長年、探し求めていた都の「調邸」、私の拙劣な表現で言えば、全国から貢納された品々をいったん納入する都の仮保管場所、あるいは調を運搬してきた者たちの宿舎(休憩所)、さらには政府の倉庫に納入・検品されるまでの間のモノ・ヒト・カネなどの情報収集場所の機能を持つ建築物が存在していたはずだと考えていた。さらには、毎年定期的に11月1日(畿内は10月1日)までに上京し、翌年の3月頃まで都に滞在した四度使(朝集使・計帳使・正税帳使・貢調使)の中で、京に自宅を有する国司のように都から地方へと派遣される者であれば問題はないだろうが、朝集使など四度使には雑掌2人(『駿河国正税帳』天平8年条の丈部大嶋 半布臣広麻呂など、『類聚三代格』巻6、公糧事など)が同行していたし、さらには伴人がいたはずである。彼ら地方在地の者たちにとって都での仮偶を要しただろう。
眼が節穴の私には発見できなかった資料を、荒井氏が発掘している慧眼に改めて驚く。
「律令制下の交易と交通」『日本古代の交通・交流・情報』第2巻、吉川弘文堂、2016年、208頁
1)相模国調邸
2)諸国調宿所
等の語句を発掘している。長年にわたり史料群に対して眼光紙背に徹する態度で取り組んできた荒井氏の労を多としたい。
私の念頭には、朝鮮王朝時代において「京在所」や「留郷所」などの存在を知っていただけに誰が見ても古代日本においても同種の建築物がなくてはならないと言う予想をしていた。
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