2025年12月31日水曜日

丹後国熊野郡の私部は蘇我系氏族

以下の木簡が平城京で発見されている。

 丹後国熊野郡私部郷

丹後国熊野郡私部郷高屋□□大贄《》納一斗五升

平城宮二条条間大路南側溝

ttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6ALGAK58000003


⇒私部の設定は敏達天皇6年(577年、『日本書 紀 』)。その前年に敏達皇后となった額田部皇女(後の推古天皇)は蘇我系皇族であり、私部設定の背景には蘇我氏の強力なバックグランドを想定してよい(角林1989)

この角林説に依拠すれば、湯舟坂2号墳(6世紀末頃から7世紀初めまで円墳墓、京都府京丹後市久美浜町須田所在。須田古墳群の一基)の被葬者として蘇我系の私部であったという仮説を提示しておきたい

なお、古代丹後地方は日本海交易の要衝でありクロスロードに位置していた。その地域と朝鮮半島との間にヒトと文物の往来を想定してよい。

<参考文献>

金宇大「装飾付大刀からみた 湯舟坂2号墳被葬者の性格」『京都府立大学文化遺産叢書第33集  地域資源としての湯舟坂2号墳 』諫早 直人編、京都府立大学文学部歴史学科刊、2025年3月6日、41-56頁

2025年12月30日火曜日

『新撰姓氏録』」(弘仁6年<(815>7月成立)中の漢系・百済系・高麗系・新羅系・任那系など諸蕃

 以下は、今後の考察のメモとして整理したに過ぎない。すべては、

佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館, 1962.7-2001.8、ーー本文篇

  • 考證篇 第1
  • 考證篇 第2
  • 考證篇 第3
  • 考證篇 第4
  • 考證篇 第5
  • 考證篇 第6
  • 研究篇
  • 索引・論考篇
  • 拾遺篇)



に依拠した。

(1)大和国 26氏族 

漢系11氏族 --真神宿禰・豊岡連・秦忌寸 桑原直・己智・三林公・長岡忌寸 山村忌寸・桜田造・朝妻造・額田村主、 

○ 百済系6氏族--綾連・和連・宇奴首・波多造 薦造・園人首、 

○ 高麗系6氏族--日置造・鳥井宿禰・栄井宿禰 ・吉井宿禰・和造・日置倉人

 ○ 新羅系1氏族--糸井造 

○ 任那系2氏族-■(僻の人偏を省く)田首・大伴造

(2)摂津国 29氏族 

 漠系13氏族--石占忌寸・槍前忌寸・蔵人・葦屋漢人 秦忌寸・秦人・志賀忌寸・大原史・上村主 竺志史・臺直・史戸・温義

⇒秦氏が港湾都市(難波津)を拠点に据え、技術者・工匠・財政・記録・アーカイブ・絵師などの活動拠点として重要。

 ○ 百済系9氏族--船連・広井連・林史・為奈部首 牟古首・原首・三野造・村主・勝 

⇒服飾・織物・儀礼・軍事技術などの職能集団として、難波宮運営を担当した可能性が大。

○ 高麗系3氏族---桑原首・日置造・高安漢人

⇒難波朝における軍事・警備などを担当したか。

 ○ 新羅系1 氏族--三宅連 

○ 任那系3氏族--豊津造・韓人・荒々公

⇒難波朝における港湾・交易・外交に担当したか。

(3)河内国諸蕃55氏族⇒河内国は古代の“技術と生産のハブ

 ○ 漠系の高丘宿禰・山田宿禰・山田連・山田造 長野連・志我関連・三宅史・大里史 秦宿禰・秦忌寸・高尾忌寸・秦人・秦公・秦姓・古志連・河原連・野上連・河原蔵人・ 河内画師・八戸史・高安造・板茂連・ 河内忌寸・火撫直・下目佐・高道連・ 常世連・春井連・河内造・武丘史・ 富宗忌寸・交野忌寸・葦原忌寸・刑部造・ 茨田勝・伯禰

 ○ 百済系--水海連・調日佐・河内連・佐良々連 錦部連・依羅連・山河連・岡原連・林連・ 呉服造・宇努造・飛鳥戸造・飛古市村主・上日佐 

○ 高麗系--大狛連・大狛連・島本

 ○ 新羅系--伏丸

⇒ポイント--「渡来系氏族の制度的統合のモデルケース」 

秦氏=財政・技術・工匠

百済系=織物・儀礼・軍事

高麗系=防衛

新羅系=局地的ネットワーク


(4)和泉国諸蕃20氏族

 ○ 漠系--秦忌寸・秦勝・古志連・池遠直・ 火撫直・乗楢直・楊侯史・上村主 蜂田薬師・蜂田薬師・凡人中家

 ○ 百済系--百済公・六人部連・錦部連・信太首取石造・葦屋村主・村主・衣縫

 ○ 新羅系の日根造

 

2025年12月23日火曜日

壬生部に関するエッセイ---古代日本における「壬生」は、音素「MiBu」に復元できない

 1966年発表の平野邦雄先生の論文「子代と名代について 一一 宮廷領有民の諸形態」を再読した。なるほど森公章氏のようなデジタル研究者が作る論文とは大きく研究手法が異なり、アナログ型の発想である。

だが、やはり名論文は何回読み返しても、読むたびに新しい発想に導かれる。そこには思索があり、明確な古代日本像が描写されているからである。なによりも、天皇論への本質的な問いがあるのに対して、浅学菲才なのか、最近の論文の多くはデータに振り回されて、「だから何なの」と問い返したくなる思いに駆られる。

さて、「子代と名代」に関する先駆的研究ー津田左右吉・井上光貞・関晃・井上辰雄先生らの研究をいまさら研究史的展望をするまでもなく、多くの論者によって発表されているので、それらに譲る。今、「子代・名代」論に参戦するつもりはない。古代安房国を考えたときに、その一端に言及したので、それに代えたい。

さて、「壬生部」である。『日本書紀』推古15年2月庚辰(1日)条に

「壬生部を定む」

とある(仁徳紀7年条の「為大兄去来穂別皇子、定壬生部」は後世の潤色と考える)。

 この「壬生部」は古来、皇極紀「乳部此云美夫」とあることで、「美夫Mibu+部」と読まれてきた。

しかしながら、不思議なのは『倭名類聚抄』東急本の古訓である。

*美濃国池田郡壬生郷「尓布」(:ńię + pu)

*遠江国磐田郡壬生郷尓布」

*安房国長狭郡壬生郷「爾生」( ńię + pu)

*筑前国上座郡壬生郷「爾生」

+++++++++

<注>

 Bernhard KarlgrenGrammata Serica Recensa)による漢字音「尓」の再建音

上古音(Archaic Chinese):*ńi
  ・中古音(Ancient Chinese):ńię

②カールグレンによる漢字音「布」の再建音

・上古音(Archaic Chinese):*pwo
 ・中古音(Ancient Chinese):pu

③*カールグレンによる漢字音「爾」の再建音

・上古音(Archaic Chinese):*ńie
  ・中古音(Ancient Chinese):ńię
    • <唐代中古音段階では硬口蓋鼻音 ń-(日母)と推定>

ちなみに、宮内庁書陵部蔵『躬恒家集』写本(古写本系)の「他人歌部」の詞書に

にふのたゞみね」(壬生忠岑、勅撰和歌集『古今和 歌集』真名序に登場)

の仮名書きがある。

++++++++++++

 この表記の揺れに関しては、本居宣長も気づいていたが、ここでは深入りしない。

さて、

(1)壬 = ȵim

Karlgren の中古音体系では:

日母 → ȵ-(硬口蓋化した鼻音)

侵韻 → -im

平声 → 無声調記号

①呉音 ニン

②漢音 ジン


そして「壬生」の「生」に関しては、つぎのように考えられる。

(2)

①カールグレンによる漢字音「生」の再建音

・上古音: *sĕŋ

 ・中古音: ṣaŋ

<中古音「生母(そり舌摩擦音)」> 

②「生、フ」(『類聚名義抄』観智院本)
⇒平安期の「フ」の音価は、 子音:/ɸ/(両唇摩擦音) 母音:/u/ → /ɸu/ に近い音)。したがって、上代音価は pu →中古音価/ɸ/の変化へと推移した)
⇒「粟生、安八不(あはふ)」(『倭名類聚抄』)に見るとおり、「フ」の原義は「植物が生い茂っている場所、荒れ地」である

********************


つまり律令時代において、「壬生」の漢字音は

   「壬生 」= ȵim+ ṣaŋ もしくはȵim+  /pu/ 

であったらしい。ここで注目したいのは、

*「壬」の語頭に音素「M」が見当たらない事である。

かも『倭名類聚抄』東急本の古訓に見る尓布」(:ńię + pu)は、 「壬生 」( ȵim+  /pu/ )との類同を想定できる。

このように推定すると、古代史の方々の従来の説明として、調音点(どこで作られる音か)が M と N とでは大きく異なるにもかかわらず、

*「通音」

という歴史学独特の非学問的用語で説明なさりがちである。つまり「N⇒M」への音変化が発生するという不可解な公式を導入するが、

*少なくとも9世紀段階まで、「壬」は「Mi]と読むことが可能ではない

という結論に逢着する。

再度、確かめたいのは、「壬生」はなぜ「Mi+ブ」と慣用的に読まれたのだろうか。その時期はいつだっただろうかと問い直したいが、その代案はない。


ところで、「壬生」が「ȵim+  /pu/ 」と再構できるならば、以下の仮説も提出できるように思う。

まず、「生=Pu」は「植物が生い茂っている場所、荒れ地」であると前述した。

すると、「壬」がȵim」であるならば、その意味は、

*「に=朱色の砂土」

であると解し、「壬生」の語義は

「朱色の砂土がある場所」

だと推測できる可能性を指摘したい。

****************

<参考情報>

先取りしないで、もう少し説明しておきたい。そもそも 調音点(どこで作られる音か)が大きく異なると理解してほしい。

図式で整理すれば、

M 両唇音(bilabial)

M 歯茎音(alveolar)

であり、要するに、調音点として M は唇、N は舌を活用して音が作られるので、五頭における両音は完全に別音素である。

つまり、尓布」(ńię + pu)と「 壬生 」(ȵim+ Pu )とは明白に類似し、音韻の上からは同一音素を持つと想定してもよい。

ただし、語頭以外で、たとえば後続音による同化(鼻音化)が発生するのは、

*MとNが鼻音(nasal)であり、しかも有声音(voiced)である

ので、

/N/ + /p/ → mp

/N/ + /b/ → mb

/N/ + /m/ → mm


とか、

/N/ + /t/ → nt

/N/ + /d/ → nd

/N/ + /s/ → ns

となるのは自然である。


**********************

「壬生」の漢字音が「 壬生 」(ȵim+ Pu )だと再構だとするなら

ば、思い浮かべるのは、「丹生」である。今、丹生(NiFu)は、全国に約 50か所以上 分布する。その共通点は「 朱砂(水銀)を産する、または産したと伝えられる土地。」である。

それゆえに『倭名類聚抄』東急本に、「丹生=爾不(にふ)」とあり、「壬生」と同一な漢字音であった。その意味は「朱色の砂土がある場所」であった。

 (1)7・国郡部第12・若狭国第96・遠敷郡・19丁裏2行目                丹生[爾布]

(2)9・国郡部第12・土佐国第124・安芸郡・9丁表4行目                  丹生[爾布]

(3)6・国郡部第12・伊勢国第74・飯高郡・12丁裏6行目                      丹生[爾布]

  高山寺本:迩布(にふ)   東急本:「尓布」(にふ)

刊本郡部:「爾不」(にふ)


裏付け資料がないだけに、この同一音が「壬生=丹生」説を提唱するつもりはない。しかしながら、無関係であるとは思えない。

これから先の考察は後日に発表する。


>>参考記事「丹生の水銀鉱山跡」(三重県立美術館)


 水銀の鉱石である辰砂(しんしゃ)は朱砂(しゅさ)とも言い、鮮やかな朱色を呈していることから、遙か昔の縄文時代から、顔料として使われてきた。
 その朱砂についての文献上の初見は『続日本紀』文武天皇2(698)年9月28日条で、伊勢国のほか、常陸・備前・伊予・日向国などからも献上されている。また、同じく『続日本紀』和銅6(713)年5月11日条には、水銀の献上のあったことが記されているが、それは伊勢国からのみもたらされたものであった。
 以降、水銀や朱砂は文献上、朱漆や朱墨の材料のほか、時には非常に高価な薬として用いられていたことが明らかとなる。また、仏像などの鍍金のためにも、多量の水銀が消費された。『東大寺要録』によると、大仏鍍金のための水銀は五万八千六百二十両。実に約2・2㌧もの量に及んでいる。これらの水銀には伊勢国以外からの分も含まれていたであろうが、他所からの産出記事は『続日本紀』文武天皇2年の記事以外になく、その大部分は、伊勢国飯高郡丹生郷、現在の三重県多気郡勢和村の丹生周辺から産出されたものであったと考えられている。


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<参考情報:丹生の分布>

Ⅰ. 近畿

■ 奈良県

奈良市 丹生町

五條市 西吉野町丹生

天理市 丹生町

■ 和歌山県

橋本市 丹生

九度山町 丹生川

高野町 丹生沢

田辺市 丹生ノ川


■ 滋賀県

米原市 丹生

長浜市 丹生

甲賀市 丹生

■ 京都府

福知山市 丹生

綾部市 丹生


Ⅱ. 東海・北陸

■ 三重県(追加)

松阪市 丹生寺町

伊賀市 丹生谷

■ 岐阜県

揖斐郡揖斐川町 丹生川

高山市 丹生川町(※有名な丹生川)

■ 福井県

越前町大字 丹生

⇒天平3年 (731)1月26日付越前国正税帳 (正倉院文書) ーー「丹生郡」

・越前国丹生郡丹生郷丹生里(『倭名類聚抄』)

「郡司主帳无位丹生直伊可豆智」

丹生郷遺跡(越前市丹生郷町)

⇒「越前国丹生郡荒□〔麻ヵ〕十斤太・○天平寶字六年十二月十三日」【 天平寶字六年762年)  https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAICJ63000451

若狭国遠敷(おにゅう)郡・丹生郷丹生里

⇒『倭名類聚抄』、 小浜市太良庄付近かこの太良荘に丹生神社の鎮座地。)

⇒遠敷郡は古くは「小丹生評」。「戊戌年」は文武天皇二年(六九八)。「若俠国小丹生評岡方里」の木簡出土。https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBQO29000172

⇒木簡「若狭国小丹生郡手巻里人□→・○「芝一斗○大根四把→」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJBPF29000107

⇒木簡「丁酉年/若佐国小丹〈〉生里/秦人□□□〔己ヵ〕○二斗∥」(丁酉年は文武元(六九七年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM32000124

⇒木簡「丁酉年若侠国小丹生評岡田里三家人三成・御調塩二斗」丁酉年は文武元年(六九七年)

⇒木簡「庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥」’(庚子の年は文武四年(七〇〇年))https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN34000110



Ⅲ. 関東

■ 群馬県

甘楽郡下仁田町 丹生

⇒上野国甘楽郡丹生郷丹生里(『倭名類聚抄』、富岡市上丹生・下丹生、旧甘楽郡丹生村)

■ 埼玉県

秩父市 丹生

(秩父鉱山帯に朱砂の痕跡)


Ⅳ. 中国

■ 広島県

三次市 丹生

庄原市 丹生

Ⅴ四国

■ 高知県

・土佐国安芸郡丹生郷丹生里(安芸市丹生谷(にゅうだに)」の小字あり)

■ 愛媛県

西条市 丹生

今治市 丹生


■ 熊本県

八代市 丹生

水俣市 丹生

■ 大分県

由布市 丹生

竹田市 丹生

・豊後国海部郡丹生郷丹生里(『倭名類聚抄』、大市佐賀関町丹生井もしく大分市坂ノ市中央部の丹生谷を比定すべきか)

■ 佐賀県

唐津市 丹生

■ 長崎県

雲仙市 丹生

Ⅵ. 東北・北海道

■ 山形県

新庄市 丹生

最上町 丹生

■ 福島県

会津若松市 丹生

(会津鉱山帯の朱砂痕跡)





 

2025年12月22日月曜日

「辰砂交易ロード」の提唱ーー古代日中文物交流ルート(弥生時代)

ここで提唱したいのは「辰砂ロード」。弥生時代に見られた古代日中文物交流ルートである。
偶然とは面白い、例のGoogle-scholarで論文検索をしていたところ、HITしたのが、
*島津英彦「古代辰砂の故郷」『資源地質』59-1,73-76頁、2009年
であった。
 地質学・鉱物学専門の島津東京大学名誉教授の論文を見る機会は絶無であったが、この偶然は僥倖であった。詳細は当該論文に譲り、
*弥生時代後期の島根県西谷3号墳、鳥取県紙子谷門上谷1号墳、京都府大風呂南1号墳、福岡県春日立石遺跡の辰砂の同位体比較をしたところ、その原産地が
*中国秦嶺産地の水銀鉱床、青銅溝鉱山<(青铜沟矿山)>や公館地域一帯の辰砂
と同位体+8%x前後で一致するという。

とすると、この一致から想定される仮説が「辰砂交易ロード」である。

私の仮説は、この交易ロードの上に、中尾佐助先生らの照葉樹林文化論を重ね合わせ、この文化要素とともに、確証に乏しいけれども、辰砂も日本に流入したと考えている。