2020年3月28日土曜日

555番歌  「君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友なしにして」


555番歌

太宰帥大伴卿 大弐丹比縣守卿の民部卿の遷任するに贈る歌 一首

「君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友なしにして」


(1)   大弐丹比縣守卿 

大弐は大宰府の首席次官。従四位下相当。549番歌にみる少弐は従五位下相当。丹比真人縣守は左大臣丹比嶋(宣化天皇の4世孫)の子。丹比県守は養老元年に遣唐押使として渡船して養老二年十月帰国し、養老四年九月には持節征夷将軍に任ぜられた。養老五年六月に中務卿となり、その時民部卿は太安麻呂であった。太安麻呂は養老七年七月七日 に没した。空席となった民部卿を誰が埋めたか続紀は記さない。県守の大宰大弐任官も記されていない。
 大宰大弐丹比県守の遷任について続日本紀には、天平元年二月十一日の条に、
  「以二大宰大弐正四位上多治比真人県守、左大弁正四位上石川朝臣石足、弾
  正尹従四位下大伴宿禰道足、権為参議」
とある。この時の台閣は、
  左大臣 長屋王
  大納言 多治比池守
  中納言 大伴旅人(太宰帥として大宰府在任中)
  同   藤原武智麻呂
  同   阿倍広庭
  参議  藤原房前
であった。天平元年2月11日に太宰大弐正四位上多治比真人縣守が権参議した翌月の3月に、従三位に昇進。天平3年に民部卿で参議。天平9年〈736〉6月23日に正三位中納言で没。70歳に従三位に昇進。天平3年に民部卿で参議。天平9年〈736〉6月23日に正三位中納言で没。70歳。

丹比真人縣守の子が郎女。郎女は大伴旅人の室、子が大伴家持。

    ちなみに、『続日本紀』天平15年三月乙巳条には、

「筑前国司言。新羅使薩◆(ニスイ+食)金序貞等来朝。於是。遣従五位下多治比真                              

人士作。外従五位下葛井連広成於筑前。検校供客之事

とあり、同じく四月甲午条には、

「検校新羅客使多治比真人土作等言。新羅使調改称土毛。書奥注物数、稽之旧例。大

失常礼、大政官処分。宜召水手已上。告以失礼之状、便即放却」

 とある。この書は新羅からの国書。

(2)民部卿

民部省の長官、正四位下相当。


「君がため醸みし待酒安の野に独りや飲まむ友なしにして」


(3)   醸(か)みし 

日本のお米協会のHPには

口噛みの酒は東南アジアから南太平洋を経て、南北アメリカ大陸にも広がった。中国の歴史書には、沿海州やモンゴルでもお米の口噛み酒を醸していたとの記述がある。そして、日本への伝来は縄文後期以降と考えられている。

なお、原料にはアワ・ヒエ・トウモロコシ・イモ等も使われた。アマゾン上流の先住民はつい数年前まで、キャッサバ(イモ類)を口噛みして酒を醸していた。但し今は口噛みではなく、サトウキビ汁の糖分を利用して手早く造られているそうだ。


また、菊水酒造のHPには、

  「ご飯を噛むと、米の中のデンプンが唾液に含まれるアミラーゼ(糖化酵素)の働きでブドウ糖に変わります。これを壷などに入れておくと、ここに空気中の野生酵母が入って来て発酵し、酒になります。これが『口噛み酒』の製法です。
縄文晩期から弥生時代(BC300AD300)に入ると水稲耕作は西日本から日本列島へと広がりをみせ、これまでの狩猟と採集の人々の食生活は稲作を中心とする農耕生活が主体の弥生文化が生まれました。

米からつくる酒も、人々の間で盛んに醸されて楽しむようになったでしょう。 ただ、『口噛み酒』は、一度に大量は造れません。ところが、弥生後期の3世紀に書かれた中国の史書『魏志倭人伝』の中で、「倭人(日本人)は父子男女の別無く、酒を良く飲む」とあります。これは葬儀のあとの飲食の場なので、人数も多く、酒の量も多かったはずです。 とすると、「米の酒」は、この頃はもう、口噛みより一歩進んだ技術で造られていたのではないか─── それを裏付けする文献があったのです。

次の奈良時代の初期に出た民族誌『播磨國風土記』に、「神棚に備えた御饌(みけ:米飯)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあります。これは麹カビで酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにあったのです。」



  (参考文献)

  山本紀夫『増補 づくりの民族誌』(八坂書房 2008)

  「沖縄における口噛みと神酒の民俗萩尾 俊章著 『沖縄県立博物館紀要』 沖縄県立博物館紀要 (32), 31-40, 2006. 沖縄県立博物館

  石毛直道(編) 『酒と飲酒の文化』 平凡社 1998


(4)  待酒 

待ち人のために準備する酒。「味飯を水に醸み成し我が待ちしかひはさねなし直にしあらねば」(万葉集、巻16巻、3810番歌)ともあり、「其御祖息長帯日売命、待ち酒を醸みて献らしめき」(古事記、中巻)ともある。


(5)   安の野

『日本書紀』神功皇后前紀には、

辛卯、至層増岐野、卽舉兵擊羽白熊鷲而滅之。謂左右曰「取得熊鷲、我心則安。」故號其處曰安也

とあり、地名由来伝説を記載している。


 また、『筑前国続風土記』巻10、「夜須郡」条に、

 「 安野

   東小田、四三嶋、鷹場三邑の間、七板原といふ広き平原あり、方一里あり、是則、安野也。」(貝原 益軒編、竹田 定直校訂、宝永6年:1709


とあるように、現在の福岡県朝倉郡夜須町に残る「 東小田、四三嶋、高(鷹)場」の地名がある。

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