2025年2月7日金曜日

律令時代の綿の価格(価格競争とブランド化と蓄財による富豪列伝)2025年3月30日更新

冒頭に特記しておきたいのは、史料発掘のプライオリティに関してである。以下の資料群にしても私の資料カードを寄せ集めたものに過ぎない。古びたカードで、早や書きのメモであるので、おそらく五味先生や黛先生、井上光貞先生など悠久の昔のご講義で伺ったにちがいない資料も入っているだろう。そして単行本や論文などで偶目した資料も入っている。私は史料に関して、これまでも、そしてこれからもプライオリティを主張する者ではなく、むしろ学界の共通財産として各自の観点から分析し、その史料的価値を検証することこそ重要だと考える。

 当然ながら、私は古代史学界に身を置いていないので、その流儀を知らない無知無恥の輩。したがって、迂闊にも礼を逸しているかもしれない。それは門外漢ゆえの非礼だとしてご寛容のほどを切に願う。いずれにせよ、最初の資料紹介者のプライオリティに敬意を払う次第である。


律令時代の綿の価格は、

 (1)天平宝字2年9月ごろ「坤宮官布施充当文」(14-54)

 石見調綿:70文 

 (2ー1)天平宝字4年(760)ごろ「造金堂所解案」(25―315)

  筑紫調(綿):67文<「造金堂所解案」(25―315)>

(2-2)天平宝字4年(760)ごろ

  筑紫調(綿):67文<「百屯筑紫調、直銭6貫7百文屯別67文」(4-467)>

(2-3)天平宝字4年ごろ「造金堂所解案」(25―315)

 因幡庸(綿):66文

 因幡商(綿):50文

但馬庸(綿):65文

(4)延暦14年8月8日<政事要略』巻53、交替雑事条>

「綿1屯直5束」

等が知られている。

 ここで私の観点からして重要なのは、この物産が富を蓄積することである。律令社会において主税の根幹にあったコメとは無縁であるだけに、それによって官の収奪から解放されたわりと自由な地帯にあった。目敏い人間たちがうまく走り回ったならば、富を蓄積する手段ともなりえた。いわば律令政治における目標が「公地公民」の普及・定着であったとするな らば、それは大多数の農民を平等社会へと導くはずであった。

しかしながら、商品化された物品が出現するにつれて、貨幣経済と結びつくだけに、次第に生産の多寡、そして製品の優劣、さらに生産技術の向上によって、ビジネスに才能を発揮する人間は富を蓄財していく一方で、窮乏生活を余儀なくされた、いわば格差社会を生み出す結果となった。

例えば、筑前国志摩の肥(コマ)公五百麿などは、米で、塩で、鉄で、そして綿、さらには交易などで利益を創出する傑出した商才の持ち主であったらしい。

以下で、各国に出現した富豪の列伝を紹介しつつ、律令時代の富豪による富の蓄積プロセスを紹介する。


(1)土佐國安藝郡

『続日本紀』天平慶雲元年6月庚午条

 庚子,紀伊國那賀郡大領-外正六位上-日置毘登-弟弓,稻一萬束,獻於當國國分寺。授外從五位下。土佐國安藝郡少領-外從六位下-凡直-伊賀麿,稻二萬束,牛六十頭,獻於西大寺。授外從五位上。


(2)武蔵国

1)神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)入間郡の大伴部直赤男(あたえあかお)は、奈良西大寺(さいだいじ)に商布一五〇〇端、稲七万四〇〇〇束、墾田四〇町歩、林六〇町歩という巨額な物資と土地を寄進し、没後の宝亀(ほうき)八年(七七七)六月に外従五位下を追贈されている(『続日本紀』)。

2)同じ神護景雲三年には埼玉郡の私部(さきいべ)浜人・広成父子も西大寺に布一五〇〇疋、稲六万束を寄進し、従五位上に叙せられたという(「私部氏系図」)。

3)また九世紀の例では、男衾郡(おぶすまぐん)大領外従八位上壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)の富強ぶりが注目される。福正は承和(じょうわ)八年(八四一)に子息二人が納入すべき調庸を生涯分全額前納した。さらに四年後の同十二年には、先に神火(雷)で焼失した武蔵国分寺の七層塔を独力で再建し寄進しており、その財力の巨大ぶりを伝えている。
ちなみに、福正が前納した調庸の額を、承和八年五月七日付の太政官符(だじょうかんぶ)(『類聚三代格』)でみると、壬生吉志継成(年一九歳)の調庸料の布四〇端二丈一尺・中男作物の紙八〇張、壬生吉志真成(年一三歳)の調庸料の布四〇端二丈一尺・中男作物の紙一六〇張と莫大(ばくだい)な量であった。

これによって平安初期における武蔵国の調庸輸納の具体的な実施状況や数量を窺(うかが)うことができる。こうした富力をさらに裏づけるものとして、現在発掘中の大里郡江南町の大規模な寺院跡である「寺内古代寺院跡」は壬生吉志氏との関連があるのではないかと言われている(「寺内古代寺院跡資料」)。

<以上、『北方市史』通史編、北本市史| 北本デジタルアーカイブズからの転載>



まず、承和5年には、綿1屯は直稲8束とある(『続日本後紀』承和5年9月己巳条)。



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