2024年8月31日土曜日

「肥人」に関してーー愚説「コマ+ヒト」

 本稿の関心は「肥人」の読みである。「肥+人」の語構成であることは明解である。

「肥人」に関しては、古来から「コマ+ビト・クマ+ヒト・ヒ+ビト・コエ+ヒト・ヒ+ノ+ヒト・ウマ+ヒト」などの多様な読みが発表されてきたが、未だ定説を見ていない。

 偶見したのが、

柴田博子著「肥人についての再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』 2022年3月、第232集、221ー246頁

である。労作である。柴田氏は自らの結論を保留しているものの、研究史を辿る上で徹底的な調査を繰り広げている。

拙稿では新しい研究視点を提示するわけではない。小生は柴田氏以上の綿密な調査に取り組む研究環境にない上に、新資料を紹介する能力も持ち合わせていない。

 些細な点に過ぎないが、以下の点から拙考を開陳したい。

まず、静岡県浜松市の伊場遺跡から出土した木簡に記載された「肥人部牛麻呂」に注目したい(柴田、同書、314頁)。柴田氏の調査にあるように、「肥人」を「クマヒト・ヒビト」などと読み、肥人を九州南部肥国に居住した人間であるとか、あるいは「肥人が海人集団であり、九州西岸や九州南部、あるいは南島など、各地に拠点(居住地)をもっていた」(中村明蔵説、柴田、同書、314頁より引用)とするならば、この静岡県伊場遺跡の「肥人」も同様に考えるべきであろうか。九州南部の人を「肥人」とするならば、なぜ九州南部から静岡県に移住したという仮説を立てるしかない。

 ところで視点を換えて、「肥人」を取り上げたい。『令集解』賦役令辺遠国条古記に見る、

 「古記云、夷人雑類謂、毛人、肥人、阿麻弥人等類」

である。中央からの辺遠国に「毛人、肥人、阿麻弥人」が存在するという。

(これ以後の記事は、後日)


愚説は「肥人」を「コマ+ヒト」と読む。




 



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詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK030199000007
木簡番号21
本文・/○←人/○〈〉椋一□双□/○/□マ衣□〔縫ヵ〕屋∥○/委尓マ足結屋一/肥人マ牛麻呂椋一/委尓マ長椋二/語マ山麻呂椋一∥○/若倭マ小人屋一/若倭マ八百椋一/五十戸造麻久□椋二/宗何マ□□屋一∥○/語マ久支□屋一/同小麻呂椋一屋一/委尓マ干支鞨椋一/委尓マ酒人椋一屋一∥○/○駅評人/○語マ三山椋一/○人/□竹□語マ比古椋一∥○/軽マ軽マ足石椋一屋一/○/加□□〔毛江ヵ〕五十戸人/〈〉男椋一〈〉∥○/蘇可マ虎男椋一屋一/語マ小衣屋一椋一/語マ小君椋一∥○◇・/〈〉□〔屋ヵ〕/□マ□□椋一今□〔作ヵ〕/□□マ□□〔豆ヵ〕女屋一/○□□□∥○/〈〉/間人マ□/□〔石ヵ〕マ龍椋一/同□椋一/宗何マ□□椋一∥○/□□□〔人マヵ〕□□〔椋ヵ〕/同マ□□屋/石マ国□椋/大□〔伴ヵ〕マ足石椋一/敢石マ角椋一∥○/宗可マ□椋一/日下マ□木椋二今作/宗何マ□□椋一/宗□□□□□椋一∥○/□□/神人□□□/□木マ□椋一/□□□□椋□□〔屋ヵ〕∥○/加毛〈〉椋一/○/宗何マ伊□□椋/○/□□□∥○/○□□○□○〈〉/□〔丈ヵ〕/□□□□∥○◇
寸法(mm)(1165)
62
厚さ10
型式番号061
出典木研40-107頁-(1)(木簡黎明-(64)・木研30-199頁-(7)・伊場12-9頁-(21)・伊場4-21・伊場1-21)
文字説明表面「語部小君椋一」は削って書き直したもの。
形状上欠(折れ)、下削り、左二次的削り、右二次的削り。左右側面に切り込みあり、木簡を編み台に二次的に整形したもの。
樹種 
木取り 
遺跡名伊場遺跡
所在地静岡県浜松市東伊場・静岡県浜名郡可美村東若林
調査主体浜松市教育委員会
発掘次数6
遺構番号大溝〈OG地点Ⅴ層中位〉
地区名
内容分類文書・編み台
国郡郷里(遠江国敷智郡栗原駅〉)(遠江国敷智郡加毛江五十戸〉)
人名□部衣(縫)・委尓部足結・肥人部牛麻呂・委尓部長・語部山麻呂・若倭部小人・若倭部八百・五十戸造麻久・宗何部□□・語部久支□・語部小麻呂・委尓部干支鞨・委尓部酒人・語部三山・語部比古・軽部軽部足石・〈〉男・蘇可部虎男・語部小衣・語部小君・□部□□・□□部□(豆)女・間人部□・(石)部龍・(石)部□・宗何部□□・□(人部)□・□(人)部□□・石部国□・大(伴)部足石・敢石部角・宗可部□・日下部□木・宗何部□□・宗□□□□□・神人・□木部□・加毛〈〉・宗何部伊□□・(丈)
和暦 
西暦 
木簡説明「敷智郡屋椋帳」。上端折れ、下端削り、左右両辺二次的削り。編み台に二次的に整形している。左右両辺にはほぼ等間隔に切り込みが入れられる。表面の一段目一行目一文字目は、屋ないし椋の末尾にみえる「一」と理解してきたが、「人」であることが確認された。「駅評人」「加毛江五十戸人」などと同じく、敷智郡内の複数の集団の一つを示すのであろう。また、数カ所の「部」字を異体字の「マ」の字体に改めた。五〇名以上の人々がみえ、これほどの人々が屋ないし椋を所有する点はやや疑問である。数字はクラの数ではなく、番号の可能性を考慮する見方もあるが、「一」と釈読している文字は右下がりで記されており、あるいは、合点の可能性も皆無ではないと思われる。



 


 


 

2024年8月17日土曜日

新到俘囚

 『類聚国史』延暦 19 年(800)3 月 1 日条によると、

   「出雲国介従五位下石川朝臣清主言。俘囚等冬衣服、依例須 絹布混給 。而清主改承前  

   例、皆以上絹賜。又毎人給 乗田一町 。即使 富民佃之。新到俘囚六十餘人、寒節遠

   来、事須優賞 。因各給 絹一疋、綿一屯」

とある。

 この資料で注目されるのは「新到俘囚」である。「新」という語句に注目するならば、出雲国に記録に出現する以外に、出雲国に「俘囚」がぞくぞくと新たに移配されたと理解しても不自然ではない。

とすれば、出雲国に移配された俘囚の数は何名に達するのだろうか。



2024年8月16日金曜日

東国の渡来人ーー土生田純之説の紹介(増補)

東国において、その築造年代は不明であるが、土生田純之氏によると、「東三河、西遠江、北信、西毛、甲斐」などに積石塚古墳が存在するという。そしてその初見は5世紀半ばから後半だという(「東国の渡来人」『専修大学古代東アジアユーラシア研究センター年報』第1号、2015年3月、37-49頁)。
 「これら地域では極めて早い段階(5世紀後半)での竈付住居や須恵器の普及、殺牛馬儀礼の実施、殺牛馬儀礼の存在などをあげることができる」(44頁)を論拠として、さらに土生田氏による推定は、「在来倭人が欲する馬匹生産や製鉄技術を持った」渡来人たちが、
 「475年における百済の第一次滅亡とと混乱によって百済をはじめ加耶諸地域等から多くの渡来人が列島へ流入した」
という。
その具体的な事例として、土生田氏は群馬県高崎市剣崎長瀞西遺跡を取り上げる。遺跡の紹介は土生田氏にそれに委ねるとしても、その遺跡の特長は洛東江流域を故地とする馬具ー轡一式が着装された馬埋葬土坑だとする。しかも出土品には、垂飾付耳飾ー大加耶系、五世紀後半の洛東江中流域に系譜を持つ馬具などを確認できるとする。

 我が問題関心は、次にある。百済や加耶諸国に居住していた人々が朝鮮半島南部の洛東江流域から対馬経由で玄界灘を渡り、まずは北部九州のいずれかの地に渡来し、橋頭保を築いただろう。彼らが洛東江流域を故地とする馬具ー轡一式で着装された騎馬民族であったことである。
 このように書けば、多くの識者は江上波夫「騎馬民族国家説」を想起するだろうが、私はそうではない。多数の騎馬飼育や騎馬軍団による戦闘を考古学的論証できない限り、その江上説にしゃむに飛びつくつもりはない。故地のいでたちをする儀礼的な馬具ー轡一式にまたがる乗馬の風習にすぎず、故地の埋葬儀礼を守り続けた殺牛馬儀礼であり、故地からの食文化を維持するための韓式土器であっただろう。つまりオンドル式床暖房がそうであるように、渡来人らは故地の一連の文化をセットで日本に持ち込んだという通説に従う。
 しかしながら、渡来人の役割は在地の権力者の周辺で、朝鮮文化を特徴づけるテーマパークのような集落に住み、権力者が外出するパレードに、馬具で着飾った馬を引くことにあっただろう。




2024年8月4日日曜日

敦賀はグローバル港湾都市であった

 『日本霊異記』の記事に、

「諾楽(奈良)の左京」住人 楢磐島が大安寺の「商いの銭」30貫 借りて「越前都 魯鹿津(つるがつ)」

に旅したという。その敦賀港では、外来の物品が入手できるという。

大和三輪山信仰は朝鮮半島系須恵器生産者か

 亀田修一氏の研究によって、初めて知ったが、

「王権のもと陶邑窯の須恵器生産に関わる氏族として「大神氏」がよく取り上げられる(中村浩 1981『和泉陶邑窯の研究』柏書房 など)。そして坂本和俊(坂本和俊 1987「東国における古式須恵器研究の課題」千曲川水系古代文化研究所編『第 8 回三県シンポ ジウム 東国における古式須恵器をめぐる諸問題-第Ⅰ分冊-』北武蔵古代文化研究会・群馬県考 古学研究所・千曲川水系古代文化研究所)の指摘や近年の菱田哲郎などの検討により、各地の須恵 器生産地周辺に大和三輪山の神との関わりを推測させる神社が存在することが確認され、「部民 制の伴造-部民という関係を通して、三輪神祭祀が須恵器生産者に広まった」(菱田哲郎 2005「須恵器の生産者」上原真人・吉村武彦ほか編『列島の古代史 4 人と物の移動』岩波書 店)と考 えられている。」(『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報』第 4 号、2018 年 3 月、57頁)

亀田修一氏の渡来人研究紹介(福岡ー吉備ー畿内)

 亀田修一氏の研究はほぼ一貫して渡来人に的を絞ってきた。


* 「福岡平野地域(花田 2002、亀田 2004b、重藤ほか 2005、武末 2013 など)  福岡市西新町遺跡は、砂丘上に営まれた集落遺跡で、3、4 世紀の竪穴住居が約 500 棟(カマ ド住居・オンドル住居を含む)、多数の朝鮮半島系土器が確認され、加耶地域や百済・全羅道地 域からの渡来人の存在が推測されている。」(「古墳時代の渡来人 --西日本-」専修大学古代東ユーラシア研究センター年報 第 4 号 2018 年 3 月、43頁)

そして、亀田氏によると、

「隣接する 5 世紀前半~ 6 世紀末の吉武古墳群においても加耶系を中心と する陶質土器や鋳造鉄斧、鉄鐸、鉄滓などが出土し、この周辺地域での渡来人・その子孫たちに よる鉄器生産などの可能性が推測されている。」(同書、47頁)

を想定する。


次に、宗像地域である。

「宗像地域では 5 世紀代だけでなく、6 世紀代の朝鮮半島系資料が比較的多く見られる。6 世紀 に入ると、日本列島の人々も朝鮮半島系のカマド・甑を使う煮炊き文化を受け入れ、鍛冶技術も 飛躍することなどから朝鮮半島の人々の生活・道具などとの区別がつきにくくなる。その中にあっ て多くの 6 世紀代の朝鮮半島系資料が見られるということは、新たな渡来人の存在を考えざるを 得ない。その多くが往来かもしれないが、そのなかには移住・定着した人々もいたであろう。そ の波は 7 世紀にも継続していたものと推測される」(同書、51頁)

という。

吉備地域に移ると、亀田氏は朝鮮半島の出身地までも推測する。

「鉄器生産に関わる窪木薬師遺跡(鉄鋌、釜山福泉洞 21・22 号墳出土鉄鏃と類似する鉄鏃、鉄滓、 砥石出土カマド住居、5 世紀初)・随庵古墳(鍛冶具一式、朝鮮半島系竪穴式石室、鎹使用割竹 形木棺、5 世紀前半)、須恵器生産に関わる奥ヶ谷窯跡(洛東江下流域系、5 世紀初)、海上交通 の管理に関わると推測される菅生小学校裏山遺跡(加耶、新羅、百済、全羅道系土器、5 世紀前半) などがある。窪木薬師遺跡の東約 1.5km に位置する高塚遺跡では 5 世紀前半代のカマド住居が まとまって確認され、朝鮮半島系土器や鉄滓が出土し、窪木薬師遺跡で働く鉄器工人たちの生活 の場と推測される。窪木薬師遺跡の南約 800m の法蓮古墳群では高塚遺跡出土の吉備産初期須恵 器と類似するものが出土し、この古墳群が渡来人たちの墓地群であった可能性が推測される。こ れらの遺跡群は造山古墳を中心として半径約 5km 内に分布し、朝鮮半島系考古資料の多くは洛 東江下流域(加耶地域)と関わるものが多い。」(51頁)

とある。そして吉備地域においては、

「吉備の屯倉に関しては、大豪族蘇我氏、渡来系の白猪史胆津などが関わることが確 認できるが、のちの『備中国大税負死亡人帳』(739 年)によっても屯倉設置による新たな畿内 系渡来人の移住が推測できる。賀夜郡庭瀬郷三宅里の「忍海漢部真麻呂」、賀夜郡阿蘇郷宗部里 の「西漢人部麻呂」などである。日本最古の製鉄遺跡である千引カナクロ谷遺跡(6 世紀後半) はまさに賀夜郡阿蘇郷に位置している。阿蘇郷の西漢人部については千引カナクロ谷遺跡が調査 される以前からすでに直木孝次郎によって鉄生産との関わりが推測されていた(直木 1983)が、 まさに屯倉の設置に伴って新たな渡来人たちが大和王権から派遣され、吉備地域で新たな鉄生産 を開始したと考えられるのである。」(54頁)

とあり、555・556 年の白猪・児島屯倉設置に伴い、畿内から新たな渡来人が吉備に再配置され、新たな鉄生産、鉄器生産を行ったと推測できるという。

畿内の葛城の渡来人研究によると(奈良県立橿原考古学研究所 1996 ~ 2003、木下 2006、坂 2010、坂・青柳 2011、坂編 2016、」青柳・丸山 2017 など)、

「南郷遺跡群から南約 5km に五條猫塚 古墳がある。5 世紀前半の一辺約 30m の方墳で、鍛冶具のセットや蒙古鉢形眉庇付冑など朝鮮 半島と関わりの深いものを副葬している。  南郷遺跡群における渡来人の仕事は、鉄器、銀製品、金銅製品、ガラス製品、鹿角製品などの 生産とともに、馬飼育も推測されている。  

 渡来人関係の遺構・遺物としては、大壁建物、オンドル住居、慶尚南道・全羅道・忠清道系の 軟質系土器・陶質系土器、算盤玉形紡錘車、円筒形土製品など多くのものが検出されている。」(57頁)

 畿内では、陶邑に関しても、

「窯跡出土品の初期須恵器も当然であるが、工人たちの集落における生活に関わる軟質系土器や 円筒形土製品、仕事道具である陶製無文当て具などの出土によって渡来工人たちの故郷(おもに 加耶西部、全羅道地域)との関わりもより検討されるようになった。」(同書、57頁)

と指摘する。


さらに、亀田氏は大阪府蔀屋北遺跡を

「大阪府蔀屋北遺跡では5 世紀代の馬土坑が検出され、全羅道系の軟質系土器、移動式カマド、U字形カマド焚き口土製品 などによって、その周辺部の遺跡群も含め、馬飼育・牧 ・ 渡来人の関わりが想定されている。」(同書、57-58頁)

であり、全羅南道系の渡来人の来着を想定している。