2024年8月4日日曜日

亀田修一氏の渡来人研究紹介(福岡ー吉備ー畿内)

 亀田修一氏の研究はほぼ一貫して渡来人に的を絞ってきた。


* 「福岡平野地域(花田 2002、亀田 2004b、重藤ほか 2005、武末 2013 など)  福岡市西新町遺跡は、砂丘上に営まれた集落遺跡で、3、4 世紀の竪穴住居が約 500 棟(カマ ド住居・オンドル住居を含む)、多数の朝鮮半島系土器が確認され、加耶地域や百済・全羅道地 域からの渡来人の存在が推測されている。」(「古墳時代の渡来人 --西日本-」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 4 号 2018 年 3 月、43頁)

そして、亀田氏によると、

「隣接する 5 世紀前半~ 6 世紀末の吉武古墳群においても加耶系を中心と する陶質土器や鋳造鉄斧、鉄鐸、鉄滓などが出土し、この周辺地域での渡来人・その子孫たちに よる鉄器生産などの可能性が推測されている。」(同書、47頁)

を想定する。


次に、宗像地域である。

「宗像地域では 5 世紀代だけでなく、6 世紀代の朝鮮半島系資料が比較的多く見られる。6 世紀 に入ると、日本列島の人々も朝鮮半島系のカマド・甑を使う煮炊き文化を受け入れ、鍛冶技術も 飛躍することなどから朝鮮半島の人々の生活・道具などとの区別がつきにくくなる。その中にあっ て多くの 6 世紀代の朝鮮半島系資料が見られるということは、新たな渡来人の存在を考えざるを 得ない。その多くが往来かもしれないが、そのなかには移住・定着した人々もいたであろう。そ の波は 7 世紀にも継続していたものと推測される」(同書、51頁)

という。

吉備地域に移ると、亀田氏は朝鮮半島の出身地までも推測する。

「鉄器生産に関わる窪木薬師遺跡(鉄鋌、釜山福泉洞 21・22 号墳出土鉄鏃と類似する鉄鏃、鉄滓、 砥石出土カマド住居、5 世紀初)・随庵古墳(鍛冶具一式、朝鮮半島系竪穴式石室、鎹使用割竹 形木棺、5 世紀前半)、須恵器生産に関わる奥ヶ谷窯跡(洛東江下流域系、5 世紀初)、海上交通 の管理に関わると推測される菅生小学校裏山遺跡(加耶、新羅、百済、全羅道系土器、5 世紀前半) などがある。窪木薬師遺跡の東約 1.5km に位置する高塚遺跡では 5 世紀前半代のカマド住居が まとまって確認され、朝鮮半島系土器や鉄滓が出土し、窪木薬師遺跡で働く鉄器工人たちの生活 の場と推測される。窪木薬師遺跡の南約 800m の法蓮古墳群では高塚遺跡出土の吉備産初期須恵 器と類似するものが出土し、この古墳群が渡来人たちの墓地群であった可能性が推測される。こ れらの遺跡群は造山古墳を中心として半径約 5km 内に分布し、朝鮮半島系考古資料の多くは洛 東江下流域(加耶地域)と関わるものが多い。」(51頁)

とある。そして吉備地域においては、

「吉備の屯倉に関しては、大豪族蘇我氏、渡来系の白猪史胆津などが関わることが確 認できるが、のちの『備中国大税負死亡人帳』(739 年)によっても屯倉設置による新たな畿内 系渡来人の移住が推測できる。賀夜郡庭瀬郷三宅里の「忍海漢部真麻呂」、賀夜郡阿蘇郷宗部里 の「西漢人部麻呂」などである。日本最古の製鉄遺跡である千引カナクロ谷遺跡(6 世紀後半) はまさに賀夜郡阿蘇郷に位置している。阿蘇郷の西漢人部については千引カナクロ谷遺跡が調査 される以前からすでに直木孝次郎によって鉄生産との関わりが推測されていた(直木 1983)が、 まさに屯倉の設置に伴って新たな渡来人たちが大和王権から派遣され、吉備地域で新たな鉄生産 を開始したと考えられるのである。」(54頁)

とあり、555・556 年の白猪・児島屯倉設置に伴い、畿内から新たな渡来人が吉備に再配置され、新たな鉄生産、鉄器生産を行ったと推測できるという。

畿内の葛城の渡来人研究によると(奈良県立橿原考古学研究所 1996 ~ 2003、木下 2006、坂 2010、坂・青柳 2011、坂編 2016、」青柳・丸山 2017 など)、

「南郷遺跡群から南約 5km に五條猫塚 古墳がある。5 世紀前半の一辺約 30m の方墳で、鍛冶具のセットや蒙古鉢形眉庇付冑など朝鮮 半島と関わりの深いものを副葬している。  南郷遺跡群における渡来人の仕事は、鉄器、銀製品、金銅製品、ガラス製品、鹿角製品などの 生産とともに、馬飼育も推測されている。  

 渡来人関係の遺構・遺物としては、大壁建物、オンドル住居、慶尚南道・全羅道・忠清道系の 軟質系土器・陶質系土器、算盤玉形紡錘車、円筒形土製品など多くのものが検出されている。」(57頁)

 畿内では、陶邑に関しても、

「窯跡出土品の初期須恵器も当然であるが、工人たちの集落における生活に関わる軟質系土器や 円筒形土製品、仕事道具である陶製無文当て具などの出土によって渡来工人たちの故郷(おもに 加耶西部、全羅道地域)との関わりもより検討されるようになった。」(同書、57頁)

と指摘する。


さらに、亀田氏は大阪府蔀屋北遺跡を

「大阪府蔀屋北遺跡では5 世紀代の馬土坑が検出され、全羅道系の軟質系土器、移動式カマド、U字形カマド焚き口土製品 などによって、その周辺部の遺跡群も含め、馬飼育・牧 ・ 渡来人の関わりが想定されている。」(同書、57-58頁)

であり、全羅南道系の渡来人の来着を想定している。


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