2024年9月8日日曜日

佐賀県藤津郡ーー「藤津郡領葛津貞津」の「葛津氏」に関して

『日本三代実録』貞観8年 (866)7月15日条に「

「藤津郡領葛津貞津」

とある。この藤津郡が佐賀県藤津郡(肥前国藤津郡)であることは周知のとおりである。

 『肥前国風土記』 藤津郡

 「能美郷。 〈在郡東。 〉昔者、纏向日代宮御宇天皇、行幸之時、此里有土蜘蛛三人。 〈兄名大白、次名中白、弟名少白。 〉此人等、造堡隠居、 不肯降服。爾時、 遣

陪従 紀直等祖穉日子、 以且誅滅。 於茲、大白等三人、但叩頭、陳己罪過、共乞更生。因曰能美郷。」

によって、定説化されている。

さて、『先代旧事本紀』 巻10,『国造本紀』葛津立国造条に、

  葛津立国造   志賀高穴穂朝御世、紀直同祖、 大名草彦命児若彦命、 定賜国造

に見るように、肥前国藤津郡は葛津立国造が支配する地域であった。ここに「紀直同祖」とあるように、

『国造本紀』石見国造条に、

「石見国造    瑞籬朝御世、紀伊国造同祖、 蔭佐奈朝命児大屋古命、 定賜国造。 ]

にもあるように、石見国造とも同祖である。

そもそも『国造本紀』紀伊国造条に、

紀伊国造 橿原朝御世、神皇産霊命五世孫、天道根命定賜国造。 

と同一な氏族であり、本宗が紀伊国造であると信じられていたらしい。

しかしながら、紀伊国造もしくは紀伊直を本宗とする一族は、『国造本紀』だけでも以下の地域を確認できる。


大伯国造 軽嶋豊明朝御世、神魂命七世孫佐紀足尼、定賜国造。 

吉備中県国造 瑞籬朝御世、神魂命十世孫明石彦、定賜国造。 (備中国)

阿武国造 纏向日代朝御世、神魂命十姓孫味波々命、定賜国造。(長門国)

淡道国造 難波高津朝御世、神皇産霊尊九世孫矢口足尼、定賜国造。 (淡路国)

久味国造 軽嶋豊明朝御世、神魂尊十三世孫伊与主命、定賜国造。(伊予国)

天草国造 志賀高穴穂朝御世、神魂十三世孫建嶋松命、定賜国造。(肥後国)

さらに『新撰姓氏録』などによると、

①和泉国神別

②河内国神別

③大和国神別

④右京神別

⑤左京神別

⑥山城国神別

⑦摂津国神別

などに広く紀直氏同族が分布していた。

 そもそも紀直氏は紀ノ川中流域の豪族であったが、紀ノ川河口地域へ進出することで、大和王権と歩調を合わせる形で、王権の対外交渉役を担当するようになり、

『日本書紀』敏達12年 (583) 7月丁酉朔条に

「 詔曰。属我先考天皇之世。新羅滅内官家之国。〈天国排開広庭天皇廿三年任那為新羅所滅。故云新羅滅我内官家也。〉先考天皇謀復任那。不果而崩。不成其志。是以朕当奉助神謀復中興任那。今在百済、火葦北国造阿利斯登子。達率日羅賢而有勇。故朕欲与其人相計。乃遣紀国造押勝与吉備海部直羽嶋喚於百済

とあり、また『日本書紀』敏達十二年(五八三)十月条

「紀国造押勝等還自百済。復命於朝曰。百済国主奉惜日羅不肯聴上。」

とある記事に見るように、大和王権の命を受けて、紀伊国造押勝が対外交渉の一翼を担うまでに勢力を拡大したと考える。

 われらの視点を有明海周辺に戻すならば、出典は異なるものの、

葛津立国造   志賀高穴穂朝御世、紀直同祖、 大名草彦命児若彦命、 定賜国造

天草国造 志賀高穴穂朝御世、神魂十三世孫建嶋松命、定賜国造。(肥後国)

に認めるように

*OO国造   志賀高穴穂朝御世、△△、 □□命、 定賜国造

の類型に気付く。ここで仮説を提出するならば志賀高穴穂朝 (成務朝)に、あたかも有明海周辺の諸豪族が紀直氏の同族連合を形成していると想定できないだろうか。確かに志賀高穴穂朝 (成務朝)に遡るには時代が古すぎるが、始祖伝承に必要なのは史実ではなく、皆が納得する「神話時代(あったかもしれないし、なかったかもしれない時代)」である。肥前国葛津地域そして肥後国天草の有力豪族が紀直氏の同地域進出の尖兵となり、紀直氏と同族となることで、大和政権における対外交渉有力メンバーと擬制的血縁関係を結ぶとともに、その対価として国造に任命されたにちがいない。とうぜんながら、紀直氏らの勢力は拡大することで、相互にWin-Win関係となったはずである。


 

 







国造が屯倉の管理を行っていたならば、



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