2024年10月25日金曜日

北部九州に「長煙道カマドを敷設する竪穴住居」が存在するか?

 「俘囚」という言葉がある。その初見は『続日本紀』神亀2年(725)閏正月4日条の

閏正月,丙戌朔己丑,陸奧國俘囚百卌四人配于伊豫國,五百七十八人配于筑紫,十五人配于和泉監焉」

である。

周知のとおり、俘囚が日本全国に移配されたことは、『延喜式』主税式諸国本稲条にある「俘囚料」によって確認される。この数字自体は周知の事実であるので、ことさら列挙するまでもないが、ここでは肥後国・常陸国・下野国の3国が特に多いことを確認したい。

(1)東海道

①常陸 100000

②下総 20000

③上総 25000

④武蔵 30000

⑤相模 28600

⑥甲斐 50000

⑦駿河 200

⑧遠江 26800

⑨伊勢 1000


(2)東山道

①下野 100000

②上野 10000

③信濃 3000

④美濃 41000

⑤近江 10500

(3)北陸

①佐渡 2000

②越後 9000

③越中 13433

④加賀 5000

⑤越前 10000

(4)山陰道

①出雲 13000

②伯耆 13000

③因幡 6000

(5)山陽道

①備中 3000

②備前 4340

③美作 10000

④播磨 75000

(6)南海

①土佐 32688

②伊予 20000

③讃岐 10000

(7)西海道

①日向 1101

②豊後 39370

③肥後 173435

④肥前 13090

⑤筑後 44062

⑥筑前 57370


さて、ここで論点を変換したい。栗田則久著「集落からみた俘囚移配の様相(予察)ー上総の長煙道カマドの検討から」に注目する。栗田氏の着眼点は、

*「俘囚の痕跡を示す長煙道カマドをもつ竪穴住居」(30頁)

である。この仮説の下に、

「①それまで空閑地であった台地上に開発を伴って新たな集落が形成され、その出現時期は8世紀中頃以降となる。

②遺跡内あるいは周辺に寺院が営まれる

③製鉄や土器焼成といった生産遺構が伴う」(37頁)

とまで推測している。

この栗田説を前提として、上総国以外にも視野を広げて、もっとも俘囚料が多い熊本県や下総国に俘囚の人々が居住した集落を探索しても面白いかもしれない。

ところで、なぜ東北地方から遠く離れた肥後国に俘囚が最も多く移配されたのだろうか。





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