周知の通り、大宰府の初見は 『日本書紀』推
古17年 (609) 4月4日 条の記 事に見る「筑
紫大宰」である。
〔ポイント1)
①7世紀後半頃建造の第I期,
② 8世紀の第1四半期頃建造の第II期,
③ 天慶4年 (941) の藤原純友の乱における焼亡のあとの再建と考えられる第III期
〔ポイント2〕
鏡山猛先生が推定したのでは「方4町の政庁域」であったが、考古学的事実から判明するのは,「 東西が約900m程であり, 一部南に凸型に張り出した府庁域」を推定すべきであるという。
〔ポイント3)
尺度として使用されているのは, 第II期政庁の創建期の尺,すなわち大宝令の大尺である。令の大尺の1尺は、35.3ないし35.5cm
〔ポイント3〕
大宰府の坊は面積8段, 1辺約100m
(ポイント4)
金田章裕先生の説
①「以上の推論からすれば, 大宰府の条坊プランは, 905年以後, 975年までの間に完成したこと
になる。従来から漠然と想定されていた時期に比べると, これは著しく遅い年次である。」(427頁〕」
②「(3) 大宰府の機構の変遷と条坊プラン これまでの検討によって, 左・右郭各22条・12坊の条坊プランは, 一辺約100mの坊を基本区画として成立していたこと, その完成時期が905~975年の間に推定されることが判明した。」〔428頁〕
③「大宰府の条坊プランが, 都城の条坊プランとは異なり, 条里プランと全く同様の機能を第一義とするものであったとした先の推定の傍証ともなろう。」〔433頁〕
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