「俘囚」という言葉がある。その初見は『続日本紀』神亀2年(725)閏正月4日条の
「閏正月,丙戌朔己丑,陸奧國俘囚百卌四人配于伊豫國,五百七十八人配于筑紫,十五人配于和泉監焉」
である。
周知のとおり、俘囚が日本全国に移配されたことは、『延喜式』主税式諸国本稲条にある「俘囚料」によって確認される。この数字自体は周知の事実であるので、ことさら列挙するまでもないが、ここでは肥後国・常陸国・下野国の3国が特に多いことを確認したい。
(1)東海道
①常陸 100000
②下総 20000
③上総 25000
④武蔵 30000
⑤相模 28600
⑥甲斐 50000
⑦駿河 200
⑧遠江 26800
⑨伊勢 1000
(2)東山道
①下野 100000
②上野 10000
③信濃 3000
④美濃 41000
⑤近江 10500
(3)北陸
①佐渡 2000
②越後 9000
③越中 13433
④加賀 5000
⑤越前 10000
(4)山陰道
①出雲 13000
②伯耆 13000
③因幡 6000
(5)山陽道
①備中 3000
②備前 4340
③美作 10000
④播磨 75000
(6)南海
①土佐 32688
②伊予 20000
③讃岐 10000
(7)西海道
①日向 1101
②豊後 39370
③肥後 173435
④肥前 13090
⑤筑後 44062
⑥筑前 57370
さて、ここで論点を変換したい。栗田則久著「集落からみた俘囚移配の様相(予察)ー上総の長煙道カマドの検討から」に注目する。栗田氏の着眼点は、
*「俘囚の痕跡を示す長煙道カマドをもつ竪穴住居」(30頁)
である。この仮説の下に、
「①それまで空閑地であった台地上に開発を伴って新たな集落が形成され、その出現時期は8世紀中頃以降となる。
②遺跡内あるいは周辺に寺院が営まれる
③製鉄や土器焼成といった生産遺構が伴う」(37頁)
とまで推測している。
この栗田説を前提として、上総国以外にも視野を広げて、もっとも俘囚料が多い熊本県や下総国に俘囚の人々が居住した集落を探索しても面白いかもしれない。
ところで、なぜ東北地方から遠く離れた肥後国に俘囚が最も多く移配されたのだろうか。