2024年8月16日金曜日

東国の渡来人ーー土生田純之説の紹介(増補)

東国において、その築造年代は不明であるが、土生田純之氏によると、「東三河、西遠江、北信、西毛、甲斐」などに積石塚古墳が存在するという。そしてその初見は5世紀半ばから後半だという(「東国の渡来人」『専修大学古代東アジアユーラシア研究センター年報』第1号、2015年3月、37-49頁)。
 「これら地域では極めて早い段階(5世紀後半)での竈付住居や須恵器の普及、殺牛馬儀礼の実施、殺牛馬儀礼の存在などをあげることができる」(44頁)を論拠として、さらに土生田氏による推定は、「在来倭人が欲する馬匹生産や製鉄技術を持った」渡来人たちが、
 「475年における百済の第一次滅亡とと混乱によって百済をはじめ加耶諸地域等から多くの渡来人が列島へ流入した」
という。
その具体的な事例として、土生田氏は群馬県高崎市剣崎長瀞西遺跡を取り上げる。遺跡の紹介は土生田氏にそれに委ねるとしても、その遺跡の特長は洛東江流域を故地とする馬具ー轡一式が着装された馬埋葬土坑だとする。しかも出土品には、垂飾付耳飾ー大加耶系、五世紀後半の洛東江中流域に系譜を持つ馬具などを確認できるとする。

 我が問題関心は、次にある。百済や加耶諸国に居住していた人々が朝鮮半島南部の洛東江流域から対馬経由で玄界灘を渡り、まずは北部九州のいずれかの地に渡来し、橋頭保を築いただろう。彼らが洛東江流域を故地とする馬具ー轡一式で着装された騎馬民族であったことである。
 このように書けば、多くの識者は江上波夫「騎馬民族国家説」を想起するだろうが、私はそうではない。多数の騎馬飼育や騎馬軍団による戦闘を考古学的論証できない限り、その江上説にしゃむに飛びつくつもりはない。故地のいでたちをする儀礼的な馬具ー轡一式にまたがる乗馬の風習にすぎず、故地の埋葬儀礼を守り続けた殺牛馬儀礼であり、故地からの食文化を維持するための韓式土器であっただろう。つまりオンドル式床暖房がそうであるように、渡来人らは故地の一連の文化をセットで日本に持ち込んだという通説に従う。
 しかしながら、渡来人の役割は在地の権力者の周辺で、朝鮮文化を特徴づけるテーマパークのような集落に住み、権力者が外出するパレードに、馬具で着飾った馬を引くことにあっただろう。




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