2026年2月11日水曜日

上総国の高麗尺使用(小林洋氏説の紹介と引用)

小沢 洋氏の高論「上総南西部における古墳終末期の様相」

は示唆に富む。

なお同論文364-365頁の注にも関心を払って、一読されるとよい。

私の観点からすれば、高麗尺を導入したのは誰が、いつ、どのようにしてであるが、慎重居士の考古学者はそれに言及することはない。


「内裏塚古墳群内における終末期古墳の築造企画には,一定の規則性を看取 することができるようである。その規則性とは,各古墳の墳丘規模が,最大規模の割見塚古墳に 対して6:5(亀塚),3:2(森山塚),2:1(野々間)といったような比分関係にあること, 各古墳とも二重周堀を有すると見られること,設計尺として高麗尺を使用していた蓋然性が高い ことなどである。因みに高麗尺の使用に関しては,終末期以前の段階まで遡る可能性がある。と いうのは,当古墳群内の6世紀代の大形前方後円墳の墳丘長を高麗尺に換算すると,いずれも完 数尺にほぼi整合する値が得られるからである。すなわち,九条塚古墳・稲荷山古墳は300尺(105 m),三条塚古墳は350尺(122.5m),古塚古墳は250尺(87.5m)にそれぞれ一致し,確認調査で 二重周堀の全形が判明した三条塚古墳では,内周溝全長159mが450尺に,外周溝全長193mが550 尺に対応することも注目される。  高麗尺の日本への伝来は6世紀中葉頃とされ,畿内では6世紀後半の大王陵に相当する見瀬丸                          山古墳・欽明陵古墳の計測値が高麗尺の完数に整合的値を示すことはすでに知られている。この ような点から見れば,内裏塚古墳群における上記のような数値の整合性は,あながち偶然の一致 によるものとはいいきれないだろう。しかし後期前方後円墳の設計尺については,なお他地域の 古墳を含めて十分な比較検討を重ねる必要があり,今後の課題としておきたい。」

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