2024年10月30日水曜日

隠岐国の大きな甕

 隠岐国正税帳(天平元年)には、

「古酒2腹 (員9石5斗5升7合、雑用4石2斗7斗4合)」

の記事を見る。

①中国ーー「新嘉量」の1斗は約11

②奈良時代「1合は約84ml、合―升ー斗ー丈」(典拠:福岡市博物館

https://search.app/57cJJrQfywv9uQcW7)<現在、1合は180ml>

③奈良文化財研究所では1合は約80ml

(30)古代の計量カップ - なぶんけんブログ

此の数式によると、隠岐島に802.788リットルの巨大な酒甕が存在したらしい。その酒蔵は甕据付穴とみられる土坑を内部に有する建物であっただろう。


なお、佐藤祐花氏によると、福岡市西区桑原遺跡出土の「コップ型須恵器は約700ml」入るという。何のエビデンスもない想像に過ぎないが、1升用の志摩地方独自の甕ではないだろうか。




2024年10月26日土曜日

大宰府に存在した工房

 『延喜式』などの各種資料から列挙すれば、大宰府に多くの所司が存在した。竹内理三氏の研究を嚆矢として、松川博一氏や倉住靖彦氏・小田和利氏らの研究によって、主に文献研究から28所司の存在が想定されるという。その研究史に関しては、重松氏の論考に譲りたい。

①作紙所

②作物所

③貢上染物所(森公章氏や小田和利氏は太宰府市不丁地区に現業部署の存在を推定。「大宰府の官衙」1203頁他)

④匠司(小田和利氏説「来木地区」)

⑤修理器仗所

⑥主工司(註:重松敏彦氏はその存在を否定)

等の名を確認できる。もちろん、今となってはその場所を太宰府市内に特定できないが、考古学者の情報提供によって、引き続きその場所を知る手掛かりを探し求めたい。


<参考文献:重松敏彦「大宰府所司の形成過程とその運営体制」年報太宰府学第17号.indd

井上辰雄先生の表(大宰府の官人構成と役員人事)とケアレスミス

井上辰雄先生ご作成表を下記に写真で掲載した。この表は、大宰府で開催された大友旅人主催の有名な「梅花の歌32首」(万葉集巻5)に関するだけに、何度も別な資料に転載されたので、世間によく知られている。しかしながら、子細に表を検討すると、井上先生ご作成であっても、残念ながらケアレスミスががあり、迂闊に転載できないことを、本欄で紹介したい。
賢明な識者であれば、すぐに見抜けるので、あえてここでは正解を記載しないでおこう。

なお私がこの表に興味を持つのは、博士欄の「音博士大初位山背連『靺鞨』」にある。この件は、別に説明することとしたい。




この表そのものは広く知られているので、あえて写真にて紹介する。井上辰雄先生作成である。

なお私がこの表に興味を持つのは、博士欄の「音博士大初位山背連『靺鞨』」にある。この件は、別に説明することとしたい。

 

2024年10月25日金曜日

北部九州に「長煙道カマドを敷設する竪穴住居」が存在するか?

 「俘囚」という言葉がある。その初見は『続日本紀』神亀2年(725)閏正月4日条の

閏正月,丙戌朔己丑,陸奧國俘囚百卌四人配于伊豫國,五百七十八人配于筑紫,十五人配于和泉監焉」

である。

周知のとおり、俘囚が日本全国に移配されたことは、『延喜式』主税式諸国本稲条にある「俘囚料」によって確認される。この数字自体は周知の事実であるので、ことさら列挙するまでもないが、ここでは肥後国・常陸国・下野国の3国が特に多いことを確認したい。

(1)東海道

①常陸 100000

②下総 20000

③上総 25000

④武蔵 30000

⑤相模 28600

⑥甲斐 50000

⑦駿河 200

⑧遠江 26800

⑨伊勢 1000


(2)東山道

①下野 100000

②上野 10000

③信濃 3000

④美濃 41000

⑤近江 10500

(3)北陸

①佐渡 2000

②越後 9000

③越中 13433

④加賀 5000

⑤越前 10000

(4)山陰道

①出雲 13000

②伯耆 13000

③因幡 6000

(5)山陽道

①備中 3000

②備前 4340

③美作 10000

④播磨 75000

(6)南海

①土佐 32688

②伊予 20000

③讃岐 10000

(7)西海道

①日向 1101

②豊後 39370

③肥後 173435

④肥前 13090

⑤筑後 44062

⑥筑前 57370


さて、ここで論点を変換したい。栗田則久著「集落からみた俘囚移配の様相(予察)ー上総の長煙道カマドの検討から」に注目する。栗田氏の着眼点は、

*「俘囚の痕跡を示す長煙道カマドをもつ竪穴住居」(30頁)

である。この仮説の下に、

「①それまで空閑地であった台地上に開発を伴って新たな集落が形成され、その出現時期は8世紀中頃以降となる。

②遺跡内あるいは周辺に寺院が営まれる

③製鉄や土器焼成といった生産遺構が伴う」(37頁)

とまで推測している。

この栗田説を前提として、上総国以外にも視野を広げて、もっとも俘囚料が多い熊本県や下総国に俘囚の人々が居住した集落を探索しても面白いかもしれない。

ところで、なぜ東北地方から遠く離れた肥後国に俘囚が最も多く移配されたのだろうか。





2024年10月16日水曜日

福田良輔先生の仮説→万葉集に蝦夷系作者35人の歌群あり

 元台北帝国大学助教授、九州大学教授であった福田良輔先生の名は、もはや過ぎし日の日本語研究者としか知られていない。しかしながら、一見しては万葉集の東歌研究とは想定しがたい

高著『奈良時代東国方言の研究』風間書院

を一読すると、その二刀流の名手福田ワールドに瞠目させられる。

その一例。万葉集には、いわゆる防人歌と称される一群がある。

福田先生の調査によると、作者の名が判明できるのは、「同一人で2首の作者が常陸国に3人あるから、81人」(84頁)だという。興味深いのは、その中の35人が「蝦夷部曲出自、夷種系(ただ一代でも蝦夷族と混血した経験ある氏をもふくめていう)と目される部」だという推定である。

この仮説に多くの国文学者が無関心であることは寂しい。不勉強のそしりを免れないだろう。