧令第四 牧馬帳條:凡牧馬長帳者。取庶人清幹。堪檢校者霽為之。其外六位及勳位。亦聽通取。
  4. 廄牧令第五 牧每牧條:凡牧。每牧置長一人。帳一人每群牧子二人。其牧馬牛。皆以百為群。
  5. 廄牧令第六 牧牝馬條:凡牧牝馬。四歲遊牝。五歲責課。牝牛三歲遊牝。四歲責課。各一百每年課駒犢各六十其馬三歲遊牝而生駒者。仍別簿申。
  6. 廄牧令第七 每乘駒條:凡牧馬牛。每乘駒二疋。犢三頭各賞牧子稻廿束其牧長帳。各通計所管群賞之。
  7. 廄牧令第八 死耗條:凡牧馬牛死耗者。每年率百頭論除十。其疫死者。與牧側私畜相准。死數同者。聽以疫除。
  8. 廄牧令第九 失馬牛條:凡在牧失官馬牛者。並給百日訪覓。限滿不獲。各准失處當時估價十分論。七分徵牧子三分徵長帳如有闕及身死。唯徵見在人分其在廄失者。主帥准牧長飼丁准牧子失而復得。追直還之。其非理死損。准本畜徵填。
  9. 廄牧令第十 駒犢條:凡在牧駒犢。至二歲者。每年九月。國司共牧長對。以官字印印左髀上犢印右髀上並印訖。具錄毛色齒歲為簿兩通一通留國為案。一通附朝集便申太政官。
  10. 廄牧令十一 牧地條:凡牧地。恒以正月以後從一面以次漸燒。至草生使遍。其鄉土異宜。及不須燒處。不用此令。
  11. 廄牧令十二 須校印條:凡須校印牧馬者。先盡牧子不足。國司量須多少取隨近者充。
  12. 廄牧令十三 牧馬應堪條:凡牧馬。應堪乘用者。皆付軍團於當團兵士內簡家富堪養者充。免其上番及雜驅使。
  13. 廄牧令十四 須置驛條:凡諸道須置驛者。每三十里置一驛若地勢阻險。及無水草處。隨便安置。不限里數其乘具及蓑笠等。各准所置馬數備之。
  14. 廄牧令十五 驛各置長條:凡驛。各置長一人取驛戶內家口富幹事者為之。一置以後。悉令長仕若有死老病。及家貧不霖堪任者。立替。其替代之日。馬及鞍具欠闕。並徵前人若緣邊之處。被蕃賊抄掠非力制者。不用此令。
  15. 廄牧令十六 置驛馬條:凡諸道置驛馬大路廿疋。中路十疋。小路五疋。使稀之處。國司量置。不必須霖足。皆取筋骨強壯者充。每馬各令中中戶養飼若馬有闕失者。即以驛稻市替。其伝馬每郡各五。皆用官馬若無者。以當處官物市充。通取家富兼丁者付之。令養以供迎送。
  16. 廄牧令十七 水驛條:凡水驛不配馬處。量閑繁驛別置船四隻以下。二隻以上隨船配丁。驛長准陸路置。
  17. 廄牧令十八 乘驛條:凡乘驛及伝馬應至前所替換霽者。並不得騰過其無馬之處。不用此令。
  18. 廄牧令十九 軍團官馬條:凡軍團官馬。本主欲於鄉里側近十里內調習霽聽。在家非理死失者。六十日內備替。即身死。家貧不堪備者。不用此令。
  19. 廄牧令二十 驛伝馬條:凡驛伝馬。每年國司檢簡。其有太老病。不霖堪乘用者。隨便貨賣。得直若少。驛馬添驛稻伝馬以官物市替。
  20. 廄牧令廿一 公使乘驛條:凡公使須乘驛及伝馬若不足者。即以私馬充。其私馬因公使致死者。官為酬替。
  21. 廄牧令廿二 乘伝馬條:凡官人乘伝馬出使者。所至之處。皆用官物准位供給。其驛使者。每三驛給。若山險闊遠之處。每驛供之。
  22. 廄牧令廿三 國郡條:凡國郡所得闌畜。皆仰當界內訪主。若經二季無主識認者。先充伝馬若有余者出賣。得價入官。其在京。經二季無主識認者。出賣。得價送贓贖司後有主識認勘當知實。還其本價。
  23. 廄牧令廿四 闌遣物條:凡闌遣之物。五日內申所司其贓畜。事未分決在京者付京職斷定之日。若合沒官出賣。在外者准前條。
  24. 廄牧令廿五 官私馬牛條:凡官私馬牛帳。每年附朝集使送太政官。
  25. 廄牧令廿六 官馬牛條:凡官馬牛死者。各收皮腦角膽若得牛黃者。別進。
  26. 廄牧令廿七 因公事條:凡因公事乘官私馬牛以理致死。証見分明者。並免徵。其皮宍。所在官司出賣。送價納本司若非理死失者。徵陪。
  27. 廄牧令廿八 官畜條:凡官畜。在道羸病。不堪前進者。留付隨近國郡養飼療救。草及藥官給。差日遣專使送還所司其死者。充當處公用。


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<参考文献>

1, 佐伯有清「馬の伝承と馬飼の成立」(同『古代史への道』〈吉川 弘文館 一九七五年〉 初出一九七四年) 

2,岸俊男「『額田部臣』と倭屯田」(同『日本古代文物の研究』〈塙書房  一九八八年〉 初出一九八五年) 

2, 本位田菊士「額田部連・額田部について」(『続日本紀研究』二三八  一九八五年) 

3,狩野久「額田部連と飽波評」(同『日本古代の 国家と都城』〈東京大学出版会 一九九〇年〉 初出一九八四年) 

 5,森公章「額田部氏の研究」(『国立歴史民俗博物館研究報告』八八  二〇〇一年) 


(資料①)

RLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AWHHG14000101
木簡番号1497
本文・○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□・故是以○皆者亡賜而○偲
寸法(mm)(161)
58
厚さ6
型式番号019
出典飛鳥藤原京2-1497(木研25-26頁-(46)・飛17-39上・飛16-13上(55))
文字説明表面上部の余白に不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。
形状上削り、左削り、右削り、下二次的切断(表側から刃を入れる)、表面下部一部剥離。
樹種
木取り板目
遺跡名藤原京左京七条一坊西南坪
Fujiwara Capital (Left Capital, Seventh Row, First Ward, Southwest Block)
所在地奈良県橿原市上飛騨町
調査主体奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
Department of Asuka and Fujiwara Palace Sites Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数飛鳥藤原第115次
遺構番号SX501
地区名5AWHHG14
内容分類文書
国郡郷里日向国児湯郡日向国久湯評
人名漆部佐俾支・平群部美支□
和暦 
西暦 
遺構の年代観694-710
木簡説明本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。


あるいは

(資料②)


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGCJ67000005
木簡番号0
本文日向国牛□〔皮ヵ〕四□
寸法(mm)191
24
厚さ6
型式番号033
出典城6-6下(64)
文字説明 
形状 
樹種
木取り柾目
遺跡名平城宮二条条間大路南側溝
Heijō Palace (Second Row, Avenue Between the Rows, South Side Ditch)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数44
遺構番号SD5785
地区名6ALGCJ67
内容分類荷札
国郡郷里日向国
人名 
和暦 
西暦 
遺構の年代観712-715
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6ALGCJ67000005








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