2025年3月3日月曜日

相模国「調邸」に関してーー館野和己氏・今津勝紀氏・荒井秀規氏に感謝

 長年、探し求めていた都の「調邸」、私の拙劣な表現で言えば、全国から貢納された品々をいったん納入する都の仮保管場所、あるいは調を運搬してきた者たちの宿舎(休憩所)、さらには政府の倉庫に納入・検品されるまでの間のモノ・ヒト・カネなどの情報収集場所の機能を持つ建築物が存在していたはずだと考えていた。

 さらには、毎年定期的に11月1日(畿内は10月1日)までに上京し、翌年の3月頃まで都に滞在した四度使(朝集使・計帳使・正税帳使・貢調使)の中で、京に自宅を有する国司のように都から地方へと派遣される者であれば問題はないだろうが、朝集使など四度使には雑掌2人(『駿河国正税帳』天平8年条の丈部大嶋 半布臣広麻呂など、『類聚三代格』巻6、公糧事など)が同行していたし、さらには伴人がいたはずである。彼ら地方在地の者たちにとって都での仮偶を要しただろう。

 眼が節穴の私には発見できなかった資料を、荒井氏が発掘している慧眼に改めて驚く。

「律令制下の交易と交通」『日本古代の交通・交流・情報』第2巻、吉川弘文堂、2016年、208頁

1)相模国調邸

2)諸国調宿所

等の語句を発掘している。長年にわたり史料群に対して眼光紙背に徹する態度で取り組んできた荒井氏の労を多としたい。

私の念頭には、朝鮮王朝時代において「京在所」や「留郷所」などの存在を知っていただけに誰が見ても古代日本においても同種の建築物がなくてはならないと言う予想をしていた。


ここまで書いてきて、ふと今津勝紀「税の貢進」『日本古代の交通・交流・情報』(1)所収(特に、75-76頁)を眺めていたところ、今津氏も同様な指摘をなさっている。しかも今津氏の導きで、そもそも最初の指摘は館野和己氏であったという。

館野和己「相模国調邸と東大寺領東市荘」『日本古代の交通と社会』塙書房、1998年

→未見

だとも教わった。特記して感謝したい。

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さて、相模国調邸に関する記述は、『東大寺薬師院文書』(天平勝宝8年<756>の






薬師院文書2
【差出】
従六位下行大目鬼室虫麿呂/守従五位下藤原朝臣/正六位上行介紀朝臣稲手
【宛所】
【詳細内容】
【員数】1通【形状】竪紙【書出】相模国司牒 造東大寺司/諸国調邸地価事、【書止】今依郡司解、請価如件、仍録事状、以牒、【件名】相博/倉屋【備考2】文書面ニ「相模国印」二十顆アリ


【員数】1通【形状】竪紙【端裏書】封 □□□【書出】相模国朝集使解 申売買地事、【書止】仍録事状、以解、【地名】左京八条三坊【職名】造東大寺司【件名】邸/銭価/捺印【備考2】奥ニ別筆「司検/長官佐伯宿祢今毛人、主典葛井連根道」トアリ、

≪書目データ≫
【史料種別】
謄写本
【請求記号】
2071.65-10
【書名】
古文書彙纂
【著者名】
【原蔵者】
江藤正澄(福岡市)
【出版事項】
【撮影・複本作成】
1889
【形態】
104丁 (文書・記文・帳簿)
【大きさ】
28cm
【注記】
(明治8年10月 江藤正澄写)

 



ここで、『 寧 楽 遺 文 』に翻字された「 諸 国 田 券」 ( 早 稲 田 大 学 図 書 館 所 蔵 文 書 )記事は次のとおりである。

「 相 模 国 朝 集 使 解 申 売 買 地 事

 調 邸 壹 町 在 左 京 八 条 三 坊 者 得 價 銭 陸 拾 貫 文 

右 、 得 件 銭 價 、 売 與 造 東 大 寺 司 既 畢 、 但 捺 印 文 者 、 追 將 申 送

仍 録 事 状 、 以 解 、 

天 平 勝 宝 八 歳 二 月 六 日 雑 掌 足 上 郡 主 帳 代 丈 部 「 人 上 」

 鎌 倉 郡 司 代 外 従 八 位 上 勲 十 等 君 子 「 伊 勢 万 呂 」 

御 浦 郡 司 代 大 田 部 直 「 圀 成 」

 国 司 史 生 正 八 位 下 茨 田 連 「 蔭 毛 智 」 

 司 検

 長 官 佐 伯 宿 禰 「 今 毛 人 」   主 典 葛 井 連 「 根 道 」 」


設問)この売買は高いか安いか

は、別稿にて回答する。






追記)山下剛司の下記の論文も公表されていることを付記しておく。

詳細

タイトル
[PDFあり]相模国調邸の「郡司代」「主帳代」に関する考察 / 山下剛司
あらすじ・抄録等
本稿では先行研究ではあまり取り上げられることの無かった「郡司代」「主帳代」という職について注目し、天平勝宝年間平城京の左京八条三坊に存在した相模国調邸の土地売買に関する文書から何故その様な職が設けられたのかを考察する。相模国調邸はその名の示すとおり、相模国から運京されてきた調を取り扱う施設である。調は平城京まで運搬しやすいように、相模国で現物から軽貨に代えられ、都で再び現物へと交換された。この実務を担っていたのが国司や郡司ではなく、他の国では見られない「郡司代」「主帳代」という職に就いていた者達であった。そこで、相模国とその調の特色を見ることによって、「郡司代」「主帳代」が置かれた理由を考察する。
その他のタイトル
Consideration of Sagaminokuninomitukinoyashiki's 'Gunjidai' and 'Shuchodai'
刊行日
2012-03-01
ページ
p. 195-202




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