『続日本紀』神護景雲3年(769)8月条に、
「丙辰、始置大宰府綾師」
とある。綾錦はハイクラスの絹織物である。
そもそも『続日本紀』和銅5年(712)閏6月丁巳条に
「令伊勢、尾張、參河、駿河、伊豆、近江、越前、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、備中、備後、安藝、紀伊、阿波、伊豫、讚岐等廿一國,始織綾錦。」
それだけに57年後に大宰府内に「綾師」を配置し、九州各地に綾錦紡織技術の普及を開始することになったのは、全国的に見るとかなり時間を要している。
しかしながら、なぜ、「神護景雲3年(769)8月」かの理由を推定しても良いのではないだろうか。なるほどそれを実証する具体的史料はないだけに、傍証を探し求めて、仮説を打ち出すしかない。それゆえに、まずは
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