律令時代のブランド品・望陀布は上総国望陀郡の特産品である。
『延喜式』主計式(上)には、調として布を挙げる国は、「伊賀・遠江・ 相模・ 武蔵・安房・上総・下総・常陸・飛驒・信濃・上野・ 下野・陸奥・出羽・越中・越後・佐渡・播磨・筑前・ 筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩」
そして庸として布を出 す国は、
「遠江・ 駿河・ 伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・ 常陸・飛驒・信濃・上野・下野・陸奥・出羽・越後・佐渡・隠岐・筑 前・肥後・豊後・日向・大隅」
である。調と庸の両方の負担を強いられていた国は黄色マーカーで記した。
しかも特徴的なのは、上総国では9種類、安房・上野両国の4種 類、武蔵・下総・下野の3か国3種類として、布の種類が明示されている。圧倒的に上総国が貢納する布の種類は多様である。
⇒緋細布20端、薄貲布114端(細63端、小堅51端)、紺望陀布50端、縹望陀布73端、縹細布380端、望陀貲布100端(長 八丈、広 一尺九寸)、貲細布148端、望陀布・細布・
⇒このうち
さて、『養老5年12月格』に記載された「賦役令1」(調絹絁条、『集解古記』所引)の条文は「誰から・何を・どれだけ・どの品質で・どんな例外をもって」徴収するかという徴税アルゴリズムを記述する。この条によると、
「調布、長肆条弐尺、闊弐尺肆寸、一丁輸弐丈捌尺、庸布、壱条肆尺、并肆丈弐尺、則以為端、常陸曝布、以三丁成両端、上総細布、長弐丈壱尺、以弐丁成端、望陀布、長壱丈肆尺、以三丁成端、其輸絁郷及上総常陸者、以二丁之庸成段」
とあり、常陸布と望陀布が特に珍重されていたと判明する。
『続日本紀』天平8年5月辛卯条の、
「五月
辛卯、長二丈八尺、闊一尺九寸。庸布,長一丈四尺,闊一尺九寸。為端貢之。常陸曝布、上總望陀細貲、安房細布及出絁鄉庸布,依舊貢之。」
平城京からはるかに離れた上総国の布が当時にあって高級ブランド化したのなぜか。
古来、この謎を探求した人は多かったに違いない。しかしながら、いまなお正解はないが、私の知る限り、忌部氏が関与したという説を耳にしたことがあるものの、その論証を目にしてはない。
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話の順序として、上総国望陀郡とはどこかを論じておかなくてはなるまい。この「望陀郡」の読みに関しては、「望陀郡(末宇太)」(『倭名類聚抄』東急本)とあり、「末宇太」は「まうた」と呼んでいたらしい。
概略的な理解を求めれば、上総国南西部は小櫃川水系、小糸川水系、および湊川など小糸川以南の 諸水系という3つの地域圏に大別できるだろう。これら3地域は律令時代の望陀郡・周准郡・天羽郡の3郡域とほぼ重なる。
律令時代の上総国望陀郡は、『延喜式』によると現在の千葉県袖ケ浦市・木更津市・君津市付近だと推測できる。
①望陀郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏8行目 望陀郡
①ー1巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 畔治[安波留]
①ー2巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 表可
①ー3巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 会戸
①ー4巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 飯富[於布]
①ー5巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 磐田
①-6巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・28丁表1行目 河曲
①ー7巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・28丁表1行目 鹿津[加津}}
とあり、望陀郡に7郷あった。それ以外にも。『延喜式』によると、上総国には、
②市原郡: 海部[阿万]・市原・ 江田[衣多]・ 湿津[宇留比豆]・ 山田[夜万多]・ 菓麻[久々万]
③海上郡 : 佐三・ 稲庭[伊奈無波]・ 大野・ 山田・ 倉橋[久良波之]・ 福良[布久良]・ 鳴穴・ 馬野[無乃万]⇒郡衙は市原市権現堂付近、養老川沿い。
④畔蒜郡 : 美々・ 小河[乎加波]・ 甘木[安万木]・ 新田・ 椅原・三衆[美毛呂]
⇒
⑤周淮郡 : 山家[也万以倍]・ 山名[也万奈]・ 額田・ 三直・丸田・湯坐・ 藤部・ 勝部・ 勝川
⑥埴生郡 : 埴生・ 埴石・小田・坂本・横栗・河家
⑦長柄郡 : 刑部・ 管見[豆々美]・ 車持・ 兼陀・ 柏原・ 谷部[波世倍]
⑧山辺郡 : 禾生・ 岡山・ 管屋・ 山口・高文・ 草野・ 武射
⑨武射郡 : 巨備・ 加毛・ 理倉・ 狎猥・長倉・ 畔代・ 片野・ 大蔵・ 新居・新屋・ 塡屋
⑩天羽郡: 三宅・ 讚岐・ 長津・ 雨霑
⑪夷灊郡: 雨霑・ 蘆道・ 荒田・ 長狭・ 白羽・ 余戸
などの郡が存在した。
この望陀郡に限定して考察すれば、
(上総国府:市原市村上・郡本地区・)⇒【馬来田駅(真里谷)】⇒【望陀郡家(矢那付近か)】⇒会戸—飯富—磐田—河曲(かはわ)—鹿津(小櫃川下流)⇒(東京湾)
の地理的位置を確かめておきたい。
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注:
「市原市上総国府推定地確認調査報告書(1)」1994年ほか
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望陀郡内の各関係地の比定は、次の通りである。
まず、比定が容易な場所から始めたい。
①ー3:会戸(えど): 現在の 木更津市小櫃川下流域一帯、「戸(と)」は、「狭い道、狭い通り道。水の通り道」(岩波古語辞典、923頁)であり、「会」とあることから、二つの川が合流する地域か」
①ー4 飯富[於布](おふ):現在の袖ヶ浦市飯富(おぶ)
①-5: 磐田:木更津市椿字石田
①-6: 河曲⇒「かはわ」(『続日本紀』神護景雲2年3月逸乙巳条参考)と読む
①ー7:鹿津[加津]⇒比定地の成案なし
①ー1: 畔治[安波留]⇒比定地の成案なし。「あわ+り」か。
①ー2: 表可⇒比定地の成案なし
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まず、万葉時代に、このあたり一帯を何と呼んでいたかは
「 宇麻具多」(『万葉集』第14巻・3382番歌ーー宇麻具多能 祢呂乃佐左葉能 都由思母能 奴礼弖和伎奈婆 汝者故布婆曽毛)
で知る。「宇麻具多」=「うまぐた」と読める。あわせて、木簡には
「皮職職職馬来田評」( 大土坑出土)
とあり、律令時代には「宇麻具多=馬来田」とも表記されていたと判明する。
この表記で注意しておかなくてはならないことは、『延喜式』巻6に、
*上総国 馬野[無乃万]
とある。このことからもともと「馬」に「Mu+の+ま」、つまり語頭にM音が備わっていたとみられる事実である。例えば、「梅」が「Mume」であると同一である。この冒頭の子音「M」は次第に鼻音化して消滅し、ついには「Ume」へと変化する。
ところで10世紀の初めに『倭名類聚抄』(東急本)に採録された
*望陀=末宇太
を手掛かりとすれば、この 「末宇太」の万葉仮名表記から「 ま・う・た(ma+u-ta)」と復元できることで、本来、冒頭に子音の「M」があったと判明する。
つぎに関心を寄せたいのは、たとえば、「かう(買うKau)→ こう(Kō」で傍証できるように、
*二重母音が au →長母音 ō
と変化することである。
したがって「馬来田⇒望陀」への変化は、「宇麻具多」=「うまぐた」を経て、
Muma+Ku+ta ⇒Uma+Ku+ta⇒U+Ma+Gu+ta (「宇麻具多」)⇒Ma+U+Ta (「末宇太」)⇒Mō+Ta(「望陀])⇒Bō+Ta⇒Bō+Da(「望陀])
の変化をたどったと考えるのが自然である。
したがって、「馬来田⇒望陀」への変遷は十分に理解できよう。我々の理解に誤りがなければ、
「小櫃川下流域南岸は,古墳の最も多い地域である。河口部の沖積地の砂丘列上には馬来田国造の首長系の古墳と思われる大型の古墳が認められる。高柳銚子塚古墳,長須賀丸山古墳,金鈴塚古墳,稲荷森古墳,祇園大塚古墳などがそれであろうか。」
という記述も、十分に納得できのは、その下流域である「望陀」地域こそが馬来田国造の本拠地であるからである。
<資料①>
市原郡: 海部[阿万]・市原・ 江田[衣多]・ 湿津[宇留比豆]・ 山田[夜万多]・ 菓麻[久々万]
海上郡 : 佐三・ 稲庭[伊奈無波]・ 大野・ 山田・ 倉橋[久良波之]・ 福良[布久良]・ 鳴穴・ 馬野[無乃万]
畔蒜郡 : 美々・ 小河[乎加波]・ 甘木[安万木]・ 新田・ 椅原・三衆[美毛呂]
周淮郡 : 山家[也万以倍]・ 山名[也万奈]・ 額田・ 三直・丸田・湯坐・ 藤部・ 勝部・ 勝川
埴生郡 : 埴生・ 埴石・小田・坂本・横栗・河家
長柄郡 : 刑部・ 管見[豆々美]・ 車持・ 兼陀・ 柏原・ 谷部[波世倍]
山辺郡 : 禾生・ 岡山・ 管屋・ 山口・高文・ 草野・ 武射
武射郡 : 巨備・ 加毛・ 理倉・ 狎猥・長倉・ 畔代・ 片野・ 大蔵・ 新居・新屋・ 塡屋
天羽郡: 三宅・ 讚岐・ 長津・ 雨霑
夷灊郡: 雨霑・ 蘆道・ 荒田・ 長狭・ 白羽・ 余戸
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巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表8行目 市原郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表9行目 海部[阿万]
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表9行目 市原
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表9行目 江田[衣多]
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表9行目 湿津[宇留比豆]
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁表9行目 山田[夜万多]
巻6・国郡部第12・上総国第85・市原郡・27丁裏1行目 菓麻[久々万]
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏2行目 海上郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏3行目 佐三
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏3行目 稲庭[伊奈無波]
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏3行目 大野
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏3行目 山田
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏3行目 倉橋[久良波之]
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏4行目 福良[布久良]
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏4行目 鳴穴
巻6・国郡部第12・上総国第85・海上郡・27丁裏4行目 馬野[無乃万]
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏5行目 畔蒜郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 美々
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 小河[乎加波]
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 甘木[安万木]
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏6行目 新田
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目 椅原
巻6・国郡部第12・上総国第85・畔蒜郡・27丁裏7行目 三衆[美毛呂]
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏8行目 望陀郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 畔治[安波留]
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 表可
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 会戸
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 飯富[於布]
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・27丁裏9行目 磐田
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・28丁表1行目 河曲
巻6・国郡部第12・上総国第85・望陀郡・28丁表1行目 鹿津[加津]
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表2行目 周淮郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表3行目 山家[也万以倍]
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表3行目 山名[也万奈]
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表3行目 額田
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表3行目 三直
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表4行目 丸田
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表4行目 湯坐
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表4行目 藤部
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表4行目 勝部
巻6・国郡部第12・上総国第85・周淮郡・28丁表4行目 勝川
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表5行目 埴生郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表6行目 埴生
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表6行目 埴石
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表6行目 小田
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表6行目 坂本
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表6行目 横栗
巻6・国郡部第12・上総国第85・埴生郡・28丁表7行目 河家
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表8行目 長柄郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表9行目 刑部
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表9行目 管見[豆々美]
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表9行目 車持
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表9行目 兼陀
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁表9行目 柏原
巻6・国郡部第12・上総国第85・長柄郡・28丁裏1行目 谷部[波世倍]
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏2行目 山辺郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏3行目 禾生
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏3行目 岡山
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏3行目 管屋
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏3行目 山口
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏3行目 高文
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏4行目 草野
巻6・国郡部第12・上総国第85・山辺郡・28丁裏4行目 武射
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏5行目 武射郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏6行目 巨備
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏6行目 加毛
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏6行目 理倉
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏6行目 狎猥
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏6行目 長倉
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏7行目 畔代
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏7行目 片野
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏7行目 大蔵
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏7行目 新居
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏7行目 新屋
巻6・国郡部第12・上総国第85・武射郡・28丁裏8行目 塡屋
巻6・国郡部第12・上総国第85・天羽郡・28丁裏9行目 天羽郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・天羽郡・29丁表1行目 三宅
巻6・国郡部第12・上総国第85・天羽郡・29丁表1行目 讚岐
巻6・国郡部第12・上総国第85・天羽郡・29丁表1行目 長津
巻6・国郡部第12・上総国第85・天羽郡・29丁表1行目 雨霑
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表2行目 夷灊郡
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表3行目 雨霑
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表3行目 蘆道
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表3行目 荒田
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表3行目 長狭
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表3行目 白羽
巻6・国郡部第12・上総国第85・夷灊郡・29丁表4行目 余戸
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<資料②>
+++++++++++++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
<資料④>
第四章「望陀布の生産と使途」では、望陀布の生産の実態と正倉院文書・『延喜式』か ら使途を明らかにした。大化前代においてツキとしての馬来田布の貢納は、ヤマト王権と 馬来田国造の朝貢・服属関係において特別な関係を象徴するものであった。馬来田国造は 菅生遺跡において屋代遺跡型の生産形態で織幅が広く品質の良い馬来田布を生産し、臨時 的に貢納したと考えられる。賦課基準・賦課量に関しては明確な基準はなかったらしい。 馬来田布を引き継いだ望陀布は、律令制の調として一般の調布と比較すると、幅が四寸 広く、紡織工程での労働量を勘案し、一丁当たりの賦課量の長さを半減するように規定さ れ、高品質の割に安いものであった。
望陀布は望陀郡司の指揮のもと、大化前代と同様 に屋代遺跡型の生産形態で生産され、郡家において法的擬制により「貢進 者」を記し、貢 納されたものと考えられる 正倉院文書によると、望陀布は上総国の東大寺の封物として進上され、東大寺写経所に おいては、交換財として使用されると同時に、主に経師・装潢・校生、主典・案主らの衣 料として使用されたことが明らかになった。また、『延喜式』によると、望陀布は官司運 営費として平時に新嘗祭・神今食・賀茂祭などの神の儀式・祭祀、臨時に践祚大嘗祭とい う祭祀、仁王会という仏の祭祀、唐の皇帝への献上品などに使用されていたことも明らか となった。上総国から望陀布は、封物の調として東大寺に貢納されると同時に、調として 大蔵省に貢納され、その使途は前述したようなものであり、律令制において第一に大嘗祭 と遣唐使という特定の需要を満たすものではなかったのである。 望陀布は大嘗祭や遣唐使という特定の需要をみたすものというのが通説であった。それ に対し、本論は望陀布の生産と正倉院文書・『延喜式』の使途を明らかにすることで、通 説の見直しを提起しつつ、律令制の調の再検討を示唆したものである。望陀布は調として 貢納されたが、①大蔵省に貢納されたもの、②東大寺の封戸として貢納されたものでは、 その使途が異なっていた。①は大化前代におけるツキとしての特別な関係を継承する使途 が窺えるが、②では窺えない。使途は儀式ではなく、交換財・衣料などであったのである。
第五章「上総細布の貢納と使途」では、正倉院に残された調庸銘文から貢納の実態と正 倉院文書からその使途を探った。上総細布の規格の特徴は、幅狭で品質の良いものである ことがわかった。郡家に集約された調庸布は、二段階の国司の検査を受けたとされ、第一 段階では、調庸を専当する国司が各郡に出向き、郡司を立ち会わせて、布の品質・数量を 点検した後、計帳歴名などの記載によって調庸墨書銘を書き入れ、調庸布の形式的な「貢 進者」を作り出したという。長狭郡と朝夷郡では、「国郡里戸主姓名年月日」は共通する ものの、養老元年の規定は、朝夷郡では両端に二丁を記載し、規定通りだが、長狭郡は二 丁を同時に記載している。これは、賦役令2調皆随近条の規定・養老元年の規定は遵守す るが、養老元年の規定の記載方法については、各郡の裁量に委ねられていたと考えられる。 そして、上総国周淮郡では、郡の段階で通常の調庸と東大寺の封物を分別していたことが わかった。 正倉院文書の「造物所作物帳」によると、興福寺西金堂に関わり、宝蓋・火炉机・香印 盤の則漆料、すなわち「麻布の漆貼り」に使用されたことが明らかになった。「東大寺写 経所間銭下帳」・「大般若経料銭用帳」から経師等の浄衣料であることも判明した。 上総細布が望陀布と異なる特徴の一つは、正倉院に残された調庸銘文から貢納の実態を 探れることである。したがって、本論の第四章で望陀布の生産と使途、第五章で上総細布 の貢納と使途が論じられ、総合すると、律令制の調の生産・貢納・使途の実態が具体的に 明らかになったと思われる。第四章では望陀布、第五章では上総細布というように東大寺 と房総の封物との関わりを探っている。
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