2025年3月29日土曜日

讃岐の阿刀宿祢をスタートして「安都(雄足)」に関するエッセイ

 讃岐国西部の有力在地勢力であった佐伯直出身の空海の母方は、玄防や善疎らの高僧を輩出した阿刀宿祢である。

 そもそも阿刀氏の分布は讃岐に限らず大和・山城・摂津・和 泉・河内・讃岐・紀伊・越前に及んでいる。そのすべてが同族だと断定しがたいものの、『新撰姓氏録』や『先代旧事本紀』巻5 「天孫本紀」では、阿刀氏は饒速日命の子孫で、物部 (石上)氏の同族だという。

 『新撰姓氏録』 阿刀宿祢  石上同祖、 〔左京神別上〕 阿刀宿祢  石上朝臣同祖。饒速日命孫味鶴田命之後也 

〔山城国神別〕 阿刀連   同上 

〔山城国神別〕 阿刀連   饒速日命之後也  

〔摂津国神別〕 阿刀連   同上(采女臣同祖 〔和泉国神別〕 「天孫本紀」   (天照国照彦天火明櫛王饒速日尊)孫昧飯田命、阿刀連等。

  阿刀氏の本拠地は『和名抄』の河内国渋川郡跡部郷の地だと推定される。

しかも、次の記事に見る通り、

「従五位上上村主百済、改賜阿刀連。」(『続日本紀』慶雲元年2月乙亥<20日>条

とあり、「村主⁺百済」からも判別されるとおり、渡来系氏族である。

その名にレガシーがあるように、百済系渡来人であった可能性を認めるものの、その確証はない。

なお、この記事に「上村主」とあれば「下村主」も想定できるが、この点は後考を俟つ。


なお、「阿斗(桑市)」とか「安刀」とか、「安都」などで表記される「Ato」の語源に関する私案はない。

特に阿都雄足(造東大寺司主典)に関する考察は別に論ずるつもりである。


追伸)次の大柴氏の高論を紹介しておきたい。

大柴 清圓「 弘法大師の生誕地に関する一考察」『高野山大学密教文化研究所紀要』第36号、191-114頁


追伸)『「河内国渋川郡久宝寺村田畑植附帳」『新版八尾市史 近世史料編1』をみると、この一帯は稲作ではなく、木綿栽培であったと知る。そうであれば、古代はどのような農業であったのかと想定する。


追補)『延喜式』

 麻羽郷、大家郷、郡家郷、高階郷、安刀郷、山田郷、広瀬郷、余戸郷


とある「安刀郷」(所沢市山口か坂戸市北部)「安刀」(アト)と読むべきであるとすれば、ここにも阿刀氏が居住していたと考えても良いかもしない。


参考地図

前の園亮一「古代の川部」『』37ー50頁、特に39頁より転載

bunka55_4maenosono (1).pdf







<参考>

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AAICJ66001567
木簡番号7411
本文□□□□□□〔八位上勲十一ヵ〕等下村主浄道○/〈〉∥
寸法(mm) 
 
厚さ 
型式番号091
出典平城宮5-7411(城4-12上(189))
文字説明 
形状 
樹種 
木取り 
遺跡名平城宮宮域東南隅地区
Heijō Palace (Palace Precincts, Southeast Corner Sector)
所在地奈良県奈良市佐紀町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数32補
遺構番号SD4100
地区名6AAICJ66
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主浄道
和暦 
西暦 
遺構の年代観765-770
木簡説明 
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AAICJ66001567


URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD29000244
木簡番号4765
本文・家令下村主廣万呂・書吏河内画師屋万呂
寸法(mm)140
23
厚さ3
型式番号011
出典平城京3-4765(城24-19上(146))
文字説明 
形状上削り、下切り折り、左削り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
Heijō Capital (Left Capital, Second Row, Second Ward, Fifth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Northern Part)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数204
遺構番号SD5300
地区名6AFFJD29
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主廣万呂・河内画師屋万呂
和暦 
西暦 
遺構の年代観733-738
木簡説明上削り、下切り折り。左右削り。従三位の家政機関の家令と書吏と考えられる。但し、藤原麻呂家の書吏は六人部諸人とみられ、誰の家政機関の職員かは不詳。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFFJD29000244

詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFFJD29000721
木簡番号4523
本文・黒鯛四隻直六文○菁三把直二文右常料\○□・□〔進ヵ〕上櫃一合□請○/天平八年九月十五日下村主大魚∥
寸法(mm)(210)
(29)
厚さ5
型式番号081
出典平城京3-4523(城29-30下(336)・城29-12下(58))
文字説明 
形状四片接続、上欠(折れ)、下削り、左二次的割り、右削り。
樹種 
木取り 
遺跡名平城京左京二条二坊五坪二条大路濠状遺構(北)
Heijō Capital (Left Capital, Second Row, Second Ward, Fifth Block, Second Row Avenue, Moat-like Feature, Northern Part)
所在地奈良県奈良市法華寺町
調査主体奈良国立文化財研究所平城宮跡発掘調査部
Department of Heijō Palace Site Investigations, Nara National Research Institute for Cultural Properties
発掘次数204
遺構番号SD5300
地区名6AFFJD29
内容分類文書
国郡郷里 
人名下村主大魚
和暦天平8年9月15日
西暦736(年), 9(月), 15(日)
遺構の年代観733-738
木簡説明上折れ、下削り。左二次的割り、右削り。下村主大魚は、東市の交易進上木簡に署名する例がある(『木簡概報三〇』五頁上段)。この木簡も東市からの交易進上木簡であろう。
DOIhttp://doi.org/10.24484/mokkanko.6AFFJD29000721

■本文の語句分類




2025年3月27日木曜日

マゲ鹿ーー種子島の鹿

 種子島からの鹿皮がいつから太宰府に貢納されていたのかは不明である。


しかし天長元年の太政官符によると、種子島からの鹿皮100余領が貢納されていたとある(『類聚三代格』巻5、天長元年9月12日条)。

ここで特筆したいのは、種子島産のマゲ鹿の鹿皮と日本鹿のそれとが色合いなどを含めて異なる事である。

これまでの諸研究を見ると、十派一絡げに安易に考えていた節がある。


下記の論文を一読するだけで、その差を知るべきである。


ーーーーーーーー


マゲシカCervus nippon mageshimaeの遺伝的独自性についての再検討

ジャーナル オープンアクセス HTML

2023 年 28 巻 2 号 p. 425-436


2025年3月23日日曜日

大宰少弐補任リスト(右田文美作成)

 右田文美氏の労作に、

*「大宰少弐考:附大宰少弐補任俵」

がある。文献で確認できる慶雲元年(704)から文治2年(1186)までに補任された大宰少弐143名のリストアップである。管見にして、これ以上の人名を追加する資料を持たない。

まことに素晴らしい力編である。

田中篤子氏の労作

*「大宰帥・大宰大弐補任表」『東京女子大学・史論』26・27集、昭和48年

と併読することで概略を理解できる。



2025年3月11日火曜日

武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人が「金」姓

 「続日本紀」天平5年(733)6月条に

丁酉。武藏國埼玉郡新羅人徳師等男女五十三人。依請爲金姓。」

の記事がある。この趣旨は「武蔵国埼玉郡新羅人徳師ら男女53人を、要請に依りて金の姓を許した」という内容である。

この記事に注目する理由は、新羅人徳師等男女53人が姓を有していなかったことであり、その創氏にあたり朝鮮半島の王族名である「金」氏を自称したことである。

 つまり新羅人徳師等男女にとって自ら朝鮮半島に出自を持つ血縁集団(父系もしくは母系、あるいは双系)であることを対外的に標榜することが何らかの権益を確保し、さらには権利書であったのではないか。逆な見方をすれば、この時点で新羅人徳師らは経済的上昇を遂げて、郡衙・国衙を経て中央にまで要請が可能となる社会的認知度までも有するようになっていたと言えよう。

ここでは、「金氏」姓が日本人式姓ではなく、わざわざ朝鮮半島由来の新羅式姓であることによって、実感として連帯を意識し、共通の権益を獲得したと理解しておきたい。

なお、徳師ら53人が始祖からの共通の出自の観念を持ち、同族の構成員を記述的に網羅した家計記録の存在までの推定は史料的な限界ゆえに控えて、後日の課題としたい。


2025年3月3日月曜日

館野和己氏・今津勝紀氏・荒井秀規氏のご教示「調邸」に感謝

 長年、探し求めていた都の「調邸」、私の拙劣な表現で言えば、全国から貢納された品々をいったん納入する都の仮保管場所、あるいは調を運搬してきた者たちの宿舎(休憩所)、さらには政府の倉庫に納入・検品されるまでの間のモノ・ヒト・カネなどの情報収集場所の機能を持つ建築物が存在していたはずだと考えていた。

 さらには、毎年定期的に11月1日(畿内は10月1日)までに上京し、翌年の3月頃まで都に滞在した四度使(朝集使・計帳使・正税帳使・貢調使)の中で、京に自宅を有する国司のように都から地方へと派遣される者であれば問題はないだろうが、朝集使など四度使には雑掌2人(『駿河国正税帳』天平8年条の丈部大嶋 半布臣広麻呂など、『類聚三代格』巻6、公糧事など)が同行していたし、さらには伴人がいたはずである。彼ら地方在地の者たちにとって都での仮偶を要しただろう。

 眼が節穴の私には発見できなかった資料を、荒井氏が発掘している慧眼に改めて驚く。

「律令制下の交易と交通」『日本古代の交通・交流・情報』第2巻、吉川弘文堂、2016年、208頁

1)相模国調邸

2)諸国調宿所

等の語句を発掘している。長年にわたり史料群に対して眼光紙背に徹する態度で取り組んできた荒井氏の労を多としたい。

私の念頭には、朝鮮王朝時代において「京在所」や「留郷所」などの存在を知っていただけに誰が見ても古代日本においても同種の建築物がなくてはならないと言う予想をしていた。


ここまで書いてきて、ふと今津勝紀「税の貢進」『日本古代の交通・交流・情報』(1)所収(特に、75-76頁)を眺めていたところ、今津氏も同様な指摘をなさっている。しかも今津氏の導きで、そもそも最初の指摘は館野和己氏であったという

館野和己「相模国調邸と東大寺領東市荘」『日本古代の交通と社会』塙書房、1998年

→未見

だとも教わった。特記して感謝したい。


追記)山下剛司の下記の論文も公表されていることを付記しておく。

詳細

タイトル
[PDFあり]相模国調邸の「郡司代」「主帳代」に関する考察 / 山下剛司
あらすじ・抄録等
本稿では先行研究ではあまり取り上げられることの無かった「郡司代」「主帳代」という職について注目し、天平勝宝年間平城京の左京八条三坊に存在した相模国調邸の土地売買に関する文書から何故その様な職が設けられたのかを考察する。相模国調邸はその名の示すとおり、相模国から運京されてきた調を取り扱う施設である。調は平城京まで運搬しやすいように、相模国で現物から軽貨に代えられ、都で再び現物へと交換された。この実務を担っていたのが国司や郡司ではなく、他の国では見られない「郡司代」「主帳代」という職に就いていた者達であった。そこで、相模国とその調の特色を見ることによって、「郡司代」「主帳代」が置かれた理由を考察する。
その他のタイトル
Consideration of Sagaminokuninomitukinoyashiki's 'Gunjidai' and 'Shuchodai'
刊行日
2012-03-01
ページ
p. 195-202