以下の木簡が平城京で発見されている。
丹後国熊野郡私部郷
①丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升
②平城宮二条条間大路南側溝
③ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGAK58000003
⇒私部の設定は敏達天皇6年(577年、『日本書 紀 』)。その前年に敏達皇后となった額田部皇女(後の推古天皇)は蘇我系皇族であり、私部設定の背景には蘇我氏の強力なバックグランドを想定してよい(角林1989)
この角林説に依拠すれば、湯舟坂2号墳(6世紀末頃から7世紀初めまで円墳墓、京都府京丹後市久美浜町須田所在。須田古墳群の一基)の被葬者として蘇我系の私部であったという仮説を提示しておきたい
なお、古代丹後地方は日本海交易の要衝でありクロスロードに位置していた。その地域と朝鮮半島との間にヒトと文物の往来を想定してよい。
<参考文献>
金宇大「装飾付大刀からみた 湯舟坂2号墳被葬者の性格」『京都府立大学文化遺産叢書第33集 地域資源としての湯舟坂2号墳 』諫早 直人編、京都府立大学文学部歴史学科刊、2025年3月6日、41-56頁
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