2025年12月23日火曜日

壬生部に関するエッセイ

 1966年発表の平野邦雄先生の論文「子代と名代について 一一 宮廷領有民の諸形態」を再読した。なるほど森公章氏のようなデジタル研究者が作る論文とは大きく研究手法が異なり、アナログ型の発想である。

だが、やはり名論文は何回読み返しても、読むたびに新しい発想に導かれる。そこには思索があり、明確な古代日本像が描写されているからである。なによりも、天皇論への本質的な問いがあるのに対して、浅学菲才なのか、最近の論文の多くはデータに振り回されて、「だから何なの」と問い返したくなる思いに駆られる。

さて、「子代と名代」に関する先駆的研究ー津田左右吉・井上光貞・関晃・井上辰雄先生らの研究をいまさら研究史的展望をするまでもなく、多くの論者によって発表されているので、それらに譲る。今、「子代・名代」論に参戦するつもりはない。古代安房国を考えたときに、その一端に言及した。

さて、「壬生部」である。『日本書紀』推古15年2月庚辰(1日)条に

「壬生部を定む」

とある(仁徳紀7年条の「為大兄去来穂別皇子、定壬生部」は後世の潤色と考える)。

 この「壬生部」は古来、皇極紀「乳部此云美夫」とあることで、「美夫」と読まれてきた。

しかしながら、奇妙なのは『倭名類聚抄』東急本の古訓である。

*美濃国池田郡壬生郷「尓布」

*遠江国磐田郡壬生郷尓布」

*安房国長狭郡壬生郷「爾生」

*筑前国上座郡壬生郷「爾生」

ちなみに、宮内庁書陵部蔵『躬恒家集』写本(古写本系)の「他人歌部」の詞書に

にぶのたゞみね」(壬生忠岑、勅撰和歌集『古今和 歌集』真名序に登場)

の仮名書きがある。

 この表記の揺れに関しては、本居宣長も気づいていた。

 




 (1)豊後国 海部郡 丹生郷

表記:丹生

訓:なし

備考:越前国丹生郡には「爾不(にふ)」の訓が付くと注記

 (2)土佐国 安芸郡 丹生郷

表記:丹生

訓:尓布(にふ)(東急本)

備考:高山寺本・東急本ともに「丹生」と記す

■ (3)伊勢国 飯高郡 丹生郷

表記:丹生

訓:

高山寺本:迩布(にふ)

東急本:尓布(にふ)

備考:「出水銀」と注記(朱砂・水銀産地)




 

2025年12月22日月曜日

「辰砂交易ロード」の提唱ーー古代日中文物交流ルート(弥生時代)

ここで提唱したいのは「辰砂ロード」。弥生時代に見られた古代日中文物交流ルートである。
偶然とは面白い、例のGoogle-scholarで論文検索をしていたところ、HITしたのが、
*島津英彦「古代辰砂の故郷」『資源地質』59-1,73-76頁、2009年
であった。
 地質学・鉱物学を専門とする島津東京大学名誉教授の論文を見る機会は絶無であったが、この偶然は僥倖であった。詳細は当該論文に譲り、
*弥生時代後期の島根県西谷3号墳、鳥取県紙子谷門上谷1号墳、京都府大風呂南1号墳、福岡県春日立石遺跡の辰砂の同位体比較をしたところ、その原産地が
*中国秦嶺産地の水銀鉱床、青銅溝鉱山<(青铜沟矿山)>や公館地域一帯の辰砂
と同位体+8%x前後で一致するという。

とすると、この一致から想定される仮説が「辰砂交易ロード」である。

私の仮説は、この交易ロードの上に、中尾佐助先生らの照葉樹林文化論を重ね合わせ、この文化要素とともに、確証に乏しいけれども、辰砂も日本に流入したと考えている。