2025年1月19日日曜日

出雲国漆治郷犬上里辛人部近女について

 *出雲国大税賑給歴名帳に「漆治郷犬上里辛人部近女」とある。

 最新の本文校訂結果を盛り込んだ『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』(島根県古代文化センター編、八木書店、2023年刊)を尊重して、私見として

漆治郷

と定めたい。『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』補注524の教えによると、現在でも

*島根県出雲市直江町小字漆治

の小字名がある。したがって、この付近に漆治郷犬上里の存在を推定してよいだろう。

 本稿の関心は、

*出雲国大税賑給歴名帳「漆治郷犬上里辛人部近女」

の「辛人部」にある。結論から言えば、この「辛」をKaraと読み、「韓」と同一漢字音だと想定したい。したがって、このページ「漆治郷犬上里」に居住する渡来系女性(    (韓人=辛人)「近女」の名前の記載があったという仮説に想到する。

 管見によれば、この「女」は一般名詞であると理解しても奇妙ではないだろう。そうであれば、残りの一字「近」を「キン」もしくは「コン」の読みが許されれば、この漢字音を「金」と読み替えて、「金+女」だと解釈したい。つまり「金(氏)の女(むすめ or 女性)」だと。当然ながら傍証はなく、あるのは「同一漢字音」による連想であることを残念に思う。

 朝鮮半島では、「姓氏の『姓』+女」という表記法が存在していたからである。『朝鮮金石総覧』(朝鮮総督府、大正8年)に、そのを見る。


⇒「出雲国大税賑給歴名帳」は、天平11年(739)に編纂された人名帖。出雲郡・神門郡の一部を記録。「正倉院文書」正集巻31~33、塵芥巻1にある、『大日本古文書 編年文書』 に翻字、『正倉院古文書影印集成』(八木書店)に影印、、『松江市史 資料編3古代・中世Ⅰ』(2013)に収録


この写真の出典は、Yahoo地図。



2025年1月17日金曜日

移配エミシ集団に関する平野修論文の存在を見落としていた事のお詫び

 この数年、移配エミシ集団の研究を進めてきた私であったが、全く迂闊にして不勉強のそしりを免れないが、下記の平野修論文の存在を見落としていた事のお詫び

  • 平野 修. 出土文字資料からみた移配エミシ集団の一様相-帝京大学八王子キャンパス構内遺跡群を事例に-. 帝京大学文化財研究所研究報告. 2020. 19. 347-361
  • 古代の塩生産と流通からみた移配エミシの役割-甲斐と駿河における予察-. 山梨県考古学協会誌. 2020. 27. 45-54
  • 平野 修. 古代東国牧再考-牛馬飼育における「塩泉」利用の視点から-. 山梨県考古学協会誌. 2023. 30. 41-48
  • 平野修. コラム 移住した蝦夷(エミシ)はどこに居たのか. 山梨県立博物館秋期企画展 文字が語る古代甲斐国 展示図録. 2018. 49-50
  • 平野修. 武蔵と甲斐における俘囚・夷俘痕跡. 日本学術振興会科学研究費補助金研究成果公開シンポジウム「俘囚・夷俘」とよばれたエミシの移配と東国社会資料集. 2017. 41-80
  • 平野修. 東北系土師器を焼いた焼成遺構-東京都多摩市竜ヶ峰遺跡検出SK1土坑の再検討-. 東京考古. 2016. 34. 35-52
  • 平野修. 日本古代俘囚の移配に関する考古学的検討. 山梨県考古学協会誌. 2015. 23. 19-34
  • 平野修. 平安時代武蔵国における俘囚の土器. 山梨文化財研究所報. 2014. 55. 2-4
  • 平野修. 東京都多摩市上っ原〈うわっぱら〉遺跡(多摩市?1遺跡)出土の東北系土師器について. 東京考古. 2013. 31. 67-82
  • 平野修. 考古学からみた律令制下の東国内における技能・技術交流. 帝京大学山梨文化財研究所研究報告. 2011. 15. 15. 109-126

この平野修による先行研究を学んだのは、植月学・覚張隆史「百々遺跡と古代の牛馬利用」『

モノ・構造・社会の考古学 : 今福利恵博士追悼論文集』今福利恵博士追悼論文集刊行委員会編.、 今福利恵博士追悼論文集刊行委員会、 2022年、433-444頁であった。

まず百々遺跡とは、
山梨県南アルプス市百々遺跡は甲府盆地西部の御勅使川扇状地中央部に位置する平安時代を中心とする大規模 集落遺跡である。遺跡は南北約840m、東西推定2500mの範囲に広がる。平安期の住居跡は251軒が確認された(今 福2004b)。遺跡の存続期間はより幅広く、9世紀初頭に始まり10世紀頃をピークに中世鎌倉期からおよそ15世 紀頃までの遺物が確認されている(今福2004b, c)」(433頁)
であるという。
そこに発掘された出土遺物から、植月学・覚張隆史の見解は次の通りである。
百々遺跡において死牛馬の処理に当たったのはどのような人々だったのか。平野(2015、2017)は東北地方と の関連を窺わせる遺構(長煙道型カマド)、遺物(東北系土器)の検討により、東北地方より東国に移配された「俘 囚」や「夷俘」と呼ばれた人々の存在を明らかにしている。百々遺跡は山梨県内で長煙道型カマドがもっとも高 率で検出された遺跡であり、「9世紀代に東北の38年戦争が起因として甲斐国内へ移配された俘囚の居住地の一 つであった可能性は極めて高い」とされている(平野2015: 29)。加えて、磨痕石よる皮革加工の可能性が想定 された先述の東京都落川・一の宮遺跡では9世紀第3四半期と10世紀第1四半期に高い率で長煙道型カマドが 検出された(平野2017)。骨髄利用の可能性を指摘した多摩市上っ原遺跡のウシ遺体出土竪穴建物もやはり長煙 道型カマドであり、隣接する竜ヶ峰遺跡も含めて土師器は東北系が主体を占めるという(平野2017)。上っ原遺 跡では甲斐型坏も共伴しており、馬牛生産という共通性もふまえて「飼養技能を持った彼らを、武蔵・甲斐両国 国司がそのつながりのなかで自由に再移配させていた状況も想定される」(平野2015: 31)という興味深い見解 も示されている。また、その後両遺跡の出土墨書土器の再検討を踏まえて「牛馬の扱いに慣れたエミシが甲斐国 から再移配された集団」とも推測された(平野2020: 359)。  平野が提起する甲斐と武蔵における俘囚と牛馬との関連性は説得力があり、筆者も基本的には同意する。」(442頁)

とある。

この平野説を承認する私には、日本全国において
「長煙道型カマド」を発見するに、考古学関係者なお力をお借りしたい。

「蝦夷=エゾは東北」という固定観念があったために、特に西日本において蝦夷との関係を前提として発掘資料の評価がなされなかったのではないかと予想される。

2025年1月15日水曜日

日向国韓家郷 ーー推定約1000人の渡来系住民の居住地

 (1)韓家郷

『倭名類聚抄』にある日向国児湯郡内の八つの郷を列挙する。その一つに、

*「韓家郷」

がある。念のために、残りの7つの郷名を挙げておこう

①穂北郷

②大垣郷

③三宅郷

④覩唹唹

⑤三納郷

⑥平群郷

⑦都野郷


 今、残りの郷名は後回しにして、「韓家」郷に注目したい。この韓家郷は「カラ+や+こほり(Köföri)」もしくは「カラ+いえ+こほり(Köföri)」と読まれてきた。

『倭名類聚抄』には、

1,筑前国宗像郡辛家郷

⇒『倭名類聚抄』宗像郡には「秋・怡土・荒自・野坂・荒木・海部・席内・深 田・蓑生・辛家・小荒・大荒・津九郷」の14郷がある。

⇒⇒辛家郷は「奴山番田遺跡:Ⅰ区の奈良時代の遺物を含む溝が検出された。倭名抄の辛家郷内にあたる。」(花田勝広 「宗像地域の古代史と遺跡概説」むなかた電子博物館紀要 第2号、2010年4月1日、90頁。 福岡県福津市奴山所在

2,上野国多胡郡辛科

『和名類聚抄』には、上野国多胡郡辛科郷の訓は「加良之奈」(カラ+シナ)  ⇒『続日本紀』上野国甘良郡韓級郷の「韓級(kara+シナ)」の転化が「辛科」。「辛」もしくは「甘良(カラ)」郡は朝鮮半島南部にあった「加羅」か。

等の地名があり、「韓=辛」(から)と同一漢字読みを許容していただけるだろう。

したがって、「韓家郷」は朝鮮半島からの渡来人の居住地であったと考えてよいと推定する。人口学者によって、正倉院に残存する諸戸籍関係資料を基に算出した1戸の人数は約20人、1郷は50戸であるので、人口は約1000人と推計される。

したがって、日向国児湯郡韓家郷一帯に渡来系住民約1000人の居住地が存在していたのではないかという仮説を提出したい。むろん条件次第で、その数は増減するはずである。

可能であれば、その考古学的痕跡を探したい。なにしろ微力ゆえに、博雅の士の教えを受けたい。


2025年1月13日月曜日

『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』(島根県古代文化センター編、八木書店、2023年刊)を読む(第2稿)

(1) 『出雲国風土記ー校訂・注釈篇』(島根県古代文化センター編、八木書店、2023年刊)の上梓を心からお祝い申し上げたい。本書の企画は島根県古代文化研究センター設立30周年記念事業の一環であったそうだ。その事前調査研究調査作業は平成26年(2014)から令和2(2020)まで6年間継続した。島根県古代文化センター総出で取り組んだ研究成果の一つが本書である。周年事業の企画立案から予算措置、特に長期間にわたり、古代文化センターにおいて所員すべてを統率したリーダーはどなたか未記載であるが、そうした大きな「縁の下の力持ち」役を果たした方に深甚の謝意を表したい。察するに、県庁内における稟議書を通すために、多大なエネルギーを費やされただろう。とかく文化関係予算配分には、県庁における「内なる敵対勢力」の強硬な抵抗にあったはずである。端的言えば、「なぜ、今なのか?」というのが常套句。敬服する次第である、それに戦い勝ったリーダーに。

(2)まず、佐藤信「風土記の編纂と『出雲風土記』成立」は佐藤氏の力量と知識をもってすれば、奇妙なほどに軽い読み物となっている。序文として執筆なさったに違いない。

無益な憶測は控えなくてはならないが、佐藤氏の力の入れ方の差が出たものに違いない。したがって、本エッセイを論評の対象から除外しても佐藤氏は了となさるだろう。

(3)次に中身の軽い論は、山村桃子「『出雲国風土記』の神話的性格」。山村氏のアカディミック背景は何かを知らないが、それだけに主軸となる戦略的ツールがないだけに、すべての論点が漠然としている。その一例をあげれば、論文全体を通覧しても、出雲神話が首尾一貫した体系性を有したstoryであったかなのか、山村氏が強調する断片でしかなかったか判然としないのは、惜しい。だからこそ神話的世界観(コスモロジー)を描写できないのも当然である。個々のAgendaに論証を加えているものの、では出雲神話全体を問われたときに、回答に窮するはずである。このように書けば、鋭利な山村氏の予想される反論は、本論は『出雲国風土記』に視点を限定した考察であるので、記紀神話など総体をカバーしてはないという点であろう。もし仮にそうであれば、やはり本論の冒頭で、事前説明をしておくべきだった。それがないだけに、山村氏の念頭にいかなる分析手法と神話的世界が存在しているか不明なままで考察がなされれおり、斬新な結論が見当たらないばかりでなく、本論が学界に議論を噴出させる新説も提出されていない。例えば、「天下造らしし神」(飯石郡条)とは何かを論じることがない。つまり出雲国において宇宙起源神話=世界創造神話がいかに語られていたかに関する山村説がない。

 この点、加藤義成氏の広い視野を踏まえることも必要だっただろうし、大林太良氏や吉田敦彦氏・伊藤清司氏・松村一男氏などの神話学研究にもう少しアクセスしても良かったのではないだろうか。

なお、お望みであれば、本論の個々に関する論評は山村氏に対して個別に申し上げたい。

(4)力作は、荒井秀規氏「史料としての『出雲国風土記』」であり、高橋周「『出雲国風土記』の写本と写本系統」である。この2編は読みがいがある。


(5)本論評の核心は、同書の「注釈」にある。補注の1-1001(417-621頁)全体を、私の手許のノートと照合しながら精読させていただいた。その結果、二三の疑問の箇所を発見するにいたったので、それを本欄で公表したい。



(この稿、つづく)

r 

2025年1月12日日曜日

貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

「因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃 」

この記事では、貞観5年とあるのみで、その日時は未記載である。したがって、台風シーズンなどの自然災害なのか、それとも船内の偶発もしくは故意による事故が発生したのかを類推できないのを残念に思う。

 文中の「荒坂浜」は未詳。常識的に「波の荒い浜」と理解してよいだろう。仮にそうであれば、なぜ、この浜のみを「波の荒い浜」と呼称するのかに対して、回答できない。愚見によれば、「アラ+浜」と分析され、「アラ」は朝鮮半島南部に存在した「安羅」に由来すると考えている。ちなみに鳥取市福部町湯山に位置する湯山6号墳は大谷山先端部にある直径13m、高さ1mの5世紀初頭の円墳であるが、小札鋲留眉庇付冑が出土したことで著名である。この鋲留技法や鍛造技術は、朝鮮半島からの伝製品か、朝鮮半島からの渡来系技術者が作製したか不明であるが、いずれにせよ朝鮮半島南部に存在した安羅地域との関連を予測させる。後考を俟つ。

因幡国府(鳥取市国府町中郷)に着任した、時の国守は藤原有貞(?ー貞観15年<873>3月26日>

因幡国庁跡 /とっとり文化財ナビ /とりネット /鳥取県公式ホームページ

「来着」(漂着?)したのは「新羅57人」乗船の中型サイズの朝鮮船か。ここで注目すべきは「略似商人」の文言。


新羅」五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮」

この文言を理解する為には、

「太政官符

 応領新羅人交関物事 

 右被大納言正三位兼行左近衛大將民部卿淸原真人夏野宣偁、如聞、愚闇人民傾覆櫃速、踊貴競買、物是非可鞱奉遣弊則家資殆罄、耽外土之声聞、蔑境内之貴物、是実不加捉搦所致之弊、 宜下知大宰府厳施禁制、勿令輙商人来着、船上雑物一色已上、簡定適用之物、附駅進上、不適之色、府官検察、遍令交易、 其直貴賎、一依估價、若有違犯者、殊処重科、莫従寛典、 天長八年九月七日 」(『類聚三代格』巻18、天長八年<831>九月七日、官符)

を念頭において当該文を理解しても良いはずである。つまり「新羅人交関」は新羅商人の日本列島来航を認めたうえで、日本人商人との交易を許可しているからである。ただし、大宰府において「適用之物」は官に納入させ、それ以外の物は民間マーケットで交易しても良いと命令している。

 とすれば、本資料において「略似商人」と特記して、さらに「勅給程粮、放却本蕃」とまで明記している背景には、漂着した新羅人57人は商人であるので、彼らが持参した商品との「交易」を終えたならば、規定に従って「勅給程粮」した後、「放却」(大宰府に通告することなく、現地から「本蕃」、つまり「本の蕃国である新羅国」に帰国するように命令した)という含意があると理解しても、あながち不自然ではないだろう。

  1. 因幡国府は法美郡稲葉郷(現国府町中郷)に設置、郡衙跡は気多郡衙(現気高町)・八上郡衙(現郡家町)に配定されたので、いずれかを経由して荒浜から因幡国府へと新羅人商人漂着の知らせが伝わっただろう。

写真は、因幡国府跡。鳥取県庁HPからの転載

新羅系渡来人が地震復興に動員された事例。<歯車状文軒丸瓦(多賀城跡政庁第4期)と新羅系渡来人>

新羅系渡来人が地震復興に動員された事例。

不勉強であると笑いものになるのを覚悟しつつ、下記の資料で知った事実である。

 ②「多賀城政庁第Ⅳ期の軒瓦と新羅系瓦」  矢内 雅之   多賀城政庁第Ⅳ期の軒丸瓦に出現する宝相花文と呼ばれる文様は、 貞観11年(869)の地震からの復興に際して派遣された新羅人が伝 えたものと考えられています。 今回は第Ⅳ期の瓦の文様と技法を改め て検討し、その生産の実態に迫っていきたいと思います。(宮城県多賀城跡調査研究所 令和5年度 多賀城講座 開催日 第1回:11 月4日 ( 土 ) 、第1回:午後1時 30 分~午後3時 45 分、場所  東北歴史博物館3階講堂、 定員 各回 280 名(事前申込み・先着順) ※講座ごとに受講可能。 参加費 受講無料 

 第1回 11月4日(土)

 ①「製鉄技術導入-陸奥南部-」  鈴木 貴生   古代の陸奥南部では、製鉄が盛んにおこなわれていました。 今回は、製鉄技術導入期の製鉄炉にはどのようなものがあった のか、その系譜と導入の背景を考えたいと思います。)

矢内 雅之氏の 「多賀城政庁第Ⅳ期の軒瓦と新羅系瓦」は踏まえて、次の3枚の写真提供しておきたい。


03-令和5年度多賀城講座チラシ圧縮

(写真①)多賀城出土


(資料②)上総国出土


(資料③)韓国慶州出土










2025年1月11日土曜日

丹後国に漂着した細羅国人

  不思議なことに、貞観5年と貞観6年の両年に朝鮮半島から漂着記事が3件認められる。

(資料1)貞観5年(863)、丹後国に漂着した細羅国人54人

「先是、丹後国言、細羅国人五十四人来着竹野郡松原村、問其来由、言語不通、文書無解、其長頭屎鳥舎漢書答云、新羅東方別嶋、細羅国人也、自外更無詞。」

(資料2)貞観5年(863)、因幡国に漂着した新羅国人57人

因幡国言、新羅国人五十七人、 来着荒坂浜頭、略似商人。是日、勅給程粮、放却本蕃。」

(『日本三代実録』貞観5年(863)11月17日条 )

(資料3)貞観6年(864)、石見国に漂着した新羅人30余人

3「先是、去年新羅国人卅余人漂着石見国美乃郡海岸、死者10余人、 生者 24人。詔国司給程粮放却」(『日本三代実録』貞観6年(864)2月17日条 )


<資料1>には、丹後国竹野郡松原村に細羅国54人が漂着したとある。

この竹野は『倭名類聚抄』に「多加乃」とあり、『延喜式』に「竹野郡十四座(大一座、小十三座)」として、「大宇加神社・奈具神社・溝谷神社・久尓原神社・網野神社・依遅神社・大野神社・竹野神社・生王部神社・志布比神社・深田部神社・床尾神社・発枳神社・売布神社」とあり、『丹後国風土記』逸文奈具社条にも「復(また)竹野(たかの)の郡船木の里の奈具の村に至り」(岩波書店『日本古典文学大系・風土記』)とあるように、「タカノ」と呼ばれていたらしい。ちなみに「Taka」は「take」の被覆形。

竹野郡の郡域は、竹野川下流域北部の旧丹後町、同南部の旧弥栄町、福田川流域の旧網野町の3町にまたがり、北は日本海に面しており、約17kmの海岸線を有している。竹野郡松原村は村名としては見当たらないが、(京丹後市)網野町小字松原付近を想定して大過ないだろう。

さて、次に検討すべきは「細羅国」である。これまで無批判に新羅国と同一されてきた。しかしながら同一文中に「新羅東方別嶋」にあると説明されているので、そのまま新羅国と同一視してきた従来の見解を再検討しなくてはならない。

なお、下記のように『都氏文集』にもほぼ同文が掲載されているが、そこにも「細羅国」とあることに留意しておきたい。

『都氏文集』4「為丹州清刺史請間裁状」

 「為丹州清刺史請間裁状。

請国郡司等帯剣以備不虞状。 右此国所治危嶮。 直臨北海、 新羅㺃窟、 天霽遙見。 謹撿案内、 去貞観五年、 新羅東別嶋、 細羅国人五十余口、 舟行遭風、 漂著部下竹野郡松原村。 言上先行。 又故逐老申云、 海浦小民、 或得風濤蕩来、 衣覆器皿等。 皆殊方之讒物、 非中国之所有。 以此験之。 異賊拝城、 相去不遠。 恐有兇類、 一旦来窺。已無武備、 何以承之。 望請帯剣、 以禦非常。 謹解。」(『都氏文集』は都良香 <834-879>の作品集、現存本はいず れも三巻の残闊本)

この2例から判断するに確かに限定付きとなるとしても、「細羅国」を新羅国とは別の国と考えてよいだろう。常識的に言って、新羅の東にある別嶋」と解釈し、現在の鬱陵島に比定するのが自然である。このように記すと、多くの反論が予想される。すでに鬱陵島が新羅国に併合されていたので、その領有権は新羅だと認定してよい、と。

なるほどその推測も成立するが、はたして860年ごろまでに鬱陵島が新羅国に併合されたという記録を知らないだけに、そのまま迂闊に推断できない。この点に関しては、이재석氏が手際よく研究史を整理している。今、李氏の研究の一端を紹介すれば、我々と同様に「細羅国」を鬱陵島に比定しつつも、韓国側史料に鬱陵島は「于山国」とあるだけに、その断定は躊躇せざるを得ない。それを見据えて、이재석氏は細羅国を「江陵の古地名である何瑟羅河西良の瑟羅(西良)が 細羅」となったのではないという代案を提出している(9세기 일본 사료 속의 울릉도細羅國」『韓日関係史研究』69号、2020年、3-31頁)

 しかしながら、管見では、其のleader「長頭」である屎鳥舎漢が虚言を弄した可能性も頭の隅に置いておくべきかもしれない。なるほど原文に忠実である限り、新羅の東にある別嶋」の「嶋」を「陸地」と見直すわけにいかないのは我が立場である。現段階では鬱陵島であるという説に戻らざるを得ず、現段階では不明だと立ち往生するしかないが、その一方で天長8年(831)に日本は新羅人の来航に制限を加え、交易に管理する政策をとった(『類衆三代格』巻18、天長8年9月7日付「応検領新羅人交関物事」官符)が、すぐさま承和9年(842)年に、新羅人は貿易を目的とする一時滞在のみが許可される方式に変更された。

 それゆえに、貞観5年(863)に丹後国に漂着した54人は新羅人であるが、新羅人と名乗るわけにいかず、とっさに想像の国をでっちあげて、丹後国の郡衙に申し出たと想像しても無駄な作業だとは思えない。

 もう一つの手がかりである「其長頭屎鳥舎漢」に見るリーダー名「屎鳥舎漢」の言語学的解釈である。新羅語による漢字音推定が不可能であるだけに、その音は現代韓国語漢字音で理解するしかない。参考までに、仮にその現代音を提示すれば

*시조사한((シジョサハン)

なる。「한」を「ハン」と解することが可能であれば、이재석氏の指摘にあるように「 말미의 ‘漢’이 신라가야계 지배층의 칭호 혹은 신라의 外位에 유래를 둔 ‘干’일 가능성을 언급하였다.」を想定しても良いかもしれない。新羅の官位制にある大角干とか大舎・舎知だけではなく、『日本書紀』の

*「微叱己知波珍岐」(神功摂政前紀・10月)

*「 上臣伊叱夫禮智岐 」(継体紀・23年・4月)

に認める「干」を「ハン」と読むならば、あながち無関係ではないと思える。

 ちなみに、この当時に、細羅国からの漂着者を取り調べ、滞在させた公館は、京丹後市網野町横枕にある横枕遺跡であったと推定されている(伊野近富「丹後の迎賓館」『京都府埋蔵文化財論集』第6集、2010年、291-298頁) 論集第6集.indb


最後に言及したいのは、新羅の船舶形態である。

「令下二大宰府新羅船。以能堪風波也」(『続日本後紀』承和六年(839)七月丙申)

などのように、新羅船は荒海に強い船舶だと知られていたようである。しかしながら、重要なのは54人が乗船した船舶であった事実である。少なくとも小型船舶ではなく、50人以上が乗船できるサイズの船舶であった。しかし現段階で正確な新羅船を再現できる材料に不足している。


 ちなみに<資料1>中に「言語不通、文書無解」とある以上、新羅語(ましてや細羅語)を解する日本人が見当らなかったからである。

 *「 太政官符 、応停対馬嶋史生一員置新羅譯語一人事、 右 大宰府解 、新羅之船来着件嶋、言語不通、来由難審、彼 此相疑、濫加殺害、望請、 史生一人置件譯語者、右大臣宣、 弘仁四年九月廿九日 」(『類聚三代格』巻五・弘仁4年<813>九月廿九日官符)

を想起すべきだろう。だが、細羅国人と日本人との間のコミニケーションが不可能であったわけではいい。当時の東アジアにおいて、漢文は共通言語であった。つまり漢文による筆談であれば、相互は意思疎通にほとんど不便はなかった事にも、我々は留意しておきたい。





S<参考資料1>


詳細

URLhttps://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFKJ32000100
木簡番号546
本文旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
寸法(mm)191
13
厚さ2
型式番号031
出典荷札集成-156(藤原宮2-546・日本古代木簡選・飛4-4下(8))
文字説明 
形状 
樹種ヒノキ科♯
木取り板目
遺跡名藤原宮跡大極殿院北方
所在地奈良県橿原市醍醐町
調査主体奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
発掘次数藤原宮第20次
遺構番号SD1901A
地区名6AJFKJ32
内容分類荷札
国郡郷里丹後国竹野郡鳥取郷旦波国竹野評鳥取里
人名 
和暦 
西暦 
木簡説明贄についての貢進物の荷札。旦浪国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

■研究文献情報